第五十九話 毒を呑む四獣
静寂の森に、重く冷たい沈黙が落ちた。
宙を漂うのは、魔法の代償として完全に滅ぼされた精霊たちの、死の残滓ばかり。
「違いない。伝承の通りじゃ……」
最初に口を開いたのは、ツェヴァンだった。
その顔から老爺めいた飄々とした色は消え、纏う気配は空気を凍らせるほど鋭く研ぎ澄まされている。
「精霊を縛り、喰らい、灰に変える『魔法』。五千星霜前、蒼髪の救世主が振るった禁忌そのものよ」
レイアが静かに一歩前へ出る。
その手には、白虎の闘気を極限まで凝縮した光刃が握られていた。
「同盟は白紙だ……。遺児よ、お前の言葉に偽りがなかったことは認める。だが、その力もまた、この世に置くには過ぎた毒だ」
「左様。惜しいのぅ。器は悪くない。じゃが、その中身が五千星霜前の禁忌なら、狂王もろとも葬るが世のためじゃろうて」
青龍と白虎。
四獣の頂に立つ二人の族長が、明確な殺意をもってケセナへ牙を向けた。
だが。
「――面白い」
ケセナの口から零れたのは、酷薄な歓喜の声だった。
「え……?」
ラルが息を呑む。
ケセナの意識は、すでにオウセイの本能へ呑み込まれていた。
久方ぶりの闘争だった。
しかも相手は、かつて自らに傅いた四獣の末裔たち。
その牙が、今度は己へ向いている。
「来い。お前たちの牙が、俺へ届くか試してやる」
ケセナが指先を動かした瞬間、レイアの姿がぶれた。
神速。白虎の光刃が首筋を正確に薙ぐ。
だがケセナは、舞うような足運びでそれを紙一重に躱し、背後から迫ったツェヴァンの水刃も、振り返らず首を傾けるだけで避けてみせた。
「ちぃっ!」
「なんと……!」
レイアの連撃も、ツェヴァンの死角からの魔術も、何一つ当たらない。掠りもしない。
四獣の長二人がかりの猛攻を、ケセナは魔法すら使わず、体術と積み重ねた修羅場の差だけであしらっていた。
「どうした? 白虎の爪は、そこまで鈍ったか? 青龍、水が緩いぞ!」
「……っ」
レイアとツェヴァンが後ずさり、体勢を整える。
その刻。
「止めないか、ケセナ!」
怒声を上げ、グレンが割って入った。
魔力を持たぬ彼が、鋭い踏み込みで間合いを詰める。しかしケセナは、飛来する剣を指先で弾き、酷薄な琥珀色の瞳で見下ろした。
「黙れ、玄武の末っ子」
その一言が、静寂の森に落ちた。
三十星霜以上前。初めて森の家で出会った『生ける伝説』から投げつけられた、あの見下すような呼び方。
屈辱の記憶が、星霜を越えてグレンの脳裏に蘇る。
「…………あ?」
グレンのこめかみに、太い青筋が浮かんだ。
「お前こそ黙れ! 普段は気怠そうにしているくせに、こういう刻だけ偉そうに出てくるな!」
「おい、末っ子! 誰に向かって口を利いている! その腐った性根、今こそこの俺が叩き直してやる!!」
「上等だ、かかって来い! 役立たず!」
もはや罵り合いだった。
本気で殺しにかかっていた族長二人は呆気に取られ、口論を続ける男たちを前に呆然とするしかない。
ケセナが右腕を大きく振り上げ、グレンは剣を構え直す。
そんな二人の間に、一切の躊躇なく飛び込んでいく赤い髪――。
「いい加減にしろ、ファルイーア!」
ガイアは、振り上げられたケセナの右腕を両手でがしりと掴み止めた。
「ラルが怯えてんの、見えてねぇのか!!」
怒鳴り声に、ケセナの動きがぴたりと止まる。
ガイアの視線の先。
そこには、精霊の死の残滓が降る中で、両耳を塞ぎ、涙を流して震えているラルの姿があった。
「あ……」
その姿が視界に入った瞬間、ケセナの琥珀色の瞳から、オウセイの狂気が潮のように引いていった。
自分が今、誰に向かって笑い、何をしようとしていたのか。
この忌まわしい手で、また大切な者たちを恐怖で縛りつけようとしていたこと。
それを理解した途端、その顔から一気に血の気が引いた。
「ご、ごめん……。つい……」
気まずそうな、惨めなほど情けない声だった。
その前へ、ラルがずんずんと歩み寄る。
「つい……?」
地を這うような声。ケセナの顔が引き攣った。
「そう、つい……?」
疑問形で返した瞬間、ラルの眉がぴくりと動く。
彼女は右腕を大きく振りかぶり――。
静寂の森に、族長たちの闘気より遥かに鋭い平手打ちの音が響き渡った。
叩いたラル自身の指先も、震えていた。
「っ!」
ラルの渾身の一撃が、限界を超えたケセナの身体を容赦なく揺らした。
ケセナは大きくたたらを踏み、そのまま力なく両膝をついた。
だが、意識は落ちなかった。熱を持つ左頬を押さえ、痛みに顔を歪めながらも、その琥珀色の瞳はしっかりと仲間たちを見据えていた。
「…………」
「…………」
怒りの行き場を失い、剣を振り上げたまま固まるグレン。
武器を構えたまま立ち尽くす白虎と青龍。
ガイアは半眼で「あーあ」と漏らす。
レイアとツェヴァンは顔を見合わせ、同刻に深い息を吐いた。
「良いじゃろう……」
ツェヴァンが杖を下ろし、しゃがれ声に戻ってぽつりと零す。
「劇薬には違いないが……皇都の玉座に座る魔人という病を焼き払うには、この毒を呑むしかなかろうて」
「同感だ。制御の枷は、そこの小娘と朱雀に握らせておけばいい」
レイアも光刃を収め、膝をつくケセナを氷のような瞳で見下ろした。
「勘違いするなよ、遺児。我らがお前を担ぐのは、お前の中に眠る魔法が必要だからだ。だが、その毒がこの世界そのものを侵すようなら……次に寝首を掻かれるのは、お前だと思え」
「は……はい……」
頬を押さえたままケセナは小さく答え、その声を聞き届けたレイアは短く鼻を鳴らした。
ケセナの身体がふらつき、ラルが咄嗟に支えた。
「ケセナ!」
「ごめん……」
魔法の反動、塞がらない傷、そして左頬の痛み。
どれがどれだか分からない痛みに、ケセナは情けなく笑うしかなかった。
誰も、先ほどの魔法について深く口にしようとはしなかった。
口にすれば、この辛うじて繋がった同盟が、また音を立てて崩れてしまう気がしたからだ。
――それから一刻後。
静寂の森の跡地で、彼らは小さな焚き火を囲んでいた。
レイアが森の結界を張り直し、この場での野営と軍議が即座に決まったのだ。
「痛む……?」
焚き火の傍らで、ラルが水で濡らした布を、ケセナの赤く腫れた左頬へそっと当てた。
魔術が弾かれる以上、こうして冷やすしかない。
「ううん、大丈夫……ご、ごめ――」
謝ろうとした言葉を遮るように、ラルが布越しに頬を少し強く押した。
「な、なに?」
「身体の怪我の方。我慢してる」
「う……はい。すごく痛い、です……」
「手当てするから、脱いで」
有無を言わせぬラルの命に、ケセナは「え、あ、ここで……?」と戸惑い、自分の裾を握り締めた。
古傷だらけの身体を見られたくない。そんな気持ちが、まだ強く残っている。
「いいからさっさと脱げ!」
「うわっ、ちょっとガイア! 自分でやるから破かないで!」
見かねたガイアが背後から羽交い締めにし、半ば強引に上着を剥ぎ取った。
露わになった上半身を見て、ラルとガイアは息を呑む。
治りかけていた胸と背中、四肢の傷口は戦闘の余波で再び開き、痛々しい赤黒い血を滲ませていた。布と水だけでどうにかなる状態ではない。
「ケセナ、私の治癒魔術、弾いちゃう……」
ラルが悔しげに唇を噛んだ、その直後だった。
「ふぉっふぉっふぉ。若者よ、困っておるようじゃのぅ」
焚き火の向こうから、ツェヴァンがしゃがれた笑い声を上げながら歩み寄ってきた。
その手には、どろりと深緑色の液体が詰まった、恐ろしいほど怪しげな小瓶が握られている。
「爺さん、それは?」
「青龍族秘伝、肉の治りを無理やり引きずり上げる秘薬じゃ」
「無理やり、引きずり上げ……?」
不穏すぎる響きに、ケセナの顔からさっと血の気が引いた。
「ま、待ってください師匠! まさかまたあれを使う気では!?」
それまで背後で見守っていたグレンが、顔面蒼白で飛んできた。百戦錬磨の騎士らしからぬ狼狽ぶりである。
「やめてください! あれは痛みのあまり意識が飛びかけます!! ケセナには耐えられない!」
「ふぉっふぉっふぉ。相変わらず痛みに弱い大げさな弟子じゃ。じゃが、魔術を弾く今の小童にはこれしかあるまい?」
「だからって……ケセナ、逃げろ! 本当に洒落にならん!」
普段は冷静なグレンの本気の警告に、ケセナは真っ青になる。
「えっ!? ちょ、ラ、ラルさん? 俺、あの、これ以上痛いのは――」
「男なら腹を括れ、ファル!」
「ガイア、押さえつけるな、離して!!」
「ラル! 塗っては駄目だ!」
「先生は黙ってて! これしかないの!」
グレンの悲痛な制止も虚しく、逃げようとしたケセナの背中をガイアががっちり押さえつけ、ラルが躊躇いなく秘薬を傷口へ塗りたくった。
「ぎゃあああああああああっっ!!!」
王の威厳も、救世主の神秘も、応龍の血筋も、その一声で綺麗に吹き飛んだ。
ツェヴァンの言葉とグレンの警告に嘘はなかった。
傷口からしゅうぅと白い煙が上がり、肉が凄まじい勢いで塞がっていく。ケセナは陸に上がった魚のようにびちびち跳ね回り、涙目のまま地面を掻きむしった。
「ほれ、こっちの傷もじゃ!」
「ひぃぃぃっ! やめ、やめて! ぎゃあああっ!!」
「ファル、暴れんな! ラルが塗り残すだろ!」
「ああっ、ケセナが……っ! くそっ、あの薬の臭いを嗅いだだけで古傷が痛む……!」
そうして、精も根も尽き果てて地面へ突っ伏すケセナの姿があった。
金髪は土と汗にまみれ、琥珀色の瞳は完全に焦点を失っている。その横で、グレンもまた過去の痛みを引きずり出されたように胃を押さえてうずくまっていた。
「なっさけねぇな。男の子だろーが……」
「あんまりだ……」
「魔術跳ね返すから悪いんだつーの。次は俺がこの秘薬を全身に塗ってやるから安心しろ」
「一番、安心できない……!」
ガイアは楽しそうに笑った。
その容赦のなさの底に、確かな親しさがある。ケセナは痛みに引き攣りながらも、冷え切っていた胸の奥が少しだけ溶けるのを感じ、小さく笑った。
「無駄話と手当てが済んだなら、こっちへ来い、遺児」
岩場から、レイアの冷徹な声が響いた。
よろよろと立ち上がったケセナは、いまだに胃を押さえるグレンの外套を肩に羽織り、痛む足を引きずって族長たちの元へ歩み寄る。
レイアが指し示した岩場の羊皮紙には、皇都へ至るまでの巨大な防衛線が記されていた。
「目標は、皇都。……だが、その前に越えねばならない最悪の壁がある」
顔色の悪いグレンが気力を振り絞り、地図の一点を指した。
「『鉄火の門』。……今は、ビャクレンの率いる玄武の精鋭部隊が陣取っている」
やはり、最初の難関はそこだった。
ケセナはごくりと息を呑む。




