第六十八話 殺すための都
補給部隊から融通された薪が、焚き火の中で赤々と燃えている。
度重なる無理で軋み、海水で芯まで冷え切ったケセナたちの身体を、その熱が少しずつほぐしていった。
「はい、終わり。無理に動かしちゃ駄目」
街道を行き交う兵たちの目に触れぬよう、ラルは外套を広げ、自らの身体でケセナを隠していた。
背の傷へ塗っていた軟膏の手を止め、清潔な布で傷口を覆う。最後にずれがないか確かめる指先だけが、かすかに震えていた。
ケセナの肌を這う無数の傷跡を前にしても、ラルは手を止めなかった。
憐れみも怯えも見せず、ただ必要な処置だけを続ける。
それが、ケセナには救いだった。
「うん。……ありがとう、ラル」
乾き始めた上着に袖を通しかけたケセナへ、ラルはすぐに言葉を返さなかった。
軟膏の蓋を閉じる手を止め、少しだけ視線を伏せる。
「……ケセナ。さっきのオウセイの魔法で、精霊が泣いてた」
ケセナの肩が、かすかに強張った。
焚き火の爆ぜる音が、二人の間を埋める。
「あれがなかったら、みんな死んでたかもしれない。必要だったのは分かってる。でも……嫌」
ラルの声は小さい。
けれど、曖昧ではなかった。
ケセナは、しばらく何も言えなかった。
自分の意思で放った魔法ではない。けれど、自分の身体を通して精霊を傷つけたことに変わりはない。
「……覚えておく。でも、魔人がどこまで入り込んでるか分からない以上、使わないって約束はできない。その刻は許してくれる?」
ラルは、しばらく沈黙していた。
軟膏の蓋を握る指が、きゅっと強ばる。
「……許せない。だけど、『使わないで』とは言ってない」
ケセナは言葉を失い、伏せた睫毛をかすかに震わせた。ラルの紫の瞳は、地面を見つめたままだ。
「……うん」
ラルは、許すとは言わなかった。
精霊を踏みにじるあの力を、平気で受け入れるつもりもない。
それでも、必要な判断の痛みをケセナ一人へ押しつけるつもりもなかった。
ラルは道具を防水袋へしまい、ようやく小さく息を吐く。
透明な結界筒の壁越しに荒れる海が見え、焚き火の明かりが金の髪を柔らかく照らしていた。
「手当ては済んだか」
街道の闇から、低く威厳ある声が響いた。
軍靴を鳴らして現れたのは、同盟軍を率いる白虎族長、レイアだった。
「見事な働きだったな、『王の剣』。おかげで鉄火の門は落ちた。休ませてやりたいところだが、まだ終わってはおらん。ツェヴァンが軍議の天幕で待っている。来い」
レイアに導かれ、街道脇に設営された同盟軍本陣へ足を向ける。
その折だった。
「ファルぅぅぅぅぅっ!! 無事でよかったぁぁぁっ!!」
陣の奥から、けたたましい叫びとともに兵の間を縫って突進してくる影があった。
キョウが感極まった顔で両腕を広げ、そのままケセナへ飛びつこうとする。
「あ、キョウ――」
ケセナが応じかけた刹那。
「傷が開く!」
ラルがケセナの外套の襟を掴み、容赦なく横へ引き倒した。
「えっ!? ファル!? あああああっ!? うぎゃあっ!」
獲物を失ったキョウは勢いを殺しきれず、そのまま石畳へ顔から突っ込んだ。
「……っ、痛ぁ……ラル、もう少し手加減ってものは……」
地面に転がったままケセナが涙目で抗議すると、ラルは石畳に倒れ込んだキョウを一瞥し、
「あっちにぶつかられてたら、もっと酷かった」
と冷ややかに言い放つ。
「それは……そうかもしれないけど……」
「黙って」
助けられたのか、八つ当たりされたのか分からないまま、ケセナが身を起こしかけたところへ、レイアの怒号が天幕の列を震わせた。
「貴様ら、戦場のど真ん中で何をしている!!」
ラルがぴたりと動きを止め、土まみれのキョウもびくりと肩を跳ねさせる。
二人を冷えた眼差しで見下ろし、レイアは苛立たしげに顎をしゃくった。
「ラルと、そこの泥まみれの小娘は外で待機だ。男どもは中へ入れ」
------
ツェヴァンの待つ巨大な天幕の中央には、一枚ものの広域地図が広げられていた。
四獣の長とグレン、ケセナがそれを囲み、重たい沈黙が場を支配している。
「……さて。門は破った。じゃが、本当の難所はここからじゃのう」
ツェヴァンが白く長い髭を撫でながら、地図の中心を指した。
皇都オーレルディア。
海上にそびえる巨大要塞都市。その姿は、地図の上からでも威圧感を放っていた。
巨大な岩山を丸ごと削り出して築かれた都は、切り立った断崖に囲まれている。人がよじ登れる余地はない。
絶壁の中腹には生活排水を流す水路が口を開けている。だが、その先がどこへ続くのか、同盟軍には分からなかった。
「どこへ繋がるかも知れぬ穴へ兵を送り込むなど、自殺と変わらん。……被害を呑むほかない。正面の大橋から押し切るべきだ」
腕を組んだレイアが、苦々しい面持ちで言い切る。
だが、それでは犠牲が大きすぎる。魔人に掌握された皇都の正面防衛は、鉄火の門をはるかに上回るはずだった。
「どうじゃ。何か内部へ潜り込む手立てはないのかのう、元騎士団長殿」
ツェヴァンの細い目が、鋭い光を隠したままグレンへ向く。
「……ない」
グレンは地図から目を離さず、重く首を振った。
「俺が知る抜け道も、魔人の手に落ちた以上、罠が張られていると見るべきだ。水路の正確な構造は皇城の最奥に属する秘匿だ。把握しておられるのは、リュウショウ様くらいのものだった」
そこでグレンは、地図上の皇都外郭へ視線を落とした。
「正面突破そのものは不可能ではない。だが、被害は甚大になる。第三城門までの街路と広場は、侵入した敵を押し留め、上から叩き潰すための造りだ。騎士団長として、その防衛構造は把握している。……ただ、俺が知っているのは運用側の情報だけだ。仕掛けの根幹や、隠し通路までは分からん」
強行突破か。
それとも、どこへ続くかも分からない水路へ兵を送るか。
軍議が行き詰まりかけたところで、地図を凝視していたケセナが、おずおずと口を開いた。
「あの……水路は、人が通れる広さじゃない。だから……そこは諦めた方がいい」
「ほう、救世主の記憶か」
レイアが感嘆の声を上げると、ケセナはこくりと頷いた。
「方法が一つだけある。……その、皇都オーレルディアの初期設計は、俺がやった。基本構造なら全部、頭に入ってる」
天幕の空気が、音もなく凍りつく。
「五千星霜前の蒼髪の救世主殿が、直々に建造をのぅ」
「あの陰気な死に損ない、そんなことまでやってたのか」
ツェヴァンが目を細め、グレンが低く吐き捨てる。
ケセナは小さく息を吸うと、迷いを振り払うように声を整えた。
「うん。オーレルディアは、外敵を拒むために異様なほど強固に造ってある。第三城門まではグレンさんの言った通り、侵入してきた敵を広場へ誘い込み、壁上から一気に叩き潰す構造だ」
誰一人、口を挟まない。
ケセナは険しい表情で続けた。
「問題は第三城門の仕掛けだけど、そこは俺がどうにかする。その先は一直線だ。けど、何か起これば、騎士団と魔術団の全戦力を集中させる造りになっている。第三城門を越えた敵は、そこで確実に潰す」
淡々と語られる「殺すための都」の構造に、軍議の場へ冷たい緊張が走った。
「……なるほど。正面から雪崩れ込めば、同盟軍の主力は広場で磨り潰されるか」
「うわ……えげつな……」
「……反省はしてる」
レイアがわずかに眉をひそめ、ガイアが引きつった顔で呻く。
かつて自分が描いた凶悪な設計思想に、ケセナも気まずそうに視線を伏せた。
「じゃが、それを知っておるなら、内部へ潜り込むための道も把握しておるのじゃろう?」
ツェヴァンの問いに、ケセナの表情が再び固くなる。
「……うん。正面部隊が第三城門付近まで敵を引きつけてくれれば、そこから先は別だ。第三城門の内側、ベラリティル本宅の地下には、皇宮へ通じる隠し通路が残っている」
震える指が、地図の一点へ落ちた。
「あれは本来、皇宮から要人を逃がすために、五千星霜前に造った避難路だ。後から建てられたベラリティル本宅が入口の上を呑み込み、今は地下室の奥へ隠されている。……陛下の私室まで、真っ直ぐに繋がってる」
そこに記された地名を見た途端、グレンとガイアの顔から、さっと血の気が引く。
第三城門の内側。
世界随一の術師名家であり、幼いファルイーアを三星霜齢に至るまで、実験体として閉じ込めていた場所。
ベラリティル家、本宅。
地図上の地名を指差すケセナの鼻腔には、あの地下室の黴臭さと、焼け焦げた肉と腐臭の混じる匂いが、幻臭となって生々しく蘇っていた。
「認めん」
グレンの声は、即座に落ちた。
低く、硬く、刃よりも冷たい声だった。
「駄目だ。他を探す。ケセナ、お前をあそこへ行かせるわけにはいかない」
「でも、そこしかないんだ! 正面突破なんて絶対に無理だ。造った俺が言うのも変だけど……あそこは、軍を丸ごと潰すつもりで組んである!」
青褪めたまま、ケセナが必死に食い下がる。
数え切れぬ兵の命が、自分の造った箱庭で砕かれる。止めるには、自分があの地獄を踏み抜くしかない。
「これしか……ない」
細く震える声が落ちる。
天幕の中は水を打ったように静まり返った。
沈黙を破ったのは、レイアだった。
「……決まりだな。本人が行くと言っている」
そう告げてから、白虎の長は真正面からケセナを見た。
「そうだろう。王よ」
同盟軍の長として。
そして一人の武人として、退かぬ覚悟を問う声だった。
ケセナの身体は、まだかすかに震えている。記憶の底に沈んだ恐怖が、皮膚の下を這い回っていた。
それでも。
「……はい」
彼は確かに頷いた。
琥珀色の瞳はもう逸れない。見ているのは、恐怖でも過去でもなく、その先にある未来だけだった。
その眼差しを受け、グレンは深く息を吐く。
(鉄火の門でデメンスの音に怯えていたというのに……)
納得はできない。
だが、ケセナの顔には決意があった。
こうなればケセナは決して折れず、進み出す。
ならば、その背を守る。それが自分の役割だと、グレンは肩の力を抜いた。
「……分かった。なら、前線には精鋭を置く。ガイア、任せられるか」
グレンの問いに、ガイアは獰猛な獣のように口端を吊り上げた。
「任せろ。朱雀の精鋭ごと、あの箱庭の罠をまとめて焼き払ってやる」
方針は定まった。
正面の死地で同盟軍が敵を釘付けにし、その隙にベラリティル本宅の地下から皇宮へ潜入する。
「作戦決行は、一夜を経た昼巡りの始まりだ。それまで身体を休めておけ」
レイアの力強い号令とともに、皇都オーレルディア奪還へ向けた、最後にして最も過酷な軍議は幕を閉じた。




