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第六十七話 あの地下にはいない

 轟音は、ようやく遠ざかっていった。荒れ狂う海へ降り注いでいた瓦礫の雨も、じわじわと勢いを失っていく。

 五千星霜の歴史を誇った絶対防衛拠点『鉄火の門』は、完全に崩れ落ちた。残るのは、砕けた黒き残骸が蒼黒の波間へ沈んでいく光景ばかりだった。


 命からがら海から這い上がったケセナたちが辿り着いたのは、崩壊した要塞の先、透明な結界筒が破断して海水の流れ込む、皇都オーレルディア側へ真っ直ぐに伸びる巨大な海中道だった。

 石畳へ崩れ落ちたケセナは、肺へ入り込んだ海水を激しく吐き出す。


「がはっ、ごほっ……ごほっ!」


 立ち上がろうとしても、足にまるで力が入らない。

 全身の震えも止まらず、視界はぐらぐらと揺れていた。無数の傷口へ染み込んだ塩水の痛みだけではない。オウセイへ身体を明け渡し、強大な魔法を立て続けに行使された反動が、神経を内側から焼き、容赦なく軋ませていた。


「……無理をするな。一度ここで立て直す」


 同じく全身ずぶ濡れのグレンが、ふらつくケセナの肩を支えながら街道の端へ導いた。

 その脇を、門を突破した同盟軍の兵士たちが歓喜の勝鬨を上げながら次々と駆け抜けていく。けれど、ケセナにはどうしても休息が必要だった。


「先に火を起こさねぇと、全員凍えるぞ」


 街道の隅の開けた場所で、ガイアが歯を鳴らしながら声を張る。

 後続の補給部隊から回してもらった薪を積み、火打ち石と短剣を打ち合わせる。だが、火花は散っても一向に燃え広がらない。


「ちっ……湿気りすぎだろ。これじゃ埒が明かねぇ」


 何度目かの失敗の末、ついにガイアが眉を吊り上げた。


「あーもう、面倒くせぇ! 俺の火で一気に乾かしてやる!」


 やけくそ気味に指先から火魔術を放つ。


「うおっ!?」


 力加減を誤ったのか、積み上げられていた薪は乾くどころか、一瞬で爆炎に包まれ、そのまま真っ白な灰になって散った。


「…………あっ」


 ガイアが呆然と固まる。

 反動に苦しむケセナ、グレン、ラルの三人は、無言でその惨状を見つめていた。


「そうなるの、分かってたのに」


 ラルの一言が、ひやりと落ちた。


「う、うるせぇ! 湿気と潮気で魔力がぶれたんだよ! ……もう一回、貰ってくる!」


 真っ赤になったガイアは叫ぶように言い残し、そそくさと補給部隊の方へ走り去っていった。


 そんな有様に、グレンは深く息を吐き、ケセナも全身を裂く痛みのさなかで、かすかに頬を緩めた。


「……ほんとあいつ、薪に火をつけるのが下手。火魔術使いのくせに、どうなってるの」


 ラルはぶつぶつと文句を言いながら、防水袋から軟膏と油布を取り出し、壁にもたれたまま息を乱しているケセナの前へ膝をつく。


「ケセナ、服、脱いで。傷、一度拭わないと駄目」

「……いや。いい」


 ケセナは肩を揺らし、自らの胸元を両腕で隠すように抱え込んだ。


「え? どうして?」

「力が入らないだけで、自分でできる。……ラルは向こう向いてて」

「背中は自分じゃ無理でしょ」


 ラルが濡れた上着へ手を伸ばした、その刹那。


「見ないでっ!!」


 ぱしっ、と鋭い音が響く。

 ケセナは反射的に、伸びてきたラルの手を強く弾いていた。


「あ……」


 ラルが目を見開く。

 ケセナ自身も、自分のしたことに気づき、さっと顔を青褪めさせた。


「ご、ごめん……! 違う……ただ……」


 震えが止まらない。

 それは寒さのせいでも、塩水が傷に染みる痛みのせいでもなかった。


 ケセナの耳にはまだ、デメンスのあの粘りつくような『音』が残っていた。


 物心もつかぬ頃、冷たい地下室で切り開かれ、縫われ、継ぎ合わせられたこの身体。

 ケセナの胴には、実験によって刻みつけられた醜く歪んだ傷跡が、今も無数に這っている。

 それはただの傷跡ではない。見られた途端、『自分は人として扱われてこなかった』という惨めな事実まで剥き出しになってしまうような、消えない呪いの証だった。


(……見られたくない)


 濡れた服を握りしめたまま、ケセナはラルから逃れるように壁際へ身を縮めた。


 進軍する兵士たちの足音は絶えず響いている。

 それなのに、彼らの周囲だけが別の場所みたいに静まり返っていた。


 ラルは弾かれた手を、そっと胸元へ引き寄せた。

 痛かったのは手ではない。ケセナがそこまで追い詰められていると、気づけなかったことだった。


 ラルの視線の先で、ケセナは何かに怯えるように自らの身体を抱きしめ、ぽつりと呟く。


「……全身が、ひりひりする」

「え……?」

「……僕を、地下へ連れ戻す」


 一人称が、『俺』から『僕』へ揺れた。

 その掠れた声を耳にした途端、少し離れていたグレンが目を見開く。


(……しまった)


 己の不用意さに、グレンは内心で舌打ちした。


 狂犬デメンスを討ち果たし、螺旋階段を駆け上がっていた折に交わしていた軽口。あれは、恐怖を越えた証ではなかったのだ。

 この青年は、感情も苦痛も呑み込み、何でもない顔をすることに慣れすぎていた。皆を安心させるために、ただ平然を装っていただけだった。


 よく見れば、ケセナの呼吸は浅すぎる。

 命を繋ぐためだけの、最小限の呼吸。人としてではなく、『兵器』として生かされていた頃の呼吸そのものだった。


「肉を切られて、引き裂かれて……熱いのに、冷たくて」


 ケセナの口から、凄惨な記憶の欠片が零れ落ちる。


「痛いのに……僕は、言葉を知らなくて。どうしてほしいかも分からなくて……『助けて』って、言えなくて……っ」


 琥珀色の瞳から、大粒の涙が溢れた。

 ラルは言葉を失う。あまりにも生々しい恐怖の吐露の前では、どんな慰めも薄っぺらく感じられてしまう。


「……僕は、どうして生きてるの……」


 そこへ、静かな足音が近づいた。


 グレンだった。


 漆黒の外套を揺らして歩み寄った彼は、怯えて縮こまるケセナの前へ膝をついた。すぐには手を伸ばさず、ただ静かにそこにいた。


「……グレン……」


 ケセナの震える指が、濡れた外套の端を掴んだ。

 グレンはその手が離れないことを確かめてから、そっと小さな身体を抱き寄せた。


「大丈夫だ」


 大きく温かな手が、濡れた外套越しに、古い傷を抱えた背を包み込むように撫でる。


「もう、あんな音は聞こえない。……お前はもう、あの地下にはいない」


 その声が胸の奥へ届いた途端、必死に噛み締めていたものが、音もなく崩れた。


「……怖かった」


 子供のように声を上げ、ケセナはグレンの濡れた胸元へ顔を埋めた。

 あの頃の絶望を、自分の口で『怖い』と言葉にしたのは、これが初めてだった。


 グレンは、反動と過去の傷に苛まれる青年を、外套越しに抱き留めたまま背を支えた。

 物心もつかぬ頃に刻み込まれた根源の恐怖は、デメンスという元凶を殺したからといって簡単に消えるものではない。それでも、この腕の中で泣く青年は、立ち止まるためではなく、前へ進むために泣いていた。


「生きような、ファルイーア」


 グレンが祈るように、しかし絶対の確信をもってそう告げる。

 ケセナはしゃくり上げながらも、その胸の中で確かに頷いた。


 ――やがて。


「おーい、乾いた薪もらってきたぞ……って」


 両手いっぱいに薪を抱えたガイアが戻ってきて、足を止めた。

 壁際でグレンに抱きしめられて泣くケセナと、その傍で肩を震わせているラルの姿。

 一瞬で空気を察したガイアは、「……マジかよ」と小さく呟いた。


 だが、何も言わなかった。


 ただ無言のまま少し離れた場所へ腰を下ろし、集めてきた薪を短剣で細く削り、黙々と火の支度を始める。

 無理に踏み込まず、ただ火を起こし、場を暖める。

 それが、この口の悪い朱雀の青年なりの気遣いだった。


 やがて、規則的な乾いた音は、静かな炎の爆ぜる音へと変わっていく。


 炎が育つにつれ、張り詰めていた空気も少しずつほどけていった。

 泣きじゃくっていたケセナの肩の震えも、次第に小さくなっていく。


 そして。


「……冷たい」


 ぽつりと。

 涙声のまま零れたその間の抜けた一言に、グレンはわずかに目を瞠った。

 裂け目から吹き込む冷たい潮風の中、ずぶ濡れの男の胸へ顔を押しつけていれば、冷たいに決まっている。


 見下ろせば、先ほどまでの絶望に沈んだ顔はもうない。

 そこにあったのは、いつもの、少し情けなくて等身大のケセナだった。


「寒い。無理。痛いし」

「お前な……」


 張り詰めていた空気が一気に抜け、グレンは呆れたように息を吐いた。

 ケセナはぐりぐりとグレンの胸元へ顔を擦りつけて涙を拭うと、泣き腫らした真っ赤な目で見上げた。


「ほんと、俺……こういうのばっかり。ごめ――」

「謝るな」


 出かかった言葉を、グレンの低く強い声が遮った。


「謝るのは、お前じゃない」

「……え?」

「お前をこんな目に遭わせた世界の方だ。……守れなかった俺も含めてな」


 グレンはケセナから少し身を離し、外套越しにその両肩をしっかり掴んだ。


「いいか、ケセナ。もう二度と、そんなことで頭を下げるな」


 黒い瞳は真っ直ぐだった。

 その奥にある深い悔恨と、揺るぎない愛情を正面から受け止めたケセナは、目を瞬かせたあと、深く、ゆっくりと頷いた。


 少し離れた場所で、乾いた薪が小気味よく爆ぜた。


「ったく……最近の俺は、こういう役回りばっかだ」


 赤々と燃え上がった焚き火の前で、ガイアが胡座をかきながらぶつぶつと毒づく。

 けれど、その声色には確かな安堵が滲んでいた。


「おーい! 火がついたぞ! さっさと来い!」


 そのぶっきらぼうな呼びかけに、静かに見守っていたラルがほっと息を吐いて立ち上がる。

 いつもの、世話焼きな顔に戻っていた。


「行こ?」


 その優しい一言に、グレンとケセナもまた立ち上がる。

 反動で重い身体をグレンに支えられながら、二人は火のある方へ歩き出した。


 焚き火の熱が、濡れた身体を少しずつ温めていく。

 冷たい海を越え、鉄火の門を砕き、それでもなお、彼らの前には暗い皇都が待っている。

 ケセナはもう一度だけ、火の傍で震える手を握りしめた。

 生きて、そこへ辿り着くために。

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