第六十一話 朱雀の弓姫
白虎の城門が開く。
大地を揺らす地響きとともに、青龍と白虎の合同軍が進軍を開始した。空には雷雲が垂れ込み、地には白と青の軍旗が風を裂く。
その圧倒的な軍勢を背に、ケセナたち四人は先陣を切って荒野を進んでいた。
この先に待つのは、後戻りのできない本物の戦場だ。誰も足を止めない。ただ、吹きつける風だけが、やけに冷たかった。
「そういえばよ」
ガイアが口を開いた。
「フィサルーアが持ってるもんって、思い出したか?」
「え?」
ケセナはきょとんと瞬きをする。
「お前が言ってたって先生から聞いたぞ? 黄金龍を制御する鍵だか何だかを、リュウショウ陛下がミーネ側妃に渡したってよ」
「……俺、そんなこと言ったっけ?」
思い出せず、ケセナはラルへ顔を向けた。
「うん、言ってた」
ラルはこくりと頷き、容赦なく追撃する。
「…………」
ケセナはすっと、あらぬ方角を向いた。
言ったような気もする。たしかに言った。言った、気がする。
だが、なぜそんなことを言ったのかが、肝心なところだけ綺麗に抜け落ちていた。
「あ? お前それ、まさか忘れてたのか?」
「あ、いや、その、えっと……」
実のところ、右腕の黄金龍はオウセイの圧倒的な力に怯えきって完全に引き籠っており、もはや制御の『鍵』など必要ない。そもそも、プラークルウ以外の制御具が本当にあったのかも怪しい。
ただ、ケセナの記憶には、ひどく曖昧な断片が確かに残っている。
あれは、十星霜齢の頃だった。
訓練で大怪我を負い、グレンに連れられて医局へ行き、その帰り道。
父であるリュウショウが、側妃ミーネへ小さな包みを渡していた。
交わされていた言葉のほとんどは思い出せない。
ただ、「私の、大事なものだ」と告げるリュウショウの声だけが、妙に強く記憶に残っている。
それを受け取ったミーネが頬を真っ赤に染め、嬉しそうに微笑んでいたことも。
(……それを、俺は何かの制御具だと思った、のか?)
ケセナが内心で必死に記憶を繋ぎ直していた、その矢先だった。
「すまない、ケセナ。ずっと気になっていたんだが、それはリュウショウがミーネ様へ贈った、あの贈り物のことか……?」
一部始終を聞いていたグレンが、疲れたような息とともに口を挟んだ。
「「「!!!!!」」」
一同の動きがぴたりと止まる。
そして、数瞬も経たぬうちにガイアが噴き出した。
「うわっはははは!! それ、ただの『愛の贈り物』だろ!!」
「え? ええっ!?」
「何が『黄金龍を制御するのに必要なもん』だよ! 親父の惚気を大真面目に勘違いしただけじゃねぇか!!」
「っ、ふふ……っ、くくっ……」
ラルもお腹を抱えて肩を震わせている。
「だ、だって! 『大事な』って言ってたから……!」
「愛する女への贈り物なら、大事に決まってんだろ! あー、お前にはまだ早かったか!?」
「!!」
穴があったら入りたい。
いや、今すぐ自分で掘って埋まりたかった。
両親のただの惚気を、世界を揺るがす制御の鍵だと思い込んでいた。
その事実が、羞恥となって一気に込み上げ、ケセナは顔を真っ赤にして両手で覆った。
「何それ、グレンさん、もっと早く教えてよっ」
「おい、人のせいにするな、ファル。……おっと」
ガイアが目を細める。
本隊とは別の方角から、土煙を上げて猛速度で接近してくる一団が見えたのだ。
数は四十騎ほど。
だが、一騎一騎から放たれる闘気は、明らかに精鋭のものだった。彼らが纏うのは、燃え盛る炎を思わせる真紅の外套――南の『朱雀』の軍勢である。
「来た来た」
ガイアが短剣を肩に担ぎ、面倒くさそうに息を吐いた。
一団がケセナたちの手前で手綱を引き、見事な統率で停止する。
それに合わせ、グレンが手を上げて本隊の進行を止めた。
朱雀軍の先頭から、軽やかな身のこなしで一人の女性が馬から飛び降りる。
背までの青銅色の髪を荒々しく結い上げた、凛とした美貌の女戦士。
その瞳は、ガイアと同じ燃えるような赤を宿している。背には、身の丈ほどもある巨大な長弓。
彼女は、ケセナの姿――その金髪を視界に入れた瞬間、ぱあっと顔を輝かせた。
「ファルゥゥゥゥゥっ!!」
「えっ、ちょ、ぐふっ!?」
一切の躊躇もない、矢のような飛びつき。
満身創痍のケセナは為す術もなく押し倒され、荒野の土の上で力いっぱい抱き締められた。胸と背中の傷が、容赦なく悲鳴を上げる。
「あああああ! ファル! やっぱり生きてた! 本物の姿に戻って……昔の面影そのまま! あ、目の色違う、どうしたの? でもでも可愛い! 尊い!」
「ちょ、くるし……! キョウ、重い! 重いって!」
キョウ・チャーシング。
朱雀族の戦士であり、ケセナが三星霜齢で救い出されたあと、共に育った五つ上の姉代わり。
「あーもう、もっと顔見せて! うんうん、立派な男前になって……お姉ちゃん感動で泣きそう!」
「お、俺も会えて嬉しいけど! 苦しいから! あと怪我してるから痛い!」
以前、『人違いだ』と突き放してしまい、悲しい顔をさせた相手だ。
その後ろめたさもあって、ケセナは強く振り払うことができない。
だが、その感動の再会へ冷や水を浴びせるような声が、横から差し込んだ。
「おい。いくらファルが可愛いからって、『許嫁』がここにいるの、分かってんのか……?」
「えっ!?」
押し倒されたまま、ケセナの口から素っ頓狂な声が漏れる。
「許嫁!? キョウが、ガイアの!?」
「親同士が勝手に決めただけだ。つーかお前、マジで俺は無視かよ」
「ああ、いたの? ガイア。相変わらず口が減らないわね。あんたなんか、ファルの可愛さに比べたら石ころ同然よ」
許嫁の苦言を鼻で笑い飛ばし、キョウはなおもケセナに抱きついたままだ。
しかし、その至福の刻は、突如として放たれた鋭い殺気によって強制終了した。
ケセナのすぐ耳元、キョウの顔の真横の地面へ、金属音とともに、白銀の槍が突き立つ。
「ひぃ!?」
思わず悲鳴を上げ、ケセナはその先を見上げる。
ラルの槍だった。
「ちょっと……。離れて、泥棒猫」
ラルは、まさに般若の形相で二人を見下ろしていた。
「ああ、あんたもいたの」
キョウはゆっくりと立ち上がり、余裕の笑みで服の土を払う。
「相変わらず子供みたいで安心したわ。そんな長物を持ち歩いて……野蛮ねぇ」
「うるさい、おばさん。あんただって弓。あんたみたいな図々しい害虫は、直接ぶっ叩いて追い払うに限る!」
二十六星霜齢の大人の余裕を見せつけるキョウと、グレン直伝の槍を構えて威嚇する十九星霜齢のラル。
ばちばちと火花を散らす二人の間から、ケセナは「ひぃっ」と情けない声を上げ、這うようにしてガイアの後ろへ避難した。
「やれやれ……相変わらず騒々しい。弓の腕は鈍っていないだろうな、キョウ」
呆れ果てたように溜息をついたグレンが前へ出ると、先ほどまでラルと睨み合っていたキョウが、すっと真顔になって一礼した。
「ご無沙汰しています、先生。朱雀の精鋭四十名、同盟軍の遊撃および『王の剣』の援護のために参上いたしました」
「頼もしい限りだ。その四十の遊撃があれば、鉄火の門への潜入も格段に楽になる」
師と弟子の、確かな信頼のやり取り。
それを聞き、ケセナは隠し水路からの潜入作戦における彼女たちの役割を理解した。
「そっか……。キョウたちの朱雀部隊が遠距離から牽制してくれれば、俺たちが海へ飛び込む隙が確実に作れる」
「そういうこと! ファルが水路に入るまでの道は、私たちが一本残らず射抜いてあげるから安心しなさい!」
キョウが胸を張る。
その隣で、ラルがぎりりと歯を鳴らし、槍を握り直した。
「道は私が開ける……。おばさんの援護なんか、いらない」
「強がり言っちゃって。手首の返しが甘いわよ、お子ちゃま」
再びばちばちと睨み合いを始めた二人に、男たちはそろってげんなりし、少し距離を取った。
あれは男が止めても火に油を注ぐだけだ。
「おい、ファル。お前が原因なんだから、なんとかしろよ」
ガイアが厄介事を押しつけるように肩を小突く。
ケセナはぶんぶんと首を横に振った。
「なんとかって……できると思う!? あの二人の間に入れって言うの!?」
「お前がどっちか選べば収まるじゃねーかよ」
「選ぶって言われても……! グレンさん、なんと……か……」
すがるような目で助けを求めるが、頼みの綱のグレンはあらぬ方向を向いたまま、「俺に言うな」と露骨に目を逸らした。
「駄目だ……。大人なのに助けてくれない」
「だーかーらー! お前がなんとかすんだよ!」
背中を押され、ケセナは涙目になりながら、しぶしぶ二人の前へ進み出た。
「あ、あのさ。これから大事な戦いだし、喧嘩しないで仲良く……」
「できるわけない!」
「ファルの頼みでも無理!」
容赦のない拒絶が、ぴたりと揃って返ってきた。
ケセナは本気で泣きたくなった。
大戦の直前とは思えぬ情けない光景を、隊列の中段からレイアが冷ややかに見ていた。
「情けないな……」
これが、我らの旗印か。先が思いやられる。
胸中でぼやいた白虎の女傑は、役立たずの男どもの代わりに、静かに、しかし隊列全体へ響き渡るほどの鋭い闘気を込めて言い放った。
「ごちゃごちゃ喧しい! 騒ぐなら離脱しろ!!」
白虎の咆哮。
一瞬で静寂が訪れた。
白虎族長の本気の威圧を前に、ラルとキョウだけでなく、巻き込まれた男たちまで直立不動になった。
そして、その後は誰一人として口を開かなかった。
こうして。
荒れ狂う海中道へ向かう過酷な行軍に、最強の弓使いであり、ガイアの許嫁――そしてラル最大の天敵であるキョウと朱雀の精鋭が合流した。




