第六十九話 背中にいるもの
グレンやガイアたちが作戦準備に散り、陣の喧騒も静まり始めた頃。
波音が響く岩陰で、ラルは小さな手燈の明かりを頼りに、防水袋の中身をひとつずつ確かめていた。薬瓶、包帯、油布。一夜後に待つ『死の箱庭』への潜入に備え、使えるものはひとつでも多く整えておきたかった。
「……ラル。まだ起きてたの?」
背後から不意に声が落ち、ラルは手を止めて振り返る。
立っていたのは、服の下に新しい包帯を巻いたケセナだった。夜巡りの潮風に金髪が揺れ、琥珀色の瞳には不安を隠しきれない影があった。
「ケセナこそ」
呆れたように息をつきながら、ラルは隣の岩を軽く叩いた。
ケセナは素直に腰を下ろし、膝を抱えるようにして身を丸める。
「……目を閉じると、地下室を思い出すんだ。うまく眠れそうにない」
ぽつりと零れた声に、ラルは胸の奥を掴まれたような心地がした。
先ほど薬を塗った背には、無数の傷が這っていた。古傷なんて言葉では足りない。皮膚の下にまで、長い痛みが染みついているような傷だった。ケセナが過ごしてきた地獄の星霜を、ラルは自分の指先で知ってしまっていた。
「……ベラリティル本宅。本当に行くの?」
問いかけると、ケセナはゆっくり頷いた。
「あそこを通らないと、みんなが死ぬから」
「……怖くない?」
「怖いよ」
ケセナは自分の腕をきつく抱き締めた。
「また、あの暗闇の中で、言葉も知らない『僕』に戻るんじゃないかって思う。……すごく、怖い」
飾り気のない恐怖の吐露だった。
ラルは包帯を置き、街道の先へ目を向ける。視線の先には、黒く沈んだ皇都オーレルディアがあった。
「……あたしの両親を殺したのは、元皇妃ノヴェリアだった。麒麟族の力も、復権も、都合よく使い潰した」
静かな口調で、ラルは言った。
「あの皇都は、あたしから全部奪った場所。だから分かる。自分を壊した場所へ、自分の足で戻るのがどれだけ怖いか」
慰めのための言葉ではなかった。
同じ都に人生を傷つけられた者だからこそ、口にできる言葉だった。
ケセナが瞬きをして見上げると、ラルは僅かに口元を緩め、その金髪を少し乱暴なくらいにくしゃりと撫でた。
「でも、ケセナはもう、あの頃みたいに一人じゃない」
「ラル……」
「ケセナの背中は、あたしたちが守る」
ラルは真正面からケセナを見た。
揺るがない声だった。
「もう二度と、一人で泣かせない。震えてもいいから、前だけ見て歩いて。あたしたちが、ちゃんと後ろにいる」
「王様とか言われるより、そっちの方が嬉しい」
照れたようにケセナが笑う。
その小さな笑みに、ラルもつられて肩の力を抜いた。
「一緒に行こう、ケセナ」
火の熱とは違う温もりが、冷え切っていた心の奥へ染みていく。
背中には、痛みを知った仲間がいる。
「……うん。ありがとう、ラル」
ケセナは抱えていた腕を解き、彼らしい、真っ直ぐな笑顔を見せた。
波音が静かに二人の間を満たす。
その笑顔を見た瞬間、ラルの胸が痛んだ。
この笑顔を、これ以上、嘘で守ることはできないと思った。
伝えなければならない。
昼巡りの始まりとともに死地へ向かう前に。もう先延ばしにはできない。
しばしの沈黙ののち、ラルは視線を膝へ落とし、指先に力を込めた。
「……ねえ、ケセナ」
「うん?」
「ずっと言えなかったことがある。プラウのこと」
その名に、ケセナの琥珀色の瞳が微かに揺れる。
ラルは懺悔するように、言葉を絞り出した。
「レイア様の別宅で、ケセナの胸と背中が貫かれた、あの刻……もう駄目かもしれないって思ったあの場で……プラウが、レイア様の幻影術を破るために――」
喉が震える。
「……力を貸してくれたプラークルウは、消えた」
「……え」
短く漏れた声は、あまりにも掠れていた。
ケセナの目が見開かれたまま、動かなくなる。
「伝えるのが遅くなって、ごめん」
ラルの目にも涙が滲んだ。
それでも逃げずに、託された最後の言葉を口にする。
「プラウからの伝言。『一緒に旅ができて、楽しかった』……そう言ってた」
ケセナはすぐには何も言えなかった。
ただ、琥珀色の瞳から、涙が頬を伝って落ちる。
いつも文句ばかりで、口は悪くて。けれど誰よりも近くで、自分を守り続けてくれた小さな剣の精霊。
その存在が、もうどこにもいないという事実だけが、遅れて胸を抉っていく。
ケセナは膝に顔を埋めた。
声を殺し、ただ黙ったまま泣き続ける。
あの騒々しい声が、もう二度と響かない。
その静けさを、噛み締めるように。
ラルもまた、彼の背にそっと手を添えた。
かける言葉はない。ただ、隣にいることだけはやめなかった。
「……よし。もう終わり」
どれほどの刻、そうしていたのか。
先に顔を上げたのはラルだった。目元を乱暴に拭い、わざと明るい声を作る。
「一夜後、寝不足で足引っ張ったら、蹴る」
「……わ、分かった。おやすみ、ラル」
腫れた目をこすりながら、ケセナも苦く笑って立ち上がる。
プラークルウを失った悲しみは消えない。ただ、もう一人で抱える悲しみではなくなった。
天幕へ戻っていく細い背を見送り、ラルはひとつ息を吐いた。
それから、震えの残る指で、再び備品の整理へ手を戻した。
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ケセナとラルが天幕の奥で眠りについた頃。
外の街道の上には、波音と、規則正しく響く硬い金属音だけが残っていた。
焚き火の残る明かりを頼りに、グレンが黒剣へ砥石を当てている。
その隣では、ガイアも胡座をかき、短剣を布で入念に磨き上げていた。
「……悪いな、ガイア」
グレンが手元を見たまま低く言う。
「一番厄介な役目を押しつけた」
「何言ってんだよ、先生。それより、兄貴のこと」
「……ああ。あれはもういい。ビャクレンは、最後まで玄武の長だった。それだけだ」
「そーかい。じゃ、目先の話するぜ」
ガイアはようやく手を止め、磨き上げた短剣を膝の上に置いた。焚き火の残り火が刃に鈍く映り、赤い瞳の奥には、それとは別の熱が静かに燃えていた。
「朱雀の炎は、一番厄介な場所でこそ燃える。あの箱庭ごと焼けるだけの火力は、うちの連中しか持ってねぇ」
虚勢ではない。
誇りと自負を、そのまま形にしたような声だった。
それでもグレンの面差しは晴れない。
「城門の防衛は、オウセイが五千星霜前に想定した対軍用の殲滅機構だ。魔人がどう手を加えているかは分からん。朱雀の精鋭でも、無傷では済まないぞ」
「だから上等なんだって」
ガイアは磨き終えた短剣を鞘へ納め、乾いた音を鳴らした。
「誰かにやらされて戦うなら、とっくに逃げてる。俺たちは、自分で決めて立ってる。あの甘ったれを守りたいから、前に出るんだ」
視線の先には天幕があった。
揺れる布の向こうで眠るケセナを思い、ガイアはわずかに目を細める。
「それに――」
ガイアが焚き火越しに笑う。
「俺の女が見てる前で、罠にびびって無様に死ねるかよ」
その一言に、グレンはわずかに目を見開き、やがて低く笑った。
「……その女は、ファルの方をよく見ているがな」
「先生、ほんと嫌なとこ突くな」
顔をしかめるガイアに、グレンは肩を揺らして笑う。
だが、笑みが収まると、若き将を見つめる目はどこか穏やかだった。
「いい男になったな、ガイア」
「は? 何だよ急に。……つーか、前からだろ」
「そうだな。前からだ」
グレンは目を細めた。
「泥を這っていた頃の俺からすれば、お前みたいな真っ直ぐな将に率いられる朱雀の連中が、少し羨ましく見えただけだ」
剣を布で拭い、鞘へ納める。
それから立ち上がり、漆黒の外套を翻すと、グレンは座ったままのガイアを見下ろした。
「城門の攻略、頼んだ。……死ぬなよ、朱雀の長」
「誰に言ってんだよ」
ガイアも口元を吊り上げる。
「ファルの背中、ちゃんと守れよ、元騎士団長殿」
それだけで十分だった。
グレンは短く頷き、天幕の方へ歩き去る。
一人残ったガイアは、揺れる炎を見つめたまま目を細めた。
昼巡りの始まりを迎えれば、死の箱庭を焼き尽くす。そのための魔力を、静かに、深く練り上げていく。
冷たい潮風が火の粉を攫い、空へ運んでいく。
夜巡りが明ければ、死の箱庭へ踏み込む昼巡りが来る。




