第五十八話 静寂が破られる
白虎領の境界、古の結界に守られた『静寂の森』。
馬を降り、木々の間を歩むケセナの足取りは、ひどく重かった。癒えきらぬ身体と高熱による疲れに加え、森の奥から滲み出る異様な気配が、空気そのものを重くしていた。
(何か、変だ……)
静寂という名の通り、虫の音ひとつしない森の闇。
巨大な生き物の腹の中へ踏み込んでいくような感覚に、ケセナは肌が粟立つのを抑えきれなかった。
やがて、巨木に囲まれた開けた空間へ辿り着く。
そこには、四獣の族長たちが互いに距離を取り、殺気すら混じる牽制の空気を放って立っていた。
「遅いのぅ、レイア。年寄りを夜巡りの風にさらして、我が領土でも奪う算段かのぅ……」
レイアの姿を確認し、しゃがれた声で毒を吐いたのは、百星霜齢の老人に擬態した青龍族長、ツェヴァンだった。
「その御子が本当に『王』を名乗るに相応しい器かどうか。ここで見極めてやろうかのぅ」
細められた目の奥に、爬虫類のような冷たい光が揺れている。
ツェヴァンはふんと鼻を鳴らし、面倒臭そうに杖へ体重を預けた。
「老いぼれたふりはやめよ、ツェヴァン。先の昼夜、本来の体躯で訪れたばかりではないか」
「ふぉふぉふぉ、あれは愚息のためよ。のう、御子よ」
レイアと共に姿を見せたケセナへ視線を向け、ツェヴァンは長い白髭を撫でた。
ケセナはびくりと身体を揺らし、慌てて横にいるグレンの後ろに隠れ、グレンの黒い外套を握り締めた。
グレンは何も言わず、ケセナの頭へ大きな手を置いた。ぽん、と一度だけ、怯えた子供を宥めるように撫でる。
その仕草だけで、強張っていたケセナの肩から、わずかに力が抜けた。
数夜前の夜会で見た不器用な庇い方と重なり、レイアはすっと目を細めた。
そして、氷の刃のような声で言い放った。
「本題に入るぞ……」
円卓に見立てた空間に立つ族長たちの顔を見回し、やがて一点で視線を止めた。
レイアの視線の先、苔むした岩に腰掛けていた玄武族長ビャクレンは、心底退屈そうに己の爪先を見つめている。実の弟であるグレンにすら、一切の視線を向けようとはしない。
場に流れるのは、肌を焼くような不信と敵意。
リュウショウという重石を失った猛獣たちは、もはや互いへの牙を隠そうともしていなかった。
「親書に記した通りだ。……遺児よ、中央へ」
レイアが、ケセナに中心へ立つよう促す。
こくりと頷き、震える足を悟られぬよう慎重に踏み出す。ケセナは、円卓に見立てられた空間の中心へ歩んだ。
そして、強い意志を宿した琥珀色の瞳で前を見据える。
長い金糸の髪が背へ流れ、月光を受けて、淡く神秘的な光を帯びていた。
レイアは一つ呼吸を整え、口を開いた。
「皇都の玉座に座るフィサルーアは、ノヴェリアが禁呪で創り出した肉人形だ。真の皇位継承権を持つのは、ここにいるリュウショウ様の遺児、ファルイーアただ一人。我ら四獣は結集し、偽りの皇帝を討つ。……異論はあるか」
「異論しかないな」
即座に返したのは、ビャクレンだった。
「第一、その『本物』とやらを見てみろ。立っているのがやっとの顔色だ。治りきらぬ傷を庇い、己の魔力すら制御できずにいる……哀れな欠陥品ではないか。そんな壊れた兵器のために、我らが一族の血を流せと言うのか?」
ケセナの身体が震える。
図星だった。
「兵器ではありません、兄上……」
静寂の森を裂くように、怒りを含んだ声が響いた。
グレンだった。
実の兄へ向ける三十星霜ぶりの言葉は、ただ一人の青年を守るためだけに放たれた、静かな刃だった。
「死んだ男の血筋など、今の世に何の価値もない。……愚弟よ」
だが、ビャクレンは冷酷に切り捨てた。
「大体、白虎の女傑ともあろう者が、随分と感傷に浸ったものだ。玉座の中身が人形だろうが化け物だろうが、世が回るならそれでいい。我ら玄武は、とうに勝者の側にいる」
「血迷ったか、玄武。評議会の犬に成り下がるのがお前たちの誇りか……」
「誇りで腹は膨れん。お前たちは、もう詰んでいる」
「詰んでおるとは言いおるわい。そう言う玄武こそ、どうなのじゃ」
白虎の殺意、玄武の嘲笑、青龍の老獪な探り。
それらが絡み合い、森の空気は、呼吸すら苦しいほどの毒気を帯びていく。
腹の探り合い。
言葉尻を捉えた牽制。
一向に進まない議論。
その不毛な駆け引きを、朱雀の席で腕を組んで聞いていた若き族長が、赤い髪をがしがしとかき乱した。
「あー、もう。マジでうぜぇ……」
静寂の森に、ガイアの心底うんざりしたような声が響く。
全員の視線が、不機嫌そうに顔を上げた朱雀の長へ集まった。
「あんたら、さっきから回りくどいんだよ。本物だの偽物だの、誇りだの……。朱雀は、あの皇都でふんぞり返ってる気に食わねぇ偽物をぶっ飛ばして、ここにいるファルイーアを助けたい。ただそれだけだ」
単純明快。
一切の政治的配慮を投げ捨てた発言に、ツェヴァンが目を丸くし、やがて「かっ」と吹き出した。
「かっ、かかかか! まったく、朱雀の坊主は相変わらずじゃのぅ! 政治の場で卓を蹴り飛ばすようなその馬鹿さ加減、嫌いではないぞ!」
「馬鹿って言うな、爺さん!」
族長同士が噛み付くその横で、ケセナは痛む胸を押さえながら、短く息を吐いた。
(俺が、ちゃんと言わなきゃ駄目だ……)
この二十五夜、何度も練習した言葉がある。
レイアに、何度も言い直しを命じられた言葉だ。
『遺児よ、俯くな。王を名乗るなら、まず視線を上げよ』
『謝るな。お前は協力を乞うのではない。四獣に選ばせるのだ』
『声が弱い。弱者の懇願に聞こえる』
そのたびに、ケセナは反発し、言い返し、最後には傷の痛みで寝台に沈んだ。
それでも、言葉だけは覚えている。
逃げないために。
ケセナはよろめく足に無理やり力を込めて、一歩、前へ出た。
「俺……私は、この狂った状況を良しとせず、ファミラスを正しき治世へ戻すため、四獣に協力を願い、この場を設けてもらいました」
細いが、芯のある声だった。
ビャクレンの黒い瞳が、面白そうにケセナを捉える。
「私は、王として育てられたわけではありません。皆様が知る通り、私は兵器として扱われ、命令でしか動けない存在でした。……自分がリュウショウ陛下の子であるという自覚も、正直、まだありません」
そこまで言って、一瞬だけ言葉が詰まる。
レイアに教え込まれた言葉なら、この先にはもっと整った台詞があった。
だが、それだけでは足りない。
「けれど」
ケセナは痛む胸を押さえ、もう一歩だけ前へ出た。
「私の存在を理由に、応龍の民が狩られている。無関係な者たちが罪人にされ、四獣の一族までもが脅されている。……それを、見過ごすことだけはできません」
琥珀色の瞳が、四獣の族長たちを真っ直ぐに見据える。
「私は一人では何もできません。力も、知恵も、経験も足りない。だから、皆様の力を貸していただきたい」
そこで、少しだけ声が震えた。
「どうか、私と共に戦ってください。……俺は、誰かが理不尽に、大切なものを奪われるのを見過ごしたくない」
練習した言葉ではない。
それは、今のケセナが本当に伝えたい言葉だった。
「フィサルーアの奥にいる魔人が、世界を壊してしまう前に。応龍の民が、最後の一人まで殺されてしまう前に」
魔人。
その単語が出た瞬間、ツェヴァンの顔から老人の笑みが消え、レイアの目が鋭く細められた。
ただ一人、ビャクレンだけは鼻で嗤って立ち上がる。
「魔人だと……? 狂気に当てられて幻覚でも見たか。それとも、己の不出来を奴らのせいにしたいのか」
「違う! 本当に――」
「もういい。見極めは終わった」
ビャクレンが片手を高く挙げた。
それは、逆賊に対する死刑宣告の合図だった。
「来る……!」
ケセナの中にあるオウセイの直感が、森の異変をいち早く捉えた。
ただの暗殺者ではない。森の奥から、空気を腐らせるような魔術の気配が急激に膨れ上がっていたのだ。
ケセナが咄嗟に結界を展開したのと、頭上の巨木から『黒い雨』が降り注いだのは、ほぼ同刻だった。
空気を裂く鋭い音。
無数の黒い刃が月光を反射し、円卓の空間へ一斉に殺到する。
「っ!」
ケセナの琥珀色の瞳が鋭く見開かれ、展開された防壁が凶刃を弾き返す。
だがその衝撃は、限界を迎えていた身体を容赦なく打ち据え、ケセナは苦悶の表情を浮かべて片膝をついた。
「ケセナ!」
ラルの悲鳴が響く。
彼女は即座に両手を天へ掲げた。
「力を貸して!」
声に応えた風の精霊たちが彼女の周囲を舞い、緑色の突風となって残りの刃を空へ吹き飛ばす。
「ちっ、数が多いぜ!」
ガイアが短剣を閃かせ、闇から飛び出した刺客の喉笛を掻き切る。
レイアは白虎の覇気だけで近づく者の臓腑を潰し、ツェヴァンは「やれやれ」とぼやきながら、杖の先から放つ水刃で刺客の足を削いでいった。
四獣の長たちと、皇都の暗殺部隊による乱戦。
その血みどろの光景を、ビャクレンは岩場から冷ややかに見下ろしていた。
「期待外れだな……。あの程度の奇襲を凌ぐのに精一杯か」
ビャクレンは退屈そうに立ち上がり、刺客たちに背を向けて森の奥へ歩み出す。
「待て、兄上っ!!」
グレンが剣を振りかぶり、その背を追おうと地を蹴る。
だが、行く手を三人の特級暗殺者が音もなく塞いだ。
「退け!!」
魔力を持たぬグレンの、鍛え抜かれた剣技が刺客たちの刃を弾き飛ばす。
だがその数息の足止めのあいだに、ビャクレンの姿はすでに闇へ溶けようとしていた。
「せいぜい足掻け、愚弟。そして白虎も、青龍も……ここで歴史の敗者として土に還るがいい」
冷酷な捨て台詞と共に、玄武族長は完全に姿を消した。
ビャクレンが去ったことで、森の奥に潜んでいた魔術兵たちが、ついに大規模殲滅魔術の詠唱を完了させていた。
狙いは、膝をついたケセナ。
「させねぇよ!!」
ガイアが割って入ろうとするが、刺客の波に阻まれて届かない。
ツェヴァンもレイアも、多勢に無勢の防衛戦で一瞬の隙を作れずにいた。
(駄目だ……。このままじゃ、みんなが!)
ケセナの意識が、絶望と激痛の中で明滅する。
その刻だった。
『…………退け』
ケセナの脳裏で。
絶対的な声が響いた。
五千星霜前の蒼髪の救世主。
その記憶が、傷だらけの身体の奥で目を覚ました。
ケセナの意志を守るために、押し退けるように。
「え……?」
ラルが息を呑む。
膝をついていたケセナが、ふらりと立ち上がった。
その琥珀色の瞳は、先ほどまでの痛みに耐える青年のものではない。
一切の感情を排した、冷酷で、底知れぬ傲慢さを湛える眼光だった。
ケセナは、無造作に右手を虚空へ向けた。
詠唱はない。
祈りもない。
契約すら、存在しない。
「来い」
ただ一言、命じる。
次の瞬間、森の空気が悲鳴を上げた。
ラルの魔術に応じていた風の精霊たち。
そして周囲の木々に宿る地の精霊たち。
それらすべてが、目に見えぬ巨大な力に引き剥がされ、ケセナの右手へ凄まじい勢いで吸い寄せられていく。
「や、やめて……! 精霊たちが、泣いてる……っ!」
精霊の声を聞くことのできるラルが、耳を塞いでしゃがみ込む。
魔法とは、搾取だ。
集められた精霊たちは、ケセナの右手の中で極限まで圧縮され、その生命力を最後の一滴まで絞り取られていく。
光の粒子が断末魔のような音を立てて砕け散り、ケセナの手のひらに、純粋な破壊だけが黒く渦巻いた。
「消えろ」
ケセナが腕を振るった。
右腕の奥底で恐怖に震え、沈黙していたはずの黄金龍が、オウセイの力によって強制的に引きずり出され、解き放たれる。
だがそれは、光り輝く龍ではなかった。
精霊の命を喰らい、どす黒い怨念に染まりきった、禍々しい龍。
黒き龍の閃光は、魔術兵たちが放とうとしていた大規模魔術を紙のように食い破り、そのまま森の一角を、三十人近い暗殺部隊もろとも完全に消滅させた。
爆音すらない。
ただ、そこにあったはずの空間だけが、抉り取られたように消え去った。
後に残されたのは、魔法の代償として存在そのものを燃やし尽くされた精霊たちの、死の残滓だけだった。
「あ……」
オウセイの意識が退き、ケセナは自らの右手と、灰が舞う惨状を見つめた。
痛みが消えたわけではない。
ただ、自分が無意識に振るった力のあまりのおぞましさに、全身の血が凍りついていた。
黄金龍すら屈服させた、オウセイの呪われた力。
それは、味方であるはずの精霊を虐殺して放たれる、絶対の破壊だった。
静寂の森に、重く冷たい沈黙が降りた。




