第五十七話 死に損ないの王
白虎の本城、その裏手に広がる修練場。
白虎の城へ身を寄せてから、二十五夜が過ぎようとしていた。
収奪の季も終わりに近づき、封還の季の冷たさを孕み始めた昼巡りの始まりの空気は、肌を刺すほどに冷たい。
その中で、鋭い金属音と鈍い打撃音、そして荒い呼気だけが、痛々しいほど響き渡っていた。
「そこだ、ファル! 動きが鈍い!」
ガイアの鋭い声と共に、右手から繰り出された短剣が、目にも留まらぬ速さでケセナの死角を突く。
(軌道は、見えてる……!)
オウセイの戦闘経験が、刃の届く位置を正確に告げていた。
咄嗟に刀で弾き、身を捻って避けようとする。
だが、酷使され続けた身体は、その思考の速さにまるで追いつかなかった。
「っ!?」
無理な動きに筋肉が悲鳴を上げ、胸から背へ抜ける十文字の傷痕に、焼けるような激痛が走る。
わずかに遅れた反応の隙を突き、短剣の柄がケセナの脇腹を強く打った。
土煙を上げて膝をついたケセナは、荒い息を吐きながら、無意識に自らの胸元――衣服の奥に隠された、塞がりきっていない傷痕を強く押さえた。
「そこまでだ……」
「ケセナ!」
修練場の隅で腕を組み、静かに見守っていたグレンと、その傍らにいたラルが足早に駆け寄ってくる。
「ごめん……。ありがとう」
悲鳴を上げる四肢の痛みを堪えながら、ケセナはラルが伸ばしかけた手を制し、自力で立ち上がろうとして、足元に落ちた刀を拾い上げた。
それは、応龍の宝刀、プラークルウ。
手にしたそれは冷たく、ただの鉄の塊のようだった。軽いはずの刀身が、今の彼にはあまりにも重い。
打ち合っても、あの澄んだ共鳴音は響かない。
姿も見せず、あの騒がしい声も聞こえない。
謝りたかった。
けれど今のケセナには、完全に拒絶されることが怖くて、その名を呼ぶことすらできなかった。
そして、あの呪わしい黄金龍の気配も、不気味なほど静まり返っている。
内にも外にも広がる絶対的な静寂が、かえって魂を押し潰すような恐怖を連れてくる。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
何より、この夜巡りには四獣の族長たちが集う『極秘会談』の刻が迫っている。自分が『王』として中心に立たねば、すべてが終わるのだ。
「行こう……。四獣の、会談へ」
這いつくばるような声でそう告げた、直後だった。
「――あ……」
拾い上げたはずの刀が、力なく手からこぼれ落ちた。
ケセナの視界から急速に色が失われ、世界がぐらりと傾く。
治癒魔術を無意識に弾く身体は、いつまでも傷を塞がない。胸も背も四肢も、動くたびにじわりと血を滲ませる。
失った血が多すぎた。頭痛も眩暈も、もう何度襲ってきたか分からない。
それでもケセナは、誰にも言わなかった。
この二十五夜、まともに眠れた夜巡りなどほとんどない。傷が塞がらぬまま、昇りの昼巡りは歩行、沈みの昼巡りは剣、夜巡りは会談に備えた問答を叩き込まれる。一度も休むことなく己を追い込み続けた身体も心も、とうの昔に限界を越えていた。
どさり、と重い音を立てて、ケセナは冷たい地面に突っ伏した。
「ケセナ!!」
ラルの悲鳴のような絶叫が響く。
グレンが駆け寄り、泥にまみれたケセナの身体を抱き起こした。
「熱いな……」
吐く息も白くなる凍てつく空気の中で、ケセナの身体だけが異常なほどの高熱を発していた。
それでいて呼吸は浅い。限界を超えた活動に、身体そのものが悲鳴を上げているのだ。
「また黙っていたな……」
グレンの低く苦い声が、静まり返った修練場に落ちる。
抱きかかえられたケセナの顔は、気を失ってなお、苦痛に耐えるように歪んでいた。
その足元に転がる宝刀を見つめ、ラルは血が滲むほど唇を噛み締める。
何も言えない。
ここで真実を告げれば、この細い命の糸すら、ぷつりと切れてしまいそうで。
「準備を整えておけ」
修練場の入口に、白虎族長レイアが姿を現した。
その佇まいは冷徹なまでに凛としているが、倒れたケセナを見つめる青い瞳には、わずかな沈痛の色が混じっている。
「予定通り、この夜巡りに出発する。場所は白虎領の境界、『静寂の森』。期限まで残り五夜。族長たちを揃えるには、この夜巡りしかない。それまでに、何としてでもその遺児を叩き起こせ。……死なせるな」
レイアはそれだけ言い残し、ばさりと外套を翻して去っていった。
冷たい地面に残されたのは、癒えぬ傷と、折れそうなほど疲弊した一人の青年。
そして、彼を無理やりにでも死地へ立たせなければならない大人たちの、重い覚悟。
それは、反逆の舞台へ向かうにはあまりにも頼りない、それでも確かな出発の合図だった。
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深い、泥濘のような暗闇の中。
ケセナは音のない世界を彷徨っていた。
「プラウ!」
目の前に銀色の髪が舞った。
あのけたたましい声は聞こえない。けれど、それがプラークルウだとすぐに分かった。
追いかける。
だが足が重く、どうしても追いつけない。
必死に手を伸ばすと、銀色の髪がこちらへ振り向いた。
大きな金色の瞳に、深い怒りを滲ませて。
彼女はふわりと幻のように消え去った。
自分の手が汚れきっているから、もう誰も触れてはくれないのだと、絶望が胸を焼く。
「ごめん、プラウ……」
自分の魔術は、彼女を怒らせる。
それでも悠久の彼方で交わした会話だけは、やけに鮮明だった。
『だってオウセイ様の魔法は、諦めるしかないじゃないですか!』
『諦めでいいのか……?』
『世界を救うため、諦めるってことですよ! もう、理解してくださいよ、馬鹿ですか! オウセイ様!』
『随分な言いようだな、勝手に住み着いたくせに』
『違いますよ! 呼ばれたんですよ! 貴方に!!』
『……誰が呼ぶか。お前みたいな騒がしい精霊』
『うきゃー! 腹立ちますね!』
あれには困惑したな、と暗闇の中で苦笑が零れる。
やがて、遠くから響く低い鐘の音が聞こえてきた。その音に向かって、ゆっくりと意識が浮上していく。
瞬きを一つ落とし、目を開けようとして、あまりの瞼の重さに一度断念する。
「っ……」
全身に鉛を流し込まれたように重く、自分が寝ていることに遅れて気づいた。
修練場で打ち据えられた脇腹が、心臓の鼓動に合わせてどくどくと熱く疼く。
視界が少しずつ焦点を結び、そこにあったのは、孤独な夢とは違う、卓上の灯りに淡く照らされた、見覚えのある三人の確かな影だった。
「気がついたか……」
寝台の傍らで腕を組み、椅子に深く腰掛けていたグレンが静かに声をかけた。
その膝の上には、冷たいままの宝刀プラークルウが置かれている。
隣ではラルが、祈るような手つきでケセナの額に当てた濡れ布を取り替えていた。
「グレンさん……ラル、ガイアも」
「馬鹿。出発直前に倒れないで……」
ラルは毒づきながらも、その声は安堵で微かに震えていた。
ガイアは壁に背を預け、自らの短剣を弄びながら顔を上げる。
「ま、会談の最中に倒れそうだったら、俺が後ろから首根っこ掴んで立たせてやるよ」
わざとらしく鼻で笑い、短剣を鞘に納める。
ケセナは震える腕で上半身を起こそうとしたが、脇腹と胸を走る激痛に顔を歪めた。
治りの遅い四肢と、胸と背の傷は塞がっていない。
魔術を強く拒絶する彼の肉体は、己の生命力だけを燃やして、この限界を越えようとしているのだ。
「ごめん……」
「謝るな。お前はよくやった。……だが、これから向かうのは、寝不足や高熱が言い訳になるような生易しい場所ではないぞ」
グレンは膝の上から刀を取り、ケセナの枕元へ静かに立てかけた。
そして横に置かれていた水差しを手に取り、木椀へ水を注ぐ。
「静寂の森まで、馬で二刻ほど。……族長たちが待っている」
差し出された木椀を、ケセナは震える手で受け取った。
砂漠のように乾ききった喉へ冷たい水を流し込むと、ぼやけていた意識が少しずつ澄んでいく。
その先に残ったのは、逃げようのない決意だけだった。
「うん……。行くよ」
ケセナはふらつきながらも、自分の力で寝台から冷たい床へと足を下ろした。
その背中は、二十五夜前より一回り小さく見えるほどに消耗していた。
それでも立ち上がったその瞳――オウセイの記憶が混じる琥珀色の瞳には、決して消えない覚悟の火が、静かに灯っていた。
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城の門前では、精鋭の白虎騎士たちを引き連れたレイアが、冷徹な月光を浴びて馬に跨っていた。
整然と並ぶ騎士たちは一言も発さない。だが、その纏う重圧が、これから向かう場所がただの会談ではないことを物語っている。
吐く息が白く染まる極寒の夜巡りの始まり。
重い足取りで現れたケセナを一瞥し、レイアは氷のような声で告げた。
「死に損なったようだな、遺児。よく生きて戻った」
それは、白虎族長なりの遠回しな労いだったのかもしれない。
だが、ケセナはそれに甘えることなく、琥珀色の瞳を真っ直ぐにレイアへ向けた。
「死ぬという選択肢は、昔から俺にはありません……」
静かだが、鋼のような芯のある声だった。
高熱に浮かされ、立っていることすら容易ではないはずの彼が放ったその言葉に、レイアは僅かに目を細める。
「ほう。大した自信だな。だが、これから向かう『静寂の森』では、その虚勢など一瞬で削がれるぞ。族長たちは皆、貴様が己の血を賭けるに足る『王の器』かどうか、虎視眈々と見定めているのだからな」
「分かっています……」
「ならば、その震える足を恨むことだ。貴様が弱みを見せれば、四獣は容赦なく貴様を食い殺す」
レイアは手綱を握る手を動かさず、月光を弾く冷たい眼差しでケセナを見下ろした。
「構いません。それでも俺は、フィサルーアの虐政を止めたい」
「よかろう。その覚悟があるのなら、私は遠慮なく貴様を『駒』として使うぞ。先代の遺児だろうが、救世主だろうが関係ない。白虎の血を流すだけの価値を、その身で証明してみせよ」
「証明します。……俺は、俺のせいで苦しんでいる応龍の民を救いたい」
ケセナの迷いのない即答に、レイアの唇の端が、ほんのわずかだけ弧を描いたように見えた。
「行くぞ……」
言葉など、それ以上はいらなかった。
癒えぬ傷を抱え、体力の限界という細い糸を綱渡りするような、絶望的な旅路。
世界の命運を決める四獣会談へ向けて、一行は月明かりの中を静かに出発した。




