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第六十三話 ベラリティルの狂犬

 絶え間なく続く重低音が、要塞の分厚い石壁を震わせていた。

 鉄火の門最上層、指令室。外界の嵐と戦火を見下ろす巨大な円窓の前に、玄武の精鋭を統べる指揮官、ビャクレンが静かに立っていた。


「報告します! 青龍の雷撃、第三防壁にて完全に相殺! 白虎の先陣も、我が軍の土魔術防壁で押し返しています!」

「右翼より朱雀の弓部隊による牽制射撃あり! しかし、防壁を貫くには至りません!」


 背後で、伝令兵たちの焦った声が飛び交う。

 それでもビャクレンは、亀と蛇をあしらった漆黒の軍服を微塵も乱さず、白く泡立つ海上の戦場を冷ややかに見下ろしていた。

 黒髪と氷のような黒い瞳に、焦りは欠片もない。


「持ちこたえて当然だ。ここは五千星霜を越えて皇都を守ってきた絶対防衛拠点。青龍と白虎の長が直々に軍を率いようと、正面から抜ける門ではない」


 その静かな声に、指令室の空気がわずかに緩む。

 だが、ビャクレン自身の眼差しには、油断も驕りもなかった。


(……おかしい)


 円窓へ手をつき、戦場を見下ろしたまま、眉間にわずかな皺を寄せる。


(レイアもツェヴァンも、力押しでこの門が落ちぬことなど承知のはずだ。なのに、戦い方が雑すぎる。まるで、ただ派手に暴れてこちらの目を正面へ縫い付けているような――)


 その刻、重い扉が乱暴に開かれた。

 血相を変えた部隊長が駆け込んでくる。


「ビャクレン様! 異常事態です!」

「慌てるな。何があった」

「最下層の隠し水路を見回っていた兵二名からの定期連絡が途絶えました! さらに、水路上方の外部監視兵三名が、朱雀の炎矢で射抜かれ海へ落下したとの報告が……!」


 指令室の空気が、一瞬で凍りついた。

 だが、ビャクレンの口元には、むしろ冷たい笑みが浮かぶ。


「……なるほど。そういうことか」

「ま、まさか……」

「大軍勢による総攻撃は、ただの目眩ましだ。本命は、我々の目が正面へ向いている隙に、海から隠し水路を通って少数精鋭を内部へ入れること」


 部隊長の顔が青ざめる。


「す、すぐに討伐隊を下層へ!」

「待て。相手はただの鼠ではない。四獣の長が、自ら囮になってまで送り込んだ特級の刺客だ。下級兵をいくら向かわせようと、無駄死にするだけだ」


 ビャクレンは指揮杖を取り、壁に広げられた内部構造図の一点を示した。


「中層から上層へ至る全通路を封鎖しろ。防衛の要である中枢区画へ精鋭を集中させる」

「はっ!」

「それから――」


 踵を返しかけた部隊長を、底冷えする声が呼び止めた。


「奴を行かせよ。ベラリティルの狂犬、デメンスを」

「なっ……!?」


 その名を聞いた瞬間、部隊長の顔色が変わった。

 侵入者への焦りとは別の、露骨な恐怖だった。


「デ、デメンス殿を、ですか!? しかし、あの男は戦いとなれば味方の被害すら……!」

「構わん。あの狂犬の首輪は、フィサルーアにしか繋いでおけぬ。四獣の長が送り込んだ特級の刺客だ。噛み殺させるにはちょうどいい」


「……っ、承知いたしました!」


 部隊長は敬礼すると、顔を強張らせたまま飛び出していった。

 ビャクレンは再び窓の外、雷雲渦巻く戦場を見上げる。


「皇都の玉座を脅かす反逆者ども……このビャクレンが、絶望の泥底へ引きずり込んでやろう」


 絶対防衛拠点、鉄火の門。

 その内部で、玄武の精鋭と、解き放たれた最凶の狂犬が、下層から這い上がってくるケセナたちを迎え撃つ準備を整えていた。


 ------


 鉄火の門中層、中枢区画。

 要塞の心臓部とも言うべき広大な空間には、無数の魔力炉が鈍い唸りを上げ、熱気と蒸気が充満していた。


 本来なら、ビャクレンの命を受けた玄武の精鋭が鉄壁の陣を敷いているはずの場所。

 だが、そこに展開していた数十名の兵士たちは、前方の巨大な鉄扉ではなく、自らの味方であるはずの一人の男を怯えた目で見つめていた。


「あははははははっ!! 来る、来るぞぉ……! 懐かしい、あの極上の『人形』の匂いだ!」


 蒸気の中に立つ男。

 三十星霜齢半ばほどに見える。かつて身に纏っていた高貴で豪奢な法衣は薄汚れ、栗色の髪には白髪が混じり、落ち窪んだ眼窩の奥で灰色の双眸が狂気に濁っている。


 男の名は、デメンス・ベラリティル。

 先の内乱で唯一生き残った魔術名家ベラリティル家の次男であり、玄武兵からすら恐れられる“狂犬”である。


「デ、デメンス殿……! あまり前へ出すぎないでいただきたい! 我々の土魔術の陣形が――」

「黙れよ、下等な亀共が」


 咎めようとした部隊長の首筋が、次の瞬間、不可視の魔力刃で浅く裂かれた。

 悲鳴を上げて尻餅をつく部隊長を、デメンスは愉快そうに見下ろす。


「俺に指図するな。俺は、あれに……俺の可愛い『実験体』に会うためだけに、この退屈な要塞で待ってたんだからなぁ」


 デメンスは舌なめずりをしながら、自らの腕を掻きむしった。

 爪の先で皮膚が裂けても、痛みなど感じていないように笑い続ける。


「ルーデンスもローケンスも、あの可愛い『実験体』に殺された……」


 くつくつと、喉の奥で笑いが跳ねる。


「けど、計画は終わってない。フィサルーア様の内に残した魔人の残滓は、邪魔なリュウショウを殺し、評議会を乗っ取った。ベラリティルの悲願は、今まさに実を結ぼうとしてるんだよぉ!」


 あとは、最後に残った“失敗作”を始末するだけ。

 デメンスにとってファルイーアは、恐怖の兵器ではない。零星霜齢から三星霜齢までのあいだ、地下室で『実験体』として切り刻み、壊し、弄んできた、ただの玩具に過ぎなかった。


 その刻。

 中枢区画へ続く分厚い鉄扉が、凄まじい衝撃と共に内側からへし折れ、吹き飛んだ。


「来たぁ!!」


 土煙の中、デメンスが歓喜に顔を歪める。

 瓦礫を踏み越えて現れたのは、ケセナ、グレン、ラル、ガイアの四人だった。


「防衛線のど真ん中だな。……一気に制圧するぞ!」


 グレンが剣を抜き、ガイアとラルが武器を構える。

 その刻、蒸気の向こうから、臓腑を掻きむしるような耳障りな声が響いた。


「よぉ、久しぶりだなぁ、玄武の裏切り者。それに――」


 粘つくような笑みを含んだ声が、ケセナの耳へ突き刺さる。


「――元気にしてたか? 俺の可愛い『実験体』」

「……っ!!?」


 その声を聞いた途端、ケセナの心臓が凍りついた。

 記憶の封印は解かれ、自分がファルイーアであった過去も、すでに思い出している。だが、物心もつかぬ幼少期の記憶は、痛みと混濁の中に沈んでいる。蒸気の向こうにいる男の顔に、はっきりとした見覚えはない。


 けれど。


 ――その声だけは、魂の底にこびりついて離れなかった。


 暗く冷たい地下室。

 刃物と魔術で裂かれる幼い肉体。焼ける匂い。泣き叫ぶ耳元へべったりと張りついてくる、狂気に濡れたあの音。


「ぁ……っ、う、あ……っ」


 ケセナはそのまま崩れ落ちるように膝をつく。

 両腕で自らの身体を――彼らに刻み込まれた無数の古傷を庇うように、きつく抱き締めた。喉は呼吸の仕方を忘れたように震え、海水の痛みなど比べ物にならない苦痛が、全身の内側を食い破るように暴れ始める。


 痛い。

 助けて。

 助けて。


 あの頃の自分は、そう叫ぶ言葉すら知らなかった。


「おい、ファル!? どうした!」


 ガイアの声も届かない。

 琥珀色の瞳は焦点を失い、ただ過去の恐怖だけに縫い留められている。


「あはははは! いいぞ! お前の身体は、俺の魔術の痛みを髄まで覚えてるんだなぁ!」


 デメンスが歓喜に顔を歪め、両腕を広げた。


「……黙れ」


 低い声が、その下卑た笑いを断ち切る。

 漆黒の外套を翻し、グレンがケセナを完全に庇うように前へ出た。

 その横顔を見た瞬間、ガイアは息を呑んだ。

 いつもの保護者の顔は、もうそこにはない。あるのは、見たこともないほど純粋な殺意に染まり切った修羅の顔だった。


「……デメンス・ベラリティル。なぜ、貴様がここにいる。ベラリティルの狂犬が!!」


(……無理もねぇか)


 ガイアは短剣を構えながら、グレンの怒りの理由を悟る。

 十八星霜前。ベラリティル家の地下室で原形を留めぬほど壊されていた三星霜齢のファルイーアを救い出したのは、他でもないグレンとオウセイだ。


 血まみれの小さな身体を抱き上げたグレンが、どれほど凄絶な顔で治療を続けていたか。ガイアは今も忘れられない。

 グレンにとって目の前の男は、万死に値する外道だった。


「ラル、ガイア」


 グレンが剣を青眼に構えたまま、低く告げる。


「周囲の雑兵共を抑えろ。一歩もこっちへ近づけるな」

「分かった」


「おうよ。……おい、ファル」


 ガイアが、蹲って震えるケセナの前にしゃがみ込み、デメンスからの視界を遮るように盾となった。


「……無理して歯ぁ食いしばんな。お前が最近、一人でどれだけ無茶して、無理に踏ん張ってきたか……俺らが一番分かってんだよ」

「……ぁ、う……っ」


 ガイアは立ち上がり、短剣を構えながら背越しに言い放つ。


「お前の代わりに本気でぶち切れてくれる、とんでもなく厄介な大人がいんだ。今は何も気にせず、丸まってろ」


 ガイアは、怒気を纏ったグレンの背中を顎でしゃくった。

 その背から、低い声が落ちる。


「……お前はそこで、隠れていろ」


 それは騎士が王へかける言葉ではない。

 理不尽な暴力から子供を守る、絶対の保護者の声だった。


「目を瞑ってろ。耳も塞いでいい。俺が全部、終わらせてやる」


 その言葉を合図に、ラルとガイアが左右へ一斉に飛び出した。


「邪魔!」


 ラルの槍が閃き、ガイアの短剣が敵の死角を次々に潰していく。


「くはっ! 怖い顔をするなよ騎士殿。俺はただ、俺の愛した『玩具』が自分から会いに来てくれたから歓迎してやってるだけじゃないか! 魔力も持たねぇただの人間が、俺に刃向かうかぁ!!」


 デメンスが両腕を振りかざし、十を超える真空の刃を放射状に放った。

 岩盤すら切り裂く凶悪な連撃。

 だが、グレンは一切動じることなく地を蹴った。


「……なっ!?」


 デメンスが驚愕に目を見開く。

 グレンは飛来する魔術の刃を、剣のわずかな傾きと体捌きだけで次々と弾き落とし、すり抜けていく。


 魔力はない。

 だからこそ、頼れるものは肉体と剣だけだった。

 魔力の起こり、空気の揺らぎ、敵の肩が動く一瞬。

 グレンはそのすべてを読み切り、死地の隙間を駆け抜けた。


「舐めるなぁ!」


 焦燥に駆られたデメンスが、石畳から無数の土槍を隆起させた。

 全方位からの串刺しの檻。

 しかしグレンは、その土槍の先端を靴底で蹴り、自ら空中へ跳び上がった。


「――なっ!」


 空から降る漆黒の死神に、デメンスの顔が恐怖で歪む。

 防御魔術を張ろうと伸ばした両腕。それよりもなお早く、落下と同刻に閃いた剣光が走った。


「ぎゃああああああぁぁぁぁあ!?」


 中枢区画に、狂犬の絶叫が響き渡る。

 グレンの一撃は、デメンスが魔術を編もうとした両手首の腱を、正確に、深く断ち切っていた。


「あ、あがっ……!! 俺の、手が……魔術が……っ!?」


 血を噴き出し、無様に石畳を転げ回るデメンス。

 その足元へ、グレンは一切の容赦なく歩み寄る。


「……遅い。師匠はもっと速い。魔術に頼り切った貴様らの攻撃など、欠伸が出る」


 氷のような声で言い放ち、血に濡れた剣の切っ先を、恐怖に顔を歪めるデメンスの眼球へぴたりと突きつけた。


「貴様らが地下室であの小さな身体に刻んだ絶望に比べれば、こんな痛みは欠伸すら出まい」

「ひぃっ……!」

「思い出させてやるよ、デメンス。己の無力さに絶望しながら死んでいく、ただの肉塊の気分をな」


 十八星霜を経て。

 小さな幼子を抱き上げ、怒りに震えた騎士の刃が、今、あの地下室の亡霊へ振り下ろされようとしていた。

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