第四話 蒼髪の救世主
オウセイは、露台にいた。
入口側と奥に、同じ形の安楽椅子が二つ並んでいる。ただそれだけで、ほかの物を置く余裕がなくなるほど手狭な空間だった。
けれど、このこぢんまりとした居心地の良さを、オウセイは気に入っていた。
手前の椅子に深く身を沈め、琥珀色の瞳で木々の間から覗く空を見上げる。
死にたいと願っても、死ねない。
その事実とともに過ごした五千星霜は、あまりにも長すぎた。
愛した者たちは老い、土へ還っていく。
変わらぬ姿のまま取り残された自分とキリエは、いつしか異端として忌み嫌われるようになった。気がつけば、オウセイは人との関わりを避けるようになっていた。
だから、夢を見た。
自分を確実に『殺してくれる』存在が現れることを。
「オウセイ?」
ふいに、思考の淵から引き戻された。
顔を向けると、分厚い本を抱えた金髪の青年――ケセナが、困ったように立っていた。
「どうした?」
「キリエさんが、ここが読書に最高の場所だって教えてくれて。せっかくだから来てみたら、オウセイがいたから……」
「ああ、なんだ」
再び安楽椅子に背を預け、空へ視線を戻した。
白い雲が足早に流れていく。それを眺めながら、「上は風が強いな」と誰にともなく呟く。
「あの……」
ケセナは脇まで歩み寄ると、抱えた本に力を込めた。
何かを言いかけては、また口を噤む。その戸惑いは、オウセイにも痛いほど伝わってきた。
「読書をするのではなかったのか?」
「します、けど」
歯切れの悪い返事に、オウセイは上体を起こして顔を見上げた。
風に揺れる前髪の奥で、真紅の瞳もまた頼りなく揺れている。その隠しきれない動揺を目にして、ふと、封印前の姿を重ねてしまった。
一夜前までの彼は、心を固く閉ざし、オウセイの前でこんな人間臭い仕草をほとんど見せなかった。
同じ顔、同じ声。
それなのに、目の前の青年はまるで別人のようだ。
救われた証だと安堵する一方で、どうしようもない寂寥が胸に落ちる。
あの頃の彼は、もういないのだと突きつけられているようだった。
「けど? 何だ。途中で言葉を止めるな」
「ごめんなさい」
息を吐くように、謝罪の言葉を口にする。
そこは以前と同じなのだがな、と胸中で独りごちた。そして、ケセナが抱える分厚い本に目を止める。
「あー……貸せ!」
「え? あ、ええっ?」
有無を言わせず本を奪い取ると、ぱらりと表紙を開いた。
「オウセイ?」
取り返そうと伸びてきた手を、背中で遮る。
前へ回り込んできたケセナも、あまりに真剣な横顔に思わずたじろいだ。
「俺が、最初の章を読んでやる」
「いや、それは、あの、俺、自分で読めますし!」
慌てふためく声をよそに最初の頁を開き、びっしりと並ぶ文字列を眺めて重い嘆息をつく。
「オウセイ! 俺、本当に読めますから!」
「滑稽だな……」
伸びていた手が、ぴたりと止まった。
「最初の章は、根本から間違っている。俺が、本当のことを教えてやる」
ひどく静かで、けれど逆らえない響きを持つ声だった。
ケセナはゆっくりと手を引っ込める。オウセイは微かに「ありがとう」と呟き、再び文字へ視線を落とした。
隣の安楽椅子が、ぽすんと小さな音を立てる。
「――『蒼髪の救世主』」
「蒼髪……の救世主?」
間の抜けた声が返ってきた。
「そうだ。これは、俺のことだ」
「え?」
「ここに書かれているのは、勝手に作られた『史実』であって、『真実』ではない。俺は救世主などではないからだ。だから、この章だけは俺の口から教えてやる」
それは元々、この本を読み終えたあとに伝えるつもりだったことだ。
己の名が、偽りの英雄として残り続けることに耐えられなかった。
まして、過去の自分を知るケセナにまで、その偽りを真実だと信じてほしくはない。
救世主ではなく、数え切れない命を奪った者として知っておいてほしかった。
「俺とキリエは、元々この世界――ファミラスの住人ではない。こちらの者たちから見れば『魔人』。俺たち自身の世界では、『神』と呼ばれていた存在だ。俺たちは『ティリティシア』という別の世界から来た」
「別の……世界?」
自分のいる世界以外にも世界が存在するという概念がないのだろう。理解が追いつかないように、ケセナは首を傾げた。
オウセイは本をぱたんと閉じ、真っ直ぐに顔を上げる。
「そして俺は、この世界に住まう者たちを『皆殺しにするため』に送り込まれた」
「皆殺し……?」
声が震えた。
オウセイは、その真紅の瞳から逃げずに見つめ返す。
「精神を縛られ、ただ命令に従っていただけとはいえ、俺はここへ来て、数え切れないほどの命を奪った。罪のない者たちを。泣き叫ぶ幼子も、命乞いをする者も、一切見境なくな」
華奢な肩が、びくりと跳ねた。
喉の奥で息を呑む音が聞こえる。ケセナは無意識のうちに身を引き、椅子の奥へ縮こまっていた。
真紅の瞳は、恐ろしい怪物でも見るようにオウセイを捉えている。
その拒絶は胸を抉ったが、当然の反応だとも思えた。
「どう、して……っ」
震える問いに、ゆっくりと瞼を伏せる。
「ティリティシアは、とうに資源を食い尽くしていた。まともに住める世界ではなかった」
「だから……ファミラスを?」
「ああ。新たな苗床が欲しかったのだろうな。俺は、そのための牙として送り込まれた」
自らを抱き締めるように腕を組んだ。
「『殲滅せよ』。ただ、その命令だけを刻まれてな」
縛られていたとはいえ、奪った命が戻るわけではない。
己の手が血に染まっていた事実も、決して消えはしない。
「ある昼夜、キリエが突然目の前に現れて、俺の呪縛を力ずくで解いてくれた」
隣から、息を呑む音が聞こえた。
「精神の縛りが解けて、俺は初めて、この世界を自分の目で『見た』」
温かな家。
子を抱く親。
畑を耕す者たち。
誰かのために笑い、誰かのために涙を流す人々。
そのあまりにも当たり前で、慈愛に満ちた営みを目の当たりにして、ようやく自分が何をしてきたのかを知った。
「俺は、自分の犯した罪の深さを知った。だから、魔人たちの手からこの世界を護り抜くと誓った。それが、業にまみれた俺にできる唯一の贖罪だったからだ」
それからは、眠る間も惜しんで駆け回った。
ばらばらだった獣族たちを纏め上げ、強大な魔人に対抗するための術を教え込み、幾度も敗れ、幾度も血を流し、それでも諦めずに戦い続けた。
「多大な犠牲を払いながらも、なんとか勝利をもぎ取った。俺が“救世主”などと呼ばれるようになったのは、ただそれだけの理由だ」
血みどろの闘争の歴史が、言外から肌を刺す。
ごくりと喉を鳴らす音が、静かな露台に響いた。
張り詰めた空気を解くように、オウセイは僅かに表情を緩める。
「戦いが終わる間際、俺とキリエは魔人から最期の呪術を受けた。永遠に死ぬことができないという呪い。同族殺しの大罪人として、甘んじて受けるしかなかった。それが、五千星霜前だ」
「死ねない……? 五千星霜も……?」
ケセナは呆然と唇を震わせていた。
「そう、五千星霜。これが、この本に美談として書かれた『救世主』の、本当の物語だ」
「でも……オウセイは、命令に従わされていたんですよね?」
「だからといって、俺が奪った命が戻るわけではない」
「それでも、全部がオウセイの罪だとは……」
言い切れず、俯いてしまう。
恐れて身を引いたばかりだというのに、それでもなお、自分を庇おうとしている。
オウセイは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「優しいな、お前は」
「そんなこと……」
「だが、これは俺自身が背負うと決めたものだ。お前が背負う必要はない」
そう告げておきながら、今から口にしようとしている言葉が、新たな重荷を与えるかもしれないことも分かっていた。
それでも。
諦めることさえできなかった五千星霜の願いが、喉元まで込み上げてくる。
手元の本を差し出す。
受け取った両腕が、分厚い本を胸元へ抱え込んだ。それでも真紅の瞳は、オウセイへ向けられたままだった。
静かな露台に、風の音だけが流れる。
「お前は、俺がずっと待ち望んでいた、俺を殺すことのできる者だ」
「え……?」
細い指が、分厚い表紙へ食い込んだ。
「俺に……オウセイを殺せと言うんですか?」
「違う。お前に何かをさせるつもりはない」
はっきりと首を横に振る。
「ただ、お前が現れたことで、この終わらない生にも終わりがあると知れた。それだけで十分だ」
「でも、どうして俺が……?」
「理由は、お前が封じた過去にある。だが、それ以上は話せない」
本当の理由を告げるつもりはなかった。
知れば、ケセナは己の力を恐れ、二度と使おうとしなくなるだろう。
誰かのためなら、迷うことなく自分を犠牲にする。
記憶を封じても変わらなかったその本質を、オウセイはよく知っている。
だからこそ、その先だけは決して明かせなかった。
「今は、お前自身のために生きろ。俺のことなど考えなくていい」
「そんな言い方をされて、考えないなんて無理ですよ」
「そうだろうな」
困ったような笑みが零れる。
結局、すべてを伏せておくこともできなかった。
自分の願いを口にしたのは、紛れもなく己の弱さだ。重荷を少しでも軽くしたいと願いながら、ケセナの存在に救いを求めずにはいられなかった。
「すまない」
返事はなかった。
膝の上の歴史書へ視線を落とした顔には、戸惑いと恐れ、そして形にならない疑問が入り交じっている。
オウセイは迷いを断ち切るように、深く息を吸った。
「もう一つだけ、お前に伝えておく」
「まだ、何かあるんですか?」
「お前の本当の名前だ」
真紅の瞳が、大きく見開かれる。
「本当は、お前が自ら過去を求めるまで、告げるつもりはなかった。だが、俺の生に終わりをもたらす者だと話しておきながら、お前が何者なのかだけを隠し続けるのは卑怯だろう」
「俺は……誰なんですか?」
掠れた声で尋ねられ、オウセイは真っ直ぐに見つめ返した。
「ファルイーア・ク・フェスカ。それが、お前の本当の名だ」
その名を耳にした途端、ケセナの顔から血の気が引いた。
分厚い本が膝から滑り落ちかける。慌てて抱え直した腕が、小刻みに震えていた。
「ファル、イーア……」
自分の名前を確かめるように口にした直後、胸元を押さえて身体を折り曲げる。
「ケセナ?」
浅い呼吸が繰り返され、全身からどっと冷や汗が噴き出していく。
オウセイは手を伸ばしかけた。
だが、今の自分が触れてよいのか分からず、その手は宙で止まる。
「俺は……ケセナ・レフィードです」
己の存在を繋ぎ止めるような、必死の声だった。
ゆっくりと手を下ろし、静かに頷く。
「ああ。今のお前は、ケセナだ」
僅かに顔が上がった。
「本当の名を知ったからといって、過去のお前に戻る必要はない。ケセナとして生きたいのなら、そうすればいい」
「……はい」
「すまなかったな。やはり、今は告げるべきではなかったのかもしれん」
「分かりません。でも……知らないまま、オウセイの話だけを聞くよりは、よかったと思います」
苦しげな息の合間に、返事が落ちた。
オウセイは目を細め、逃げるように小さく笑う。
「本、ちゃんと読めよ」
「……はい」
ケセナは膝の上の歴史書を開いた。
最初の章『蒼髪の救世主』を乱暴に飛ばし、その先へ視線を落とす。頁を押さえる指は、まだ小刻みに震えていた。
告げたのは正しかったのか。
答えは出ないまま、オウセイは静かに露台をあとにした。




