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第五話 七夜を費やして

 叩きつけられた重低音が響き、食卓が揺れた。


 昼巡りの穏やかな刻。居間で隣り合って座り、優雅に茶杯を傾けていたオウセイとキリエは、突然の凶行に目を見張って顔を見合わせた。

 食卓の上には、あの分厚い歴史書。そして、それを力任せに叩きつけたケセナが、肩を激しく上下させながら立っていた。


「ケセナさん? もしもーし?」


 オウセイが恐る恐る声をかけると、ケセナは弾かれたように顔を上げ、真紅の瞳を吊り上げた。その尋常ではない剣幕に、オウセイは思わず仰け反る。


「やっと……っ! やっと読み終わりましたよ! 七夜って、こんなに長いものなんですね! 俺は知りませんでしたよ!!」


 声の後半には、あからさまな嫌味がたっぷりと込められていた。

 本を渡してから、ちょうど七夜。読むのに相当な苦労をしたのだろう。行き場のない怒りが、今にも湯気を立てそうな勢いで噴き出している。


「そ、そうか……お疲れ……」


 気迫に押され、オウセイはしどろもどろに労った。しかし、興奮冷めやらぬケセナの口は止まらない。


「五回ほど読み返しましたけど! これ、ほとんど資料的なものばかりで、ぜんっぜん楽しくありませんでした!」

「それでも五回は読み返したのね……」


 感嘆の声を漏らしたキリエは、堂々と存在感を主張する分厚い本と、敗者のように息を切らすケセナを交互に見比べた。そのあまりにも滑稽な絵面に、たまらず顎を引いて小さく苦笑する。

 オウセイもまた、呆れと驚きの入り交じった長い息を零した。


「とりあえず、それなりに『歴史』は理解しました。それから、キリエさんが『騒動に巻き込まれそう』って言っていた、俺の容姿についても。自分が皇帝直系の応龍族だなんて、まだ信じられませんけど」


 ケセナの言葉に、オウセイとキリエはぴたりと動きを止めた。

 そして、こそこそと内緒話を始める。


「……容姿のことなんか、この本に書いてあったか?」

「私に聞かないでください。知りません」


 再び本で食卓を殴りつける重低音が響いた。

 びくりと肩を震わせた二人は慌てて口を噤み、ばつが悪そうにそれぞれ別の方角を向く。

 業を煮やしたケセナが、三度目の鉄槌を下そうと本を持ち上げた。


「書いてありました! 確か二百――」

「あーーーっ! 頁数とか、記載してる場所とか、今は全然いらない!」


 律儀に該当箇所を読み上げようとするケセナを、オウセイは両手を大きく振って全力で遮った。

 ケセナは不満げに口を尖らせ、オウセイを睨みつける。真紅の瞳にはまだ怒りの火が残っており、オウセイはどうやってこの場を収めるべきか、必死に視線を彷徨わせた。


 するとキリエが涼しい顔で、「三星霜前のこと」とだけ唇を動かす。


 そうだった。


 オウセイはぽんと手を打ち、強引に話題を切り替えた。


「最後にもう一つだけ、知識を詰め込もうか」

「まだ何かあるんですか」


 相当不貞腐れているのが分かる声だった。

 やれやれ、とオウセイは背凭れに身を預けて天井を仰ぎ、すぐに前のめりになってケセナを指差す。


「言っただろう? 近頃のことは、その本には書かれていないから、俺が教えてやるって」

「そんなこと、言ってましたね。では今すぐ教えてください」

「今?」


 虚を衝かれたオウセイを、ケセナは半眼で見つめて深く頷いた。


「俺は無駄な七昼夜を過ごしたと思ってるんです! 本当に重要だったのは、最初にオウセイが教えてくれた真実だけでしたから!」

「無駄って、お前……」

「俺は名所を巡りたいんじゃなくて、ここに生きる人たちとか、世界の姿を知りたかったんです! なのにこの本、建物がどうだとか、功労者の石像がどうだとか、小競り合いがあったとか……はっきり言って、どうでもいい情報ばかりでした!!」


 怒りが再燃したのか、ケセナは肩で息をしながら、分厚い本を食卓に立てた。

 そして、真顔のまま無言で拳を叩き込み始める。

 本を殴る鈍い音が、居間に響く。


 その異様な光景に、オウセイとキリエは再び肩を寄せた。


「……どうでもいい情報か? 五千星霜が? それに、あれは」

「逆に清々しいですけれどね?」


 キリエの容赦ない感想に、オウセイは胸中で「あれが清々しいか?」と呟く。


 だが、すぐに気を取り直した。本を親の仇のように殴り続ける青年に声をかけるのは勇気が要ったが、ここは腹を括るしかない。


「分かった。教えよう。まずは落ち着いてくれ、な?」


 宥めるような声に、ケセナは渋々拳を下ろし、椅子へ腰を下ろした。口はへの字に曲がったままだが、聞く気はあるらしい。


 オウセイは表情を引き締め、口を開いた。


「俺が教えるのは、三星霜前に終わった内乱のことだ」

「内乱?」


 その不穏な響きに、ケセナの顔つきが変わる。手から本を離し、眉間に深い皺を寄せた。


「そうだ。酷い戦だった。始まりは五星霜前。皇妃が皇帝を裏切り、魔術一門のベラリティル家へ逃げ込んだ」

「皇妃が……?」


 ケセナの真紅の瞳に、戸惑いと警戒が滲む。

 オウセイは頷き、言葉を続けた。


「ベラリティル家は、以前から皇帝の座を狙っていたファミラス最強の魔術一門だ。そこへ皇妃が転がり込めば、好機と見て動くのは当然だろう。反旗の狼煙を上げたベラリティル家は、『玄武族』の一部と、歴史から消えていたはずの『麒麟族』を取り込み、一気に勢力を広げていった」

「き……きりん?」


 聞き覚えのない名称に、ケセナは戸惑いを見せた。オウセイがきょとんとして歴史書を指差す。


「これに書いてなかったか?」

「一つも書いてませんでしたけど」


 オウセイは顎に手を当て、少しだけ迷ってから口を開いた。


「麒麟族は、五千星霜前に俺が応龍の守護を任せた一族だ。だが、後の世で謀反の疑いをかけられ、歴史の表から消えた」

「消えた……?」

「俺が里ごと隠した。表向きは絶滅したことになっている」


 絶滅。


 その残酷な響きを、ケセナは小さく呟いた。

 オウセイは横目でそれを見やり、そこで話を切った。希少種である彼らと旅先で出会う可能性など、ほとんどない。


「で、だ。そんな大規模な戦が起きると、そわそわしだす、ろくでもない連中がいてな……」

「『ティリティシアの魔人たち』ですか?」


 ケセナの鋭い勘に、オウセイは頷く。

 歴史書の記述でも、内乱の折には必ず魔人が介入し、その都度『何者かが撃退した』と結ばれていた。その何者かがオウセイであることは、言うまでもない。


「そうだ。奴らが介入し、あろうことかベラリティル家側についた。おかげで、隠居生活を謳歌していた俺のところに、へらへらした皇帝が泣きついてきてな。応龍族の戦力になれだのなんだのと喚き散らして、結局引っ張り出される羽目になった」

「心底嫌そうに言いますね」


 毒を吐き捨てるようなオウセイの態度に、ケセナが率直な感想を零す。オウセイは大仰に肩をすくめた。


「当たり前だろう? 俺は安穏と暮らしていたのに、なんでまた血生臭い戦場に立たなきゃならないんだ」

「ああ。だから逃げ回ってたんですね。納得しました」


 すっかり冷めきった茶を啜りながら、キリエが唐突に爆弾を投下した。

 オウセイは顔を引きつらせる。


「キリエ。勘違いされそうな発言はやめてくれ」

「え、でも事実――」

「それでだ! その後の戦は泥沼化した。それでもまぁ、なんとか凌いで、応龍族側が勝利。約二星霜で内乱は終わった。そして今に至る! はい、終わり!」


 キリエの言葉を強引に叩き切り、その間にあった凄惨な事実のすべてに蓋をするように、あまりにも適当な締めくくりとともに、オウセイも逃げるように冷めた茶を胃へ流し込んだ。


「あの、もの凄く端折りましたけど」


 呆気に取られたケセナの指摘に、オウセイはそっぽを向く。


「気にするな。話せば長くて面倒なんだよ。大まかな流れさえ知っていれば、そこらの民草と同じ程度の知識にはなるから問題ない」


 そのあまりの適当さにケセナが絶句していると、隣でキリエがくすくすと笑い声を上げた。


「説明の筋は合っているけれど、一番大事な部分が抜けているわね。私が付け加えるわ」

「あ、はい」


 ケセナが背筋を正して向き直ると、キリエは静かに、けれどあまりにも冷酷な事実を告げた。


「あなたと同じ容姿を持つ――『皇帝直系の応龍族』は今、三星霜前の内乱の『戦犯』として、世界中から大罪人扱いされているの」

「え?」

「あなたも例外ではないわ。だから言ったでしょう? 騒動に巻き込まれるって」

「待ってください。戦犯って、どういうことですか?」


 あまりに理不尽な宣告に、ケセナは狼狽して頭を振った。

 オウセイの説明では、応龍族は反乱を起こされた側のはずだ。


「戦は『応龍族が引き起こした』と、歴史がすり替えられているのよ。皇妃の裏切り、皇太子の存在、魔人との関わり、皇帝側が勝利した事実。それから、応龍族そのものへの恐れと嫉妬。そういったものが都合よく混ぜ合わされて、今の形になったの」

「そんな……」


 ケセナの声が掠れる。

 キリエは、さらに残酷な現実を淡々と続けた。


「今も各地では、金髪と紅い瞳を持つ『皇帝直系の応龍族』を探し回っている者たちがいる。自分たちの不満や罪を着せるための、都合のいい生贄探しね。俗に『応龍狩り』とも呼ばれているわ。もう、分かるわね? その容姿のままでいることは、あなたにとって危険極まりないの」

「だから、この髪と目の色を変えるって言ってたんですね」


 先ほどまでの怒りが嘘のように、ケセナは静かに目を伏せた。


「大丈夫か?」


 気遣うオウセイの声に、ケセナは顔を上げ、二人をしっかりと見据える。


「はい、大丈夫です。事情も分かりました。ありがとうございます」


 真っ直ぐな言葉に、オウセイは安堵しかけた。

 しかし。


「ところで」


 間髪入れずに紡がれたケセナの声色に、オウセイはびくりと身構える。


「な、なんだ?」


 少し裏返ったその声を面白がるように、ケセナはにっこりと微笑んだ。

 そして、先ほどまで的にしていた分厚い本を両手で持ち上げ、今度は極めて優雅に食卓へ立てる。


「お二人はこの本、読破したんですよね?」


 満面の笑みだった。

 一切の陰りもない、恐ろしいほどの笑顔で、ケセナは小首を傾げる。


 沈黙が、居間に降りた。


 オウセイとキリエの背筋を、冷たい汗がつうっと伝っていく。

 誤魔化しは通用しない。

 オウセイがちらりと横を見やると、キリエの牡丹色の瞳と視線が絡んだ。


 二人にとって、この本に記されているのは、自らが生きてきた五千星霜の歴史だ。後世の者が纏めた記録を、わざわざ最初から最後まで読み返そうとは思わなかった。


 そもそも、文字を読めるようになったファルイーアへ渡そうと用意したものだった。


 まさか記憶を封じた本人から、読んでもいない本を渡したことで責められるとは、夢にも思っていなかった。


 数息の逡巡の後。

 二人は同刻にこくりと頷き合い、無言で左右に首を振った。


 見事なまでに揃ったその裏切りを見るや否や、ケセナは腹の底から絞り出すような、どこまでも深く重い溜息をついた。

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