第六話 行って来ます
「お世話に、なりました」
昼巡りの始まりから一刻ほどが過ぎた頃。
淡い光が差し込む、鬱蒼とした木々に囲まれた家の玄関を出て、苔むした段を降りた場所で、ケセナは深々と頭を下げた。
背中には、小山のように膨らんだ巨大な背負い袋が乗っている。
あの歴史書を読み終えてから、二度の夜巡りが経った。
その間、ケセナはオウセイから自分の星霜齢を聞かされた。小柄で幼顔の自分が「二十星霜齢」だとは俄かに信じがたかったが、オウセイに「重要じゃない」と一蹴され、旅の準備に追われるうちにどうでもよくなってしまった。
怒涛の読書漬けが嘘のように、穏やかな二夜だった。
金色だった髪と紅い瞳は、キリエにぎゅっと抱き締められた一瞬で、ありふれた茶色へと偽装された。呪文や儀式を身構えていたケセナは面食らったが、彼女の母のような柔らかさは、記憶のない彼に不思議な安心感を与えてくれた。
そんなことを思い出していると、後ろでひとつに纏めた髪が背負い袋に挟まり、ちくっと不快感が走った。ケセナは首を傾け、ぐいっと髪を引き抜き自分が今着ている旅装を見た。
全身の異様な古傷を覆うように頼んだ旅装は、真っ白な上衣に紺色の外套、黒の手袋という実用的なものだ。変哲もないが、不思議と誇らしい気分になれる。
――が。
その立派な出で立ちを台無しにしているのが、背中の巨大な荷物だった。
「小さな鞄でいい」と念を押したのに、キリエが用意した荷物はケセナの身体の半分を覆うほど大きい。初めてこれを見た刻、目の前が暗くなったのを思い出しながら、肩に食い込む重みに顔をしかめる。
「重い……」
「旅に必要な物がいっぱい入ってるんだから我慢して!」
「う……動けそうに……」
「頑張りなさい」
「……」
反論の余地はない。『野宿もするかも』などと口走らなければよかったと激しく後悔した。袋の中には鍋やら何やらがぎっしり詰め込まれ、二度と元に戻せそうにない。
「オウセイは?」
ふと尋ねると、キリエは寂しげに目を伏せ、無理に笑顔を作った。
「体調が少し良くないの。ごめんなさいね。今日は、少し熱があるだけだから」
一夜前に会ったオウセイは確かに顔色が悪く、早々に寝室へ引き上げてしまった。きちんと挨拶ができなかったことだけが、ケセナの心残りだった。
よく見れば、キリエの牡丹色の瞳の縁にも、徹夜で看病をしたうっすらとした隈がある。
「キリエさんも、無理しないでくださいね。オウセイによ――」
「ケセナ」
よろしく伝えてください、と言いかけた言葉を遮るように、家の奥から低く掠れた声が響いた。
玄関の扉に凭れかかるようにして、毛布にくるまったオウセイが立っている。今にも倒れそうなほど蒼白な顔に、キリエが慌てて駆け寄った。
「オウセイ様、無茶をなさらないでください!」
オウセイは片手を上げて彼女を制した。その手には、一本の『刀』が握られている。
キリエに支えられながら歩み寄ってきたオウセイは、ケセナの目の前でふっと力を抜き、刀を差し出した。
「これを持って行け」
漆塗りの見事な鞘を前に、ケセナは戸惑う。だが、オウセイが琥珀色の瞳で力なく、けれど真っ直ぐに見下ろしてくる必死な様子に急に申し訳なくなり、そっと受け取った。
軽い。
それが第一印象だった。鉄の塊を想像していたケセナは肩透かしを食らう。長さは平均的だが、柄は金糸で編み込まれ、目を見張るほど豪奢だ。二匹の龍が対称に彫り込まれた鍔には紅玉や宝玉が散りばめられ、きらきらと輝いている。これが応龍というやつだろうか。
「こいつの名は『応龍宝刀・プラークルウ』。皇帝が代々継承する“皇帝の剣”だ。必ずお前の力になる」
「……なんで、今なんです?」
「……すまない、俺が完全に忘れていたのだよ」
オウセイはあっけなく謝罪した。寝台で寝ていて唐突に蔵の片隅にあるこれを思い出し、鉛のように重い身体を引きずってきた結果がこれらしい。
「こ、皇帝の!? いや、でも俺、直系の血筋かもしれないですけど、貰っていいものなんでしょうか」
「誰がお前を皇帝だと言った。その刀がお前を『主』だと認めただけだ」
「……え? 主って……?」
理屈が通らないと首を捻るケセナに、オウセイは疲労混じりの深い嘆息をこぼし、その場にへたり込んだ。
「御託はいいから、抜刀しろ。抜けば分かる」
オウセイが低く呻く。
ケセナはおずおずと右手で柄を握り、左手で鞘を持った。かち、と小気味よい音がして、するりと美しい刀身が滑り出る。
切先まで綺麗に抜刀を終えた、その瞬間。
「うわぁっ!?」
正面からどんっと押され、荷物の重みも手伝って危うく転びそうになった。
視線を落とすと、見知らぬ五、六星霜齢ほどの『銀髪の幼女』が、ケセナの腰を力いっぱい抱きしめていた。
ふわふわとした貴族の姫君のような装いの幼女に縋り付かれ、ケセナの思考は完全に停止する。
「ファル様!! お会いしたかったですぅぅ!!」
泣き叫ぶ幼女を引き剥がそうとするが、信じられないほどの力でしがみついて離れない。両手が塞がっているケセナにはどうすることもできなかった。
「プラウ」
オウセイが優しく声を掛ける。すると、プラウと呼ばれた幼女は感動の涙を一瞬で引っ込め、オウセイを睨みつけて口を尖らせた。
「うわぁ、まだ生きてたとは。案外しぶとい生物ですねぇ? その顔ならそろそろ死ねそうですけど」
凄まじく辛辣だった。
「それは褒め言葉かな、お姫様」
「心からの本音です、おじいちゃん。私の最初の主だったからって偉そうにしないでください!」
オウセイはにこやかな笑みを湛えているが、こめかみが引き攣っているのが分かる。体調が最悪なオウセイに無理をさせたくないケセナがおろおろしていると、幼女ははたと気づいて抱きついていたケセナから離れ、居住まいを正した。
「……忘れていたです。突然の無礼、お許しください。私はファル様の剣であり、剣の精霊。“プラークルウ”です。愛称は『プラウ』。そう呼んでくれないと怒鳴ります。私はいつでも、ファル様の力となりましょう!」
一息に捲し立てられ、ケセナは口をぱくぱくさせるしかない。
「プラウ。もうファルではないわ、『ケセナ』よ」
固まるケセナを見かねて、キリエが助け舟を出す。
プラークルウは上目遣いでケセナを見上げ、金色の大きな瞳をうるうると潤ませた。
「申し訳ありません……ケセナ様、ケセナ様! はい! 覚えました! ケセナ様ぁ!!」
なんだかもう、無茶苦茶だった。
ずきずきと痛み出したこめかみを押さえ、ケセナは右手が未だに刀の柄を握りしめていることに気づく。
そうだ。仕舞えばいいんだ――。
「駄目です! 仕舞わないで! ああああっ!」
悲痛な叫び声が響いたが、ケセナは完全に心を無にし、一切の慈悲もなくかちん、と刀を仕舞い終えた。
――あたりは、静寂に包まれた。
その中で、ケセナの素直な感情がぽつりとこぼれ落ちる。
「……いらない……」
分かったのは、最高に厄介な幼女が出てくるという絶望的な事実だけだった。無意識に右手を突き出していたが、オウセイは真顔で首を振り、無言で刀を押し返してくる。
ケセナは嘆息して、左手で刀を掴んだ。
「すまないな。あいつはいつもああなんだ。……できれば慣れてやってくれ」
オウセイは苦労人の顔でそう言うと、気力を振り絞って立ち上がった。
「オウセイ、もう部屋に戻ってください。見送りなんていりませんから」
今にも倒れそうなオウセイに、ケセナは慌てて促した。不安げなキリエにも、安心させるように力強く頷いて笑顔を返す。
「すまない。お言葉に甘えるよ。ケセナ、あまり無茶はしないように」
貴方にだけは言われたくないと胸中で毒づきながら、ケセナは頷く。
オウセイはキリエに支えられながら家の中へと戻り、玄関の木扉を開けたところで、二人は振り返った。
「行ってらっしゃい」
二人揃った、優しく温かい声。
ケセナは破顔し、大きく答えた。
「行って来ます!」
満足そうに目を細めた二人が家の中へ消え、ばたん、と静かに木扉が閉まる。
ふぅ、と息を吐き、ケセナは向き直った。
胸を張り、意気揚々と一歩を踏み出そうとした瞬間。背負った巨大な荷物の重みで後ろにひっくり返りそうになり、慌てて体勢を戻す。
「格好がつかないなぁ……」
情けない文句を垂れ、ケセナはここから本当に『一人』になってしまったことを実感した。
(……いや、一人よりは二人の方がいいのか?)
そんな考えが頭をよぎり左手の刀に目を落とすが、先ほどのけたたましい金切り声が脳内で再生され、即座に抜刀を諦めて首を左右に振る。
深呼吸をひとつ。
ケセナは力強く一歩を踏み出した。
十息ほど進んだところで、ふと、オウセイに決定的な言葉を伝えていなかったことを思い出し、足を止めて振り返った。
木々の向こう、随分と小さくなった風景を目に焼きつけるように見開き、お腹の底から大きく息を吸い込む。
心を込めて。一文字一文字を、噛み締めるように。
「ありがとうございました」
距離が離れすぎている。きっと、家の中の二人には聞こえていないだろう。
それでも、ケセナの胸には爽やかな満足感が広がっていた。
次にここへ戻ってくるのは、きっと自分の記憶の封印を解く刻だ。
それまで、どうかお元気で。
ケセナは前を向き、鬱蒼と緑が茂る一本道を、確かな足取りで歩き出した。
世界を巡る四つの季、その『繁茂の季』。
彼が背負うすべてのものの運命の巡りが、静かに廻り始めた。




