第三話 未来に生きるために
封印を解く刻は必ず来る――オウセイは、そう確信しているようだった。
だが、記憶を自ら手放したばかりのケセナにとって、それはすぐには受け止めきれない、あまりにも重い言葉だった。
呆気に取られ、口を開けたまま目を泳がせるケセナを見て、オウセイは悲しげに目を伏せる。
「必要なときが来るさ。……いつかはな」
ぽつりと零し、オウセイは刺叉を置いた。
「俺が――」
何かを言いかけて、口を噤む。
悔しげに唇を噛むと、彼は立ち上がり、「後は頼む」とキリエにだけ小声で残して、足早に居間を出ていってしまった。
「オウセイ?」
我に返って背中へ声をかけたが、彼は振り向かない。
押しつけられた分厚い歴史書を背凭れとの間に挟み込み、ケセナは戸惑いながら正面のキリエを見た。キリエは複雑な表情で、小さく千切った麦餅を見つめている。とても声をかけられる雰囲気ではなく、ケセナも黙って食事を再開した。
居間に重い静寂が落ちる。
かちゃりと食器の触れ合う音だけが、虚しく響いた。
ちらりと視線を上げると、キリエはオウセイと同じような悲壮感を漂わせ、微かに嘆息を漏らしていた。そのたびにケセナは目を伏せ、味のしない食事をどうにか飲み込む。
窓の外の荘厳な景色さえ色褪せて見え始めた頃、沈黙を破ったのはキリエだった。
「……仕方ないわ」
静かな声に、ケセナは顔を上げる。
最後の腸詰に刺叉を刺したまま、次の言葉を待った。
「本当はね。あの人、反対だったのよ。記憶の封印も、一人で旅に出ることも」
「え?」
腸詰を口に運ぼうとしていた手が、空中でぴたりと止まる。
ケセナは驚いてキリエを見つめ返した。
「ごめんなさいね。前を向こうとしているあなたに、こんなことを言うべきではないのは分かっているのだけれど」
「……どうして、反対だったんですか?」
恐る恐る尋ねると、キリエは寂しげに微笑み、ふいと俯いた。流れ落ちた長い黒髪が、彼女の表情を隠す。
「記憶の封印は、あなたを逆に苦しめる可能性があったから」
「え……?」
「それに、私だけでは足りなかった。オウセイ様は、ご自身に残された力のほとんどを代償として差し出すことになったの」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
代償。
つまり、オウセイが己の何かを削ったということか。
「代償って……どうして、そんなこと」
「あなたに、これ以上の重荷を背負わせたくなかったの。これまでにも、あなたは多くのものを背負ってきたから」
ケセナの胸の奥で、かっと熱いものが燃え上がった。
記憶を封印する前の自分は、その事実を知っていたのだろうか。
もし知っていたのなら、どうして彼にそんな犠牲を払わせてまで、過去を消すようなことを望んだのか。
「俺は……」
そんなの、間違っている。
自分のせいで誰かが苦しんだり、何かを失ったりするなんて、絶対に嫌だ。
「キリエさん。俺の記憶を戻して――」
縋るように言いかけた途端、キリエが顔を上げた。
牡丹色の瞳は濡れていた。だが、そこには決して揺るがない強い意志が宿っている。その真剣な眼差しに射抜かれ、ケセナは息を呑んで言葉を詰まらせた。
「その罪悪感を理由にして、あなたの人生を投げないで。あなたが苦しんで考え抜いた結論に、私たちは付き合っただけ。それでいいの。後悔はしていないわ。オウセイ様も、私も」
「でも、オウセイは……!」
納得できず反論しようとするが、キリエの静かな声がそれを遮った。
「ケセナ。記憶の封印は、解かないわ」
「でも、オウセイは自分の力を失ってしまったんですよね? 俺のために、俺のせいで! そんなの、俺は嫌です!」
首を激しく横に振る。納得などできるはずがない。昂る感情を抑えきれず、ケセナの声は悲痛な叫びに変わっていた。
「俺のせいで誰かが我慢するとか、代償を払うとか、そういうの凄く嫌なんです! 俺は……!」
「ありがとう。でも、駄目よ」
キリエは姿勢を正し、凛とした声で拒絶した。
それでもケセナは食い下がる。
「どうして!」
「記憶を封印する前の『あなた』も、同じことを言って怒ったわ」
「……え?」
不意に封印前の自分の行動を知らされ、ケセナは毒気を抜かれたように押し黙った。
激しい熱がすっと引くのと同時に、強烈な気恥ずかしさが押し寄せてくる。右手に握ったままの刺叉と、そこに刺さった腸詰がひどく間抜けに見えて、ケセナは慌ててかちゃりと皿へ置いた。
キリエは優しく微笑み、あの日のオウセイの言葉を紡ぐ。
「『過去の重荷は俺が背負う。お前は、未来に生きる自分だけを見ろ』――オウセイ様は、代償を拒む封印前のあなたに、そう言って笑ったのよ」
ケセナは声に出さず、口の動きだけでその言葉をなぞった。
何度も、何度も。
オウセイの不器用で重すぎる願いを噛みしめるように。
その姿を見て、キリエは静かに立ち上がった。ケセナの傍まで歩み寄ると、その細い身体をそっと抱き寄せる。
「え……?」
不意の抱擁に、ケセナは戸惑い、身を強張らせた。顔が茹で上がるように熱くなるのを感じ、離れてもらおうと身体を捩る。けれど、キリエの腕は決して彼を離さなかった。
やがて抵抗を諦めて身を委ねると、キリエの温もりと、母性にも似た深い優しさがゆっくりと伝わってくる。
ケセナは抗うのをやめ、静かに瞼を閉じた。
「あなたはね、いつも自分を犠牲にする。オウセイ様も私も、一番強く願ったのは、あなたが人のためでなく、自分のために生きることなの」
「……どうして、そこまで俺を?」
恐らく、血の繋がりもない他人だろう。
それなのに、なぜここまで自分を想ってくれるのか。たまらず問いかける。
「あなたが、『あなた』だからよ」
「俺が、俺だから?」
予想外の答えに戸惑うケセナを、キリエはさらにきゅっと抱きしめた。
「まだ、考えなくていいの。今はそれだけで十分よ」
その慈しむような声色に、ケセナは素直に頷いた。
消した過去の記憶に、その答えがあるのだろう。だが考えれば考えるほど、過去を欲してしまう。それはオウセイも、キリエも、そして何より自分自身が望んでいないことだ。
だから。
自分のために、まずは一夜後を見る。
その先の昼夜を、自分のために生きる。
オウセイが願ってくれた通り、生きる為に。その為に、彼らは大きな犠牲を払ってまで過去を消してくれたのだから。
ようやく自分が記憶を封印した本来の目的を取り戻し、ケセナは小さく息を吐いた。
感情が昂ったばかりに、大切な理由を見失いかけた自分がおかしくて、自嘲気味な笑みがこぼれる。
「俺、間違えてましたね」
「人は、間違えて成長するものよ」
キリエは優しくそう言って、ゆっくりと身体を離した。
見上げてくるケセナの真っ赤に紅潮した顔を見て、彼女は安心したようにくすりと笑う。
「もう大丈夫ね」
その柔らかい声に、ケセナは心の靄が晴れたように深く頷いた。
キリエはケセナの顔をじっと見つめると、今度は両手で彼の頬を包むようにそっと添えた。
「キリエさん?」
「記憶は封印したけれど、その金髪と真紅の瞳は、外の世界では少し目立ちすぎるわ。旅立つ前に変えてあげる」
「はい……? 変えるって、どうやって?」
途方もないことをさらりと言われ、ケセナは思わず眉を寄せる。
「そのうちわかるわ」
ふふっと笑いながら、キリエは彼の頬から手を離した。
温もりが消え、少しだけ肌寒くなった両頬を擦りながら、ケセナの中にキリエへの強い興味が湧き上がってくる。
記憶の封印という神業といい、髪と瞳の色を変えると言ってのけることといい、彼女はいったい何者なのだろうか。
沈んでいた空気を切り替えるように、ケセナは思い切って尋ねた。
「キリエさんは、どうしてそんな力を使えるんですか?」
「『魔術』は、分かるかしら?」
ケセナは首を横に振った。
覚えていない。この世界のことも、歴史も、今キリエが口にした魔術のことも、見事なほど空っぽだ。
「封印し過ぎたかしら……」
キリエの小さな呟きが聞こえたが、ケセナは気にせず先を促した。
「そういう不思議な力を扱う術は、だいたい『魔術』と呼ばれているわ。生まれつきの素質があって、さらに四大精霊のどれかと契約して、ようやく扱えるものなの」
「……えっと、生まれつきで、契約が必要?」
「そう。だから誰でも使えるわけではないのよ」
「へ……へぇ、そうなんですか……」
途端に話が難しくなり、ケセナの頭は真っ白になった。
そんな彼の余裕のない顔を見て、キリエは楽しそうに笑う。
「正確には、私が扱うものは魔術ではないのだけれど。精霊との契約も必要ないしね。似たようなものかしら」
「似て非なる力?」
「そうね。オウセイ様もそうなのだけれど」
そこで言葉を切り、キリエは少しだけ言い淀むように伏し目がちになった。
しかし、ふと椅子の背凭れに挟まれた分厚い本へ視線を落とし、意を決したように口を開く。
「私たちはね、『魔人』なの。……詳しく知りたければ、オウセイ様が渡したその歴史書を読んでみるといいわ」
「え……?」
魔人。
その単語を聞いた瞬間、なぜかケセナの胸の奥が冷たく強張った。
言葉の意味も、歴史も何も覚えていないはずなのに。魂の底に沈んだ本能だけが、得体の知れない悪寒となって微かな警鐘を鳴らしている。
ケセナはその恐怖を誤魔化すように、わざとらしく声を上げた。
「ええ!?」
オウセイから手渡された分厚い本を指差され、ケセナは驚きを隠せなかった。
彼女たちが魔人であるという事実も衝撃だが、それ以上に引っかかることがある。
――本に書かれている?
ケセナは怪訝に思った。
あの本は『歴史書』であり、ごく最近の出来事は載っていないとオウセイが言っていたはずだ。
だとしたら。
そこに載っているほど昔から生きているということは――。
恐る恐る、頭に湧き上がった純粋な疑問を口にする。
「歴史書に載ってるってことは……キリエさんとオウセイは、いったい星霜齢は幾つなんですか……?」
途端、周囲の空気が凍りついた。
キリエの表情が一変していた。
つかつかとケセナの側にまで歩いてくる。
先ほどまでの慈愛に満ちた聖母のような顔はどこへやら。目は吊り上がり、まるで鬼神のような形相でケセナを見下ろしていた。
世にも恐ろしいその顔つきのまま、彼女の固く握られた拳が天に向かってゆっくりと持ち上がる。
「え……あ?」
ただ呆然と見上げるケセナの視界に向かって、その拳が容赦なく振り下ろされた。
「うあああぁっ!」
直後。
脳天を突き抜けるような豪快な音と凄まじい衝撃に、ケセナは頭を抱えて悶え苦しんだ。
火花が散る視界の中で、キリエのものとは思えない、地を這うような低い声が頭上から降ってくる。
「……女性に、星霜齢を聞くものではないわ」
「ごめんなさいぃぃぃ……っ」
頭を押さえて涙目になりながら、ケセナは机の上の歴史書を見た。
自分の知らない世界。
自分が忘れた過去。
その両方が、あの分厚い頁の向こうで、静かに彼を待っている気がした。




