第六十四話 耳障りな音は消した
眼球へ突きつけられた、冷たい鋼の切っ先。
常人なら命乞いすら忘れ、ただ震えるしかないその絶望の中で。
両手首の腱を断たれ、石畳を血の海に変えながら、狂犬デメンスは顔を歪め――にたり、と口角を吊り上げた。
「……くはっ!! あははははは!! いいぜぇ、殺せよ騎士殿ぉ! だが、ただじゃ死なねぇ!」
「……狂人が」
「ベラリティルの魔術を舐めるなぁ! 五千星霜前、救世主が造った鉄火は、俺の血に飢えてんだぜぇ!」
デメンスは狂ったように目を剥き、自らの舌を力任せに噛みちぎった。
ごぼっ、と口から大量の赤黒い血が溢れ出す。
その血は石畳へ広がりながら、床に刻まれた細い魔術溝へ吸い込まれ、ひとりでに呪われた紋様を描き始めた。己の血と生命力を魔力炉へ流し込み、そこに繋がれた精霊を無理やり術式へ従わせる。ベラリティルに伝わる禁じ手――血魔術。
「先生、精霊が変……!」
後方で玄武兵を薙ぎ払っていたラルが、周囲の魔力炉が不気味な赤光を帯び始めたのを見て叫ぶ。
「がぁぁぁっ!!」
舌を失い、言葉にならない血混じりの音を喉から漏らしながら、デメンスが最後の大魔術を強引に発動させようとした。
「……うるさい」
次の瞬間、グレンの剣が、一切の躊躇なくデメンスの首を横薙ぎに刎ね飛ばした。
ごとり、と。
狂気に歪んだ首が石畳へ転がり、鮮血が噴き上がる。
発動者を失った血魔術はたちまち光を失った。だが、血を流し込まれた魔力炉群の奥では、赤い脈動だけがなおも不気味に続いている。
静寂が落ちた。
つい先ほどまでこの空間を支配していた、あの粘りつくような不快な音は、もうどこにもなかった。
「……ぁ……」
耳を塞ぎ、目を閉じて蹲っていたケセナの身体から、強張りが抜けた。
内側から全身を食い破っていた激痛が、引き潮のように薄れていく。乱れていた呼吸も、少しずつ元に戻っていった。
「ファルイーア」
頭上から、静かな声が降る。
震えているのはケセナではなく、ファルイーアだと、グレンは分かっていたのだろう。
恐る恐る琥珀色の瞳を開くと、血のついた剣を布で拭いながら、グレンが見下ろしていた。
その顔から、先ほどまでの修羅のような殺意は消え失せている。いつもの、少し呆れたような温厚な保護者の顔だった。
「もう、耳障りな音は消した。……立てるか?」
「グレン……っ」
ケセナは震える手を伸ばした。
グレンがその手を取り、力強く引き上げる。
視界の端に、首を失ったデメンスの死体が映った。
だが、不思議と恐怖は湧かなかった。自分を縛りつけていた“音”の呪いは、目の前の騎士の剣によって、文字通り断ち切られたのだ。
「……グレン……ありがとう……」
小さく掠れたその声は、ケセナではなく、幼い頃のファルイーアのものだった。
「ああ」
グレンは短く返し、剣を鞘へ収める。
ケセナが、離れまいとするようにグレンの外套を掴んだ。グレンはその手を振りほどかず、外套越しにそっと背を包み込む。未だ震えていた身体が、グレンの胸元で少しずつ平静を取り戻していった。
その直後。
足元の石畳が不気味な赤光を帯び、激しい振動が走る。
「悪ぃ、いい場面のとこ!」
玄武の残兵をあらかた片付けたガイアが、焦った声で割り込んできた。
「狂犬はくたばったが、あいつの血を流し込まれた魔力炉の暴走が止まってねぇ! このままだと本気で吹き飛ぶぞ!!」
見れば、デメンスの血魔術そのものは術者を失い、すでに途切れている。だが、術式に引きずられた魔力炉群だけが、異常な熱と赤光を放ち続けていた。
「むしろ好都合だ」
グレンはケセナの肩を一度だけ強く抱き、すぐに表情を戦場のものへ戻した。
そして、上層へ続く階段を指差す。
「要塞を支える魔力炉が爆ぜれば、外壁を維持している土魔術も止まる。……走るぞ!!」
その言葉を合図に、四人は崩壊を始めた中枢区画から螺旋階段へ駆け込んだ。
背後で、暴走した魔力炉群が凄まじい爆音と共に爆ぜる。
連鎖する爆炎と爆風が、階段を下から駆け上がってくる。
ガイアがケセナの背を押し、ラルが風の魔術で熱風を押し返しながら、一行は無我夢中で上へと駆けた。
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その頃。
海中道で玄武の防壁へ猛攻を加えていた同盟軍にも、決定的な変化が訪れていた。
「……レイア様! ご覧ください!」
白虎の側近が、信じ難いものを見るように鉄火の門を指差す。
ビャクレンの指揮のもと、どれほど雷撃を落としても、どれほど兵をぶつけても傷一つつかなかった漆黒の絶対防壁。
その表面へ、無数の亀裂が走り始めていたのだ。
「ふん……やりおったな。『王の剣』の小僧ども」
レイアが獰猛な笑みを浮かべ、高く右腕を振り上げる。
「中枢の魔力炉が落ちたぞ! 今こそ五千星霜の呪縛を打ち砕け! 全軍、総突撃!!」
その号令と共に、同盟軍全体の士気が爆発的に跳ね上がる。
青龍の雷と白虎の闘気が、ついに崩れ始めた『鉄火の門』の防壁を粉砕し始めた。
ケセナたちが中枢区画を落としたことで、戦局は大きく同盟軍へ傾いた。
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崩壊を始めた中枢区画の爆風を背に受けながら、四人は果てしなく続く内部の螺旋階段を駆け上がっていた。
「おい……まだ続くのかよ、これ!」
先頭を走るガイアが、上を見上げてげんなりした声を漏らす。
その後ろで、一段一段を自分の足で踏みしめていたケセナが、息を切らしながら噛みついた。
「自分だけ重力を軽くしておいて、文句言うな!」
「うるせぇ! ぐるぐる回ってて目が回るんだよ!」
「だったら普通に走れよ!!」
ふわり、ふわりと重力を軽減し、数段飛ばしで軽々と跳んでいるくせに、口だけは達者なガイア。
その理不尽さに、ケセナは青筋を立てて怒鳴り返していた。
「つーか、あのおっさん、ここを救世主が造ったって言ってなかったか!?」
「知らないよ! 俺が造ったのはオーレルディアの防衛機構だし!」
「……あ!?」
「ここは多分、それを真似て造ったまがい物!」
「そうじゃねぇ! お前、オーレルディアのあの変な防衛機構を造――」
「あんたたち、こんな刻までうるさーーーーい!!」
最後尾で、下から追い上げてくる熱風を風の魔術で抑えながら走っていたラルが、ついに癇癪を起こして叫んだ。
そんな騒々しい三人の背を追いながら、グレンは剣の柄を握る手にわずかに力を込め、ふっと口元を緩める。
(……まったく、手のかかる連中だ)
いつもの調子を取り戻したケセナの姿に、グレンは深く、確かな安堵を覚えていた。
そして。
最上層の扉の前に辿り着いた四人は、荒い息を吐きながら足を止めた。
下層の爆発の余波で、足元は絶えず微かに揺れている。外からは、同盟軍の猛攻によって要塞が崩れ落ちていく轟音が響いていた。
「ここが、最上層だ」
グレンが重厚な装飾の施された両開きの扉を睨み据える。
この奥に、要塞を統べる指揮官――玄武族長、ビャクレンがいる。
「……行くよ」
ケセナは琥珀色の瞳へ強い光を灯し、誰に促されるでもなく、自らの手でその重い扉を押し開けた。




