表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/78

第二話 ケセナ・レフィード

 案内された居間は、建物の中央にあった。


 彼はぐるりと部屋を見渡した。中央には四人掛けの食卓。添えられた四脚の椅子は、それぞれ形こそ違うものの、どれも座り心地が良さそうだった。脇の小さな本棚には、大小さまざまな本がびっしりと並んでいる。


 奥には大きな三枚の窓があり、たっぷりと陽光が差し込んでいた。窓の向こうには鬱蒼とした森が広がり、木漏れ日がきらきらと揺れている。その神秘的な景色に、彼は思わず息を呑んだ。


 左手の厨では、一人の女性が忙しなく動いていた。


 腰まで届きそうな長い黒髪を首の後ろでひとつに束ね、桃色の花柄の前掛けを着け、手慣れた様子で食事の支度をしている。ふと見えた横顔は、はっとするほど整っていた。


「キリエ、もう支度していたのか」


 オウセイが声をかけると、彼女は手を止め、布巾で手を拭きながらこちらへ歩み寄ってきた。


 艶やかな黒髪に、深みのある牡丹色の瞳。薄緑の短衣と真っ赤な裳を合わせた姿は、森の家には少し不釣り合いなほど華やかだ。

 ふわりと揺れた裾と柔らかな微笑みに、彼はなぜかまともに顔を見られなくなり、慌てて視線を逸らした。


「はい。オウセイ様も、お目覚めでしたか? まだ眠そうですね」


 軽やかな声に、一番大きな椅子へ腰を下ろしたオウセイが「そうか?」とぼやく。

 けれど彼女はそれには答えず、オウセイの椅子の横から身を乗り出すようにして、後ろで居心地悪そうに立つ彼の顔を下から覗き込んできた。


「あら? どうしたのかしら?」


 至近距離で見る牡丹色の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいる。

 彼の心臓が大きく跳ねた。自分のものではないように激しく打つ鼓動を持て余し、ごくりと喉を鳴らす。


「キリエ・カーランよ。よろしくね」

「あ、え……その、よ、よろしくお願いします」


 掠れた声でどうにか返すと、キリエは優しく微笑んだ。


「さ、座って。食事にしましょ」


 小走りで厨へ戻る背中を見送りながら、彼は胸に手を当てて深呼吸をした。鼓動を鎮めてから、オウセイの隣の椅子へ腰を下ろす。

 隣をちらりと窺うと、オウセイは豪快な欠伸の真っ最中だった。


「……そういえば」


 欠伸の涙を拭いながら、オウセイが口を開く。


「名がないのは、不便だろう」

「名前なんて、個を示すための記号みたいなものですから。なくても、そこまで不便じゃないです」


 彼は咄嗟に答えていた。

 あまりにも自然に、するりと出た言葉に、彼自身が一番驚き、思わず口元を押さえる。


「記憶を失っても、そこは変わらんか」


 オウセイが呆れたように笑った。


「だが、これから旅に出るのだろう? 宿に入れば、宿帳に名を残せと言われるぞ。毎回、適当な名を書くつもりか?」

「野宿だったら、書かなくても大丈夫じゃないですか?」

「随分と能天気だな……」


 オウセイは半眼で彼を見やり、嘆息する。


「いいか、夜巡りを野で明かすのはやめておけ。魔物や野盗の餌食になるだけだ。世の中は、まだそこまで平和じゃない。……応龍狩りの連中も、各地で目を光らせている。できるだけ街の宿を使え」


 その言葉に、彼の表情が曇った。


「おうりゅう狩り……?」


 その言葉を口にした途端、右手の指先がぴくりと跳ねた。


 冷たいものが、背筋を這い上がる。

 何を恐れたのか。なぜ身体が怯えたのか。

 彼自身には、まるで分からない。


「平和じゃないって、どういう……」


 問い返した途端、オウセイの表情が僅かに強張った。

 だが、すぐに軽く手を振り、話を打ち切る。


「それはあとで説明してやる。先に名だ。……そうだな、ケセナ。ケセナ・レフィードというのはどうだ?」

「オウセイ様、それは……」


 焼きたての麦餅を運んできたキリエが、怪訝そうに皿を置きながらオウセイを見る。


「いいから」


 オウセイは短く、しかし有無を言わせぬ声でキリエを制した。

 蚊帳の外に置かれた彼は、与えられた『名』を口の中で転がしてみる。


「……ケセナ・レフィード」


 なぜか、懐かしい響きだった。

 胸の奥に温かさが広がり、すっと心が落ち着いていく。


「そう。誰かさんが土壇場の苦し紛れに名乗った偽名だがな」

「……え?」


 オウセイの一言で、せっかくの安心感が霧散した。

 疑問が泉のように湧き上がるが、記憶の底をいくら探っても答えは出ない。


「ちなみに、その『誰かさん』はお前だ」

「俺!?」


 思いもよらない事実に、彼――ケセナは素っ頓狂な声を上げた。


「はいはい。お話が弾んでいるところ悪いけれど、食事にしましょう。ね? ケセナ?」

「ケ……?」


 混乱する思考の海に、キリエの澄んだ声が響いた。

 顔を上げると、彼女が小首を傾げて微笑んでいた。


「ケセナ?」


 もう一度、その名で呼ばれる。


 そうして、彼の名前は完全に定まった。


 今から自分は『ケセナ・レフィード』。かつての自分が苦し紛れに名乗ったという、奇妙で、けれど懐かしい名前。

 不思議と嫌な気はしなかった。むしろ少しだけ誇らしいような気さえして、ケセナは力強く頷いた。


「はい!」


 その様子を見ていたオウセイが満足げに笑い、「さぁ、食おう」と食事を促した。

 ケセナは慌てて食卓へ視線を落とし、並べられた料理の数々に目を輝かせる。


「美味しそう」


 ごく自然に感嘆が漏れた。


 乳脂を薄く塗った小さな麦餅。ふんわりとした炒り卵。少量の腸詰と、かりかりに焼かれた燻製肉。そして、彩り豊かな野菜。


 並べられた量は控えめだった。けれど今のケセナには、どれから手をつけるべきか迷ってしまうほどの、ささやかなご馳走に見えた。


「あら、嬉しいこと言ってくれるのね。この人なんか、何も言わずに食べちゃうし、つまらないのよ?」


 キリエが横目でオウセイを睨む。


 すでに食べ始めていたオウセイは目を白黒させたが、口いっぱいに頬張っているせいで反論できず、もごもごと唸っている。

 ごくりと飲み込み、オウセイが何か言い返そうとした矢先、ケセナがふと別の疑問を口にした。


「あの、オウセイはどうしてこんな森の中に?」


 窓の向こうに見える鬱蒼とした森。鳥の囀りは近く、空気は澄んでいる。美しい場所だが、人が住むには不便すぎるように思えた。


「……聞くな」


 オウセイが露骨に顔を顰め、面倒くさそうな声を出す。


「ご、ごめんなさい」


 逆鱗に触れてしまったのかと、ケセナが身を縮める。

 すると、キリエがすかさず「意地悪」とぽつり。オウセイはあからさまに聞こえない振りをした。

 そして、短く嘆息を漏らしてから口を開く。


「この森を選んだのには色々あるんだが……まぁ、一言で言えば、“人の世の喧騒に疲れた”からだな」

「ひとの世の、喧騒?」


 きょとんとするケセナを見て、オウセイが再び嘆息する。


「そんな顔をするな。俺にだって色々あったんだ。お前のように記憶を封じて終わるだけでは済まなかったことも、沢山な」

「俺は……」


 ケセナは思わず俯いた。

 だが、オウセイから降ってきたのは、予想外に優しい声だった。


「お前が記憶を封じたいと望んだ理由は、俺も分かっている。責める気はない。逃げだと言う者はいるかもしれんが、俺はそうは思わない。お前にとっては、それが一番ましな道だった」

「あの、記憶を封印する前の俺を、知っていたんですよね?」


 その問いに、オウセイの琥珀色の瞳が、一瞬だけケセナの襟元から覗く無数の古傷へ落ちた。

 そこには、言葉にはできないほど深い痛ましさが滲んでいた。


「……ああ、知っている。俺だけではない。キリエも知っている。だが、知っていたからといって、だからどうしたという話でもないだろう?」


 オウセイは何事もなかったかのように視線を上げ、穏やかに言った。

 二人は、ケセナの身体が物語る『過酷な過去』を知りながら、名前のこと以外は一切持ち出さず、まるで初対面のように接してくれている。


 その配慮が、心底ありがたかった。


「そもそも、お前に記憶の封印を施したのは、このキリエだ」

「え? キリエさんが?」


 ケセナは目を丸くした。ここまでの流れから、てっきりオウセイが術者だと思い込んでいた。


「はい、私が施させていただきました」


 キリエが少しはにかみながら頭を下げる。


「俺にはもう、記憶を封じるほどの力は残っていないからな」


 オウセイの呟きは、どこかひどく寂しげで、ケセナの胸の奥が締めつけられた。

 何か言葉をかけようとしたが、適切なものが見つからず、結局押し黙るしかない。


「ともあれ、これをやる」


 重い空気を振り払うように、オウセイが立ち上がった。

 本棚から妙に分厚い本を一冊抜き出し、ケセナの前へどんと置く。


「……なんですか、それ」

「歴史書だ。この世界のことがびっしり書いてある。記憶がないお前には丁度いいだろう? 近頃の出来事は載っていないから、そこは俺が教えてやる」

「……本なんだ、これ……」


 恐る恐る持ち上げると、ずっしりとした重みが腕にのしかかる。ぱらぱらと頁を捲り、ようやく本だというオウセイの言葉を実感した。


「旅に出るまでに読んでおけ。世界を見たいと言う者が、歴史を知らないのは少し恥ずかしいだろうからな」

「そうですね。確かに恥ずかしいかも」


 ケセナも、そこには完全に同意だった。

 記憶を封じた代償か、世の理さえ抜け落ちている今の自分には、きっと必要なものだ。


 しかし、これを読み終えるまで旅に出られないのかと思うと、少しだけ憂鬱になる。


「それから、これが一番重要だ。一度しか言わないぞ」


 ふいに、オウセイの声音が鋭くなった。

 真剣な眼差しが、真っ直ぐケセナを射抜く。場の空気がぴんと張り詰め、ケセナは固唾を呑んで次の言葉を待った。


「記憶の封印を解きたくなったら、ここに来い」

「……え?」

「理由次第で、解いてやる」


 ケセナは、思わず息を止めた。

 忘れたはずの過去へ戻る道が、今、目の前に差し出されていた。


 それが救いなのか、罰なのか分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ