第五十五話 歩け、遺児
一夜が明け、最低限の止血と処置を終えたところで、レイアとマジョルドによる過酷な『歩行訓練』が始まった。
晴れ渡る庭の芝生の上。吹きつける収奪の季の冷たい強風に打たれながら、ケセナは痛む手足を抱えるようにへたり込み、全力で抗議していた。
「遺児よ、立て!」
「無理です!」
「坊っちゃま、わたくしめの手をお取りください」
マジョルドが優雅に手を差し出すが、ケセナは絶対に取らないとばかりに、ぷいと横を向いた。自分の伴侶の親切を無視されたレイアは、額に青筋を浮かべる。
「一夜前、立派に覚悟を決めたのではなかったのか!」
「それとこれとは話が別です!」
この不毛な押し問答を、もう何十回繰り返しただろうか。
グレンは深く息を吐き、痛むこめかみを指で押さえていた。その後ろではラルが大量の傷薬と布を抱えてはらはらと見守り、逆にガイアは腹を抱えて面白そうに野次を飛ばしている。
「いいぞー、レイア、もっとやれー!」
「助けてよ、ガイア!!」
「やなこったー」
「どいつもこいつも……俺は怪我人だぞ! しかも、かなりの重傷で!」
「それだけ大声で叫べるのなら、何の問題もあるまい」
さらりと言ってのけるレイアを、ケセナはきっと睨みつけた。
「俺の四肢を拘束して串刺しにした張本人が、よく言う!」
抑えきれなくなった内なるオウセイの気性が、つい顔を出していた。
とはいえ、魔力すらまともに戻っていない今の彼にできることなど何もない。芝生に座り込んだまま凄んでも、迫力は皆無だった。
「全員、魔力が戻ったら覚えていろよ……」
不穏な恨み言を漏らしつつも、結局は諦めるしかない。
「そうやって、ころころと精神状態が変わるのも問題だ」
「不可抗力です!」
「よかろう。歩行訓練と共に、その貧弱な精神も一から鍛え直してやる!」
「高らかに宣言しないでください!?」
ついに精神面の問題まで俎上に載せられ、ケセナは本気で逃げようとした。
だが悲しいかな、足はまともに動かず、自力で立ち上がることすらできない。
「グレンさん! 助けて!」
思わず、最大の保護者へ助けを求める。
しかしグレンはすっと目を逸らし、「天気いいな……」などと、あからさまにラルと話し込むふりを始めた。
「裏切り者ぉぉぉ!」
「さあ、立て、遺児! まずは自らの足で歩けるようにならねば話にならん!」
まったく進展しない訓練と不毛な言い争いに、とうとうラルが立ち上がった。
芝生に座り込むケセナの傍へ歩み寄り、しゃがみ込んで小さな手を差し出す。
「もう、掴めるよね……」
「ラル……!」
ケセナはまるで地獄に舞い降りた救済の女神を見るような顔で、その手を見上げた。
ただ、他人に触れられることへの恐怖は、まだ完全には消えていない。ほんの一瞬だけ指先が躊躇う。
けれど、そうも言っていられなかった。
ケセナは決意し、ラルの小さな手をしっかりと掴んだ。
手首にすらまともに力が入らなかったが、ラルが力強く引いてくれたおかげで、ケセナは震える足でなんとか立ち上がることができた。
「ラル、どこに逃げる――」
の、と感動の面持ちで続けかけた、その瞬間。
ラルが、ぱっと手を離した。
「へ?」
支えを失い、生まれたての小鹿のようにふらつくケセナ。
ラルは振り返りもせず、あっけらかんと言い放った。
「はーい、おばさん。ケセナが立ったよ」
「誰がおばさんだ、小娘!」
「ラル!?」
信じられないものを見る目で、ケセナは悲痛な声を上げた。
信じていた女神すら、無慈悲な裏切り者だった。
そこからの歩行訓練は、まさに地獄だった。
レイアの容赦ない怒号と、マジョルドの耳元での優雅な囁きが交互に飛んでくる。一歩足を前へ出すだけでも全身の傷が引き攣って激痛が走るというのに、彼らは休む間も与えてくれない。
傷の治りが遅いケセナの身体にとって、フィサルーアから猶予された三十夜という期限は短すぎた。
「せめて猶予を一星霜にしてよ、フィサルーアァァ!」
「体力も圧倒的に足りぬわ!」
「うるさいよ! 仕方ないでしょ!」
「ほぉ……仕方ないと申されるか、遺児よ!」
レイアがぴたりと目を細めた。その圧に、限界を迎えたケセナは、とうとう半泣きのまま声を荒げた。
「そもそも俺、まともな食事も受けつけないくらい身体が弱いんですけど!?」
ケセナが言い放った瞬間、庭の空気が凍りついた。
(あ、しまった……!)
言ってから、ケセナは激しく後悔した。冗談の通じる相手と通じない相手がいるのだ。
「すまない、ケセナ。全部、俺が悪いんだ……! 麦餅さえ、喉を通らず吐いたというのに!」
案の定、グレンが両手で顔を覆い、本気の懺悔を始めてしまった。
「俺だって……俺だって、お前を守ってやれなくてよぉぉ!」
ガイアまでもが地面に手をつき、涙声で男泣きを始める。
「あーあ」
ラルだけが、半眼でケセナを見つめていた。
ケセナ本人は、ただ少し休む理由が欲しかっただけだった。
だがグレンやガイアにとっては違う。彼がまともに食事も摂れないという事実は、そのまま『実験体や兵器として酷使されてきた過去』を突きつけるものだった。
「ご、ごめん。そんなつもりじゃ……」
慌てて弁解しようとしたケセナだったが、その湿っぽくなりかけた空気を、世界最強の白虎族長は一刀両断した。
「反省せよ!」
レイアの放った、肉を裂かぬ程度に加減された風魔術が、容赦なくケセナの足元で炸裂する。
「うわあっ!?」
「同情を引いて怠けようなどと甘い! 歩け! 愚か者!!」
「痛い、痛い痛い! 無理無理、痛いから!」
左右の足元へ、風の魔術が絶え間なく撃ち込まれる。
ケセナは悲鳴を上げながら、それを避けるために痛む足を無理やり動かし、半泣きで歩き続けるしかなかった。
昼巡りが終わる頃。
息も絶え絶えにレイアの風魔術から解放された頃には、庭の芝生は無数の穴だらけになっていた。
その中心で、ケセナが完全に力尽きたように突っ伏している。包帯から新たに滲んだ血を見て、ラルが呆れながらも手際よく巻き直していた。
土やら汗やら涙やらでぐちゃぐちゃになった顔を芝生へ擦りつけながら、ケセナは虚ろな声で言う。
「期限前に、俺、死んでると思う……」
「大丈夫。その前に止めるから」
「俺の希望としては、今すぐ止めて欲しいんだけど」
「無理だよ。だってケセナ、自分で『当然だ』なんて格好良く言っちゃったんだから」
「俺って、馬鹿なの……?」
自嘲するように問いかけた直後、ケセナの表情が止まった。
――馬鹿。
その一語だけで、誰にでも容赦なく馬鹿呼ばわりしていた、あの騒がしい声を思い出したのだ。
「プラウ……どこ行ったんだろ」
ぽつりと零れた名前に、包帯を巻いていたラルの手がぴたりと止まる。
ラルは、まだ伝えていなかった。
今こそ言うべきなのかもしれない。
けれど、泥だらけになりながらも、笑えるようになった彼を前にして、どうしてもその残酷な真実を口にすることができなかった。
「会いたいな……プラークルウ」
暮れゆく空を見上げるケセナの小さな声は、昼夜の終わりを告げる冷たい風に攫われ、静かに消えていった。




