第六十二話 鉄火の門
海岸線へ辿り着くと、鼓膜を打ち破らんばかりの轟音が一行を襲った。
天を衝くような大波がうねり、岩肌へ激突しては白濁した飛沫を散らしている。ジェグヌと皇都を隔てる、決して人の立ち入れぬ死の海だ。
だが、その狂乱する蒼黒の海を、一本の巨大な道が真っ直ぐに貫いていた。
海底から隆起した石造りの街道。その全体を、麒麟族の秘術による透明な結界筒が覆っている。外では嵐が荒れ狂い、幾度も大波が叩きつけているというのに、内部へは海水一滴、潮の匂いすら入り込まない。
「……いよいよだね」
先頭を進んでいたケセナが、前方を睨み据えて息を呑んだ。
その隣で、深紅の外套を揺らしながらガイアが頷く。彼はすでに、キョウが持参した黒を基調とした戦装束へと着替えていた。金の飾りと組紐が朱雀族長の格を示す、炎のように鮮やかな軽装戦衣だ。
「潰れんなよ、ファル」
「……うん」
彼らの行く手、海中道のちょうど中間地点。街道を完全に塞ぐようにして、巨大な要塞の影が浮かび上がっている。黒き防壁は、玄武の土魔術で極限まで圧縮された岩盤で築かれ、幾重もの監視塔が空を突き刺すように聳えていた。
『鉄火の門』。
その城壁には、亀と蛇の紋章を染め抜いた漆黒の旗がはためいている。ビャクレン率いる玄武の精鋭部隊が、迫り来る同盟軍を見下ろし、弓と魔術の備えを整えていた。
同盟軍の本陣から、レイアがゆっくりと前線へ進み出た。彼女が右手を高く掲げると、数多の軍勢の足音がぴたりと止まる。
「さて。舞台は整ったな」
隣に立つツェヴァンが空を見上げ、杖を突いた。
荒れ狂う海の上空には、青龍族が呼び寄せた分厚い雷雲が渦を巻き、紫電が幾筋も蛇のように走っている。
「ビャクレンの坊やが、どこまで儂らの猛攻に耐えられるかのぅ」
ツェヴァンがしゃがれた声で嗤う。
レイアは氷のような瞳で鉄火の門を射抜き、その腕を力強く振り下ろした。
「全軍、進軍。鉄火の門を蹂躙せよ!!」
号令が放たれた瞬間、青龍族の魔術師部隊が空から一斉に雷撃を落とし、白虎の精鋭たちが鬨の声を上げて門へと突撃した。
鉄火の門からも迎撃の岩弾が雨あられと降り注ぐ。透明な結界筒の内部は、たちまち光と爆音、怒号の飛び交う灼熱の戦場へと変貌した。
激しい乱戦の最中。
同盟軍が正面から敵の目を引きつけている隙に、ケセナ、グレン、ラル、ガイア、そしてキョウ率いる朱雀部隊は、門の右側面――死角となる位置まで密かに移動していた。
「ここだ」
グレンが壁際で足を止める。
透明な壁のすぐ外、荒れ狂う海面すれすれの土台部分に、真っ黒な穴がぽっかりと口を開けていた。要塞の排気と排水を担う、隠し水路だ。
あそこへ入るには、この安全な透明な壁を抜け、一度外の海へ飛び込まなければならない。
「ラル、頼む!」
ガイアの合図で、ラルが槍の石突きを透明な壁へ突き立てた。
石突きの先へ、細く絞った風が通る。麒麟族の秘術が作った壁の、わずかな綻びを同じ理で抉る。ぱきん、と硝子のような音がして、人一人が通れるほどの裂け目が、束の間だけ開いた。
途端に、外の暴風雨と鼓膜を裂くような波の轟音、そして強烈な潮の匂いが雪崩れ込んできた。
眼下で渦巻く蒼黒の海を見て、ケセナの顔が強張る。あの水路へ辿り着くまでに、全身へ海水を浴びる。レイアの拘束を破るために肉を削いだ四肢の傷も、幻影の刃で貫かれた胸と背中の傷も、容赦なく塩水に叩き込まれるのだ。
「水路の上の防壁に、玄武の歩哨が三人。こっちへ術式を向けてる」
ラルの声に見上げれば、隠し水路の真上の城壁から、玄武兵たちがこちらへ魔術の狙いを定めていた。
「させない!!」
キョウが叫ぶ。
それに応じ、朱雀の精鋭四十名が一斉に強弓を引き絞った。暴風雨を裂き、炎を纏った四十本の矢が正確無比に歩哨たちを射抜く。悲鳴を上げる暇もなく、玄武兵たちは城壁から海へと落ちていった。
「道は開けた! 行きなさい、ファル!!」
キョウが後ろで束ねた青銅の髪を暴風に踊らせながら叫ぶ。
その声に背を押され、ケセナは強く唇を噛み締めた。ラルが丹念に塗ってくれた軟膏と油布の感触が、まだ胸元に残っている。
「――行くぞ!!」
真っ先に、グレンが躊躇なく荒れ狂う海へ身を躍らせた。
続いてガイアが舌打ち混じりに飛び込み、ラルが槍を握り直して宙を舞う。
「……っ!!」
ケセナは琥珀色の瞳を見開き、大きく息を吸うと、狂乱の海めがけてその身を投げ出した。
蒼黒の波に呑まれた瞬間、何より先に全身を打ったのは、冷たさではなかった。
塩水が油布の隙間を越え、塞がりきらない傷へ噛みつく。四肢が跳ねた。胸と背中が焼けた。声を上げる前に、肺から悲鳴のような泡だけが漏れる。
(痛い……っ! 痛い、痛い痛い……!!)
手足が痙攣する。
荒れ狂う波に引きずられ、為す術もなく海の底へ沈みかけた、その刹那。
「手ぇ伸ばせ、ファル!!」
轟音の向こうから、ガイアの怒鳴り声が響いた。
水路の縁へ辿り着いていたガイアが、水面へ突き出たケセナの腕を力強く掴み上げる。水飛沫とともに海面から引きずり出され、そのまま硬い石の床へと叩き上げられた。
「げほっ、げほ、ごほっ……! はぁっ、はぁっ……!」
むせ返り、全身を丸めて石床の上で激しく痙攣する。歯の根が合わず、痛みのあまり生理的な涙が止まらない。
「大丈夫!?」
すぐさま隣へ這い寄ってきたラルが、濡れた金髪を掻き分け、震える背中を摩る。
「ら、ラル……っ、ごめん、痛くて……動け……」
「ケセナ、頑張った。偉い」
短くも確かな励ましと、背中を撫でる温かい手に、ケセナはどうにか荒い息を整えていく。
顔を上げれば、そこは生臭い潮と苔の匂いが充満する、薄暗い石造りの巨大な空洞だった。玄武の魔術によって強固に固められた、鉄火の門の最下層。排気と排水を行う隠し水路である。
頭上からは、絶え間なく重い振動と爆音が響いていた。
外では今も、同盟軍の陽動が要塞を激しく打ち据えているのだ。
「……息は整ったか、ケセナ」
通路の奥を警戒していたグレンが、外套から海水を滴らせながら振り返る。
「……なんとか」
「よし。敵の腹の中へ潜り込むことには成功した。だが、ここからが本番だ。油断するなよ」
グレンの言葉に頷き、ケセナは腰袋から封玉を取り出し、宝刀を具現化する。呼びかけても応えない、ただ重いだけの冷たい鉄の塊を鞘ごと杖代わりにして、よろよろと立ち上がった。
四人は足音を殺し、薄暗い水路の奥へ進み始める。
玄武の土魔術で精巧に築かれた通路は迷路のように入り組み、松明の明かりすら届かぬ場所も多い。だが、上の階層から響く怒号と爆発音が、彼らの足音をきれいに呑み込んでいた。
半刻ほど進んだ先。
薄暗い十字路へ差しかかろうとした瞬間、先頭のグレンがぴたりと足を止め、拳を握って無言の合図を送った。
――止まれ。
曲がり角の向こうから、松明の明かりと重い足音が二つ、こちらへ近づいてくる。
『上は随分と派手にやられてるな』
『同盟軍の総攻撃だ。だが、この要塞の壁は抜けねぇ。俺たちは下からのネズミだけ警戒してりゃいい』
玄武の下級兵士だ。
この水路の存在を知る見回りがいたらしい。
ケセナが息を呑み、ガイアが音もなく短剣を逆手に構える。
だが、彼らが動くより早く、隣の影が一歩前へ出た。
「あたしがやる」
ラルだった。
槍を静かに構え、グレンと目を合わせる。グレンが小さく頷いた。
足音が角を越え、兵士たちの姿が現れた、その瞬間。
「なっ――!?」
「敵襲――」
最後まで声は続かなかった。
石畳を蹴る軽い音。グレンから叩き込まれた、無駄のない槍の踏み込み。
白銀の閃きが闇を裂き、一人目の兵士の顎先を石突きが正確に跳ね上げる。脳を揺らされた兵士は、その場で崩れ落ちた。
もう一人が慌てて剣へ手をかける。
だがラルは槍を手元で素早く返し、柄の腹で鳩尾を強かに打ち据えた。
「ぐぇっ……!」
兵士がくの字に折れたところへ、ガイアが背後から音もなく滑り込み、首筋へ手刀を叩き込む。
兵士はそのまま、声も上げずに意識を失った。
ほんの数息。
魔術を使わぬ、完璧な制圧だった。
「……凄い」
ケセナが思わず感嘆を漏らすと、ラルは槍をくるりと回して肩へ担ぎ、少しだけ得意げに鼻を鳴らした。
「あたしだって先生の弟子」
その頼もしい言葉に、ケセナは痛む頬を緩めて頷く。
気絶した兵士たちを物陰へ引きずり込み、一行はさらに奥へ進んだ。
やがて、水路の行き止まりに、上層へ続く堅牢な石造りの螺旋階段が現れる。
「この上が要塞の中層……居住区や武器庫のある区画だ」
グレンが剣の柄に手をかけ、厳しい視線で階段の上を見上げた。
「指揮官であるビャクレンは、おそらく最上層の指令室か、あるいは防衛機構の核がある中枢区画にいる。ここから先は、玄武の精鋭がうろつく本陣だ。……行くぞ」
ケセナは宝刀を杖代わりに握り直し、『王の剣』の仲間たちとともに、玄武の喉元へ続く階段を一段ずつ上り始めた。




