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第一話 はじまりの空白

 目覚めた刻、彼には名前がなかった。

 過去も、自分が何者なのかも分からない。


 頭の中が、恐ろしいほどに軽い。まるで中身だけを乱暴にくり抜かれ、身体だけが寝台の上に残されているようだった。


 彼は重たい瞼を持ち上げる。


 ぼやけた視界を満たしたのは、見覚えのない穏やかな空間と、窓から差し込む柔らかな光だった。


「……ここは?」


 ぼそりと呟いても、答えは返ってこない。

 彼は重い身体をどうにか起こし、頭を掻いた。


 何か大切なことを忘れている。


 そう直感しているのに、何を探せばいいのかさえ分からなかった。

 視線を上げた先、窓硝子に一人の青年が映っていた。


「え? 誰?」


 無意識に眉を顰め、弾かれたように立ち上がる。


 窓へ近づくと、硝子の表面に映った青年も同じように歩み寄ってきた。


 腰まで伸びた長い金髪。

 熱を宿したような真紅の瞳。

 中性的な顔立ち。


 だが、それ以上に目を引いたのは、その身体だった。


 極限まで痩せ細った手足。

 ひび割れたように荒れた白い肌。

 そして、全身に幾重にも刻まれた無数の古傷。


 一つや二つではない。

 どれも、偶然負った傷には見えなかった。


 どうして、こんな姿をしているのか。


 これほど傷ついているのに、痛みだけがどこにもない。


 彼は震える右手を持ち上げ、自らの右頬をぱちんと叩いた。


「いてっ」


 反射的に声が漏れる。

 窓硝子の青年も、同じように頬を押さえ、顔をしかめていた。


 同じ顔。

 同じ動き。


 そこでついに、彼は理解した。

 この傷だらけの青年が、自分なのだと。


「……俺は、誰だ?」


 小さく呟いた声は、思った以上に頼りなかった。


 過去を探ろうとした途端、本能が鋭い警鐘を鳴らした。


 思い出せないのではない。

 触れてはいけない。


 胸の奥から、冷たい何かがそう絶対の命令を下している。

 彼はそれ以上、記憶の深淵へ手を伸ばすことができなかった。


 過去も、名前も、自分が何者だったのかも。

 何もかもが、すっぽりと抜け落ちている。


 ただ一つだけ、言葉が残っていた。


『生きて、世界を旅する』


 自分の願いなのか。

 誰かに与えられた言葉なのか。


 それすら分からない。


 けれど、まだ見ぬ世界を想像しただけで、空っぽだった胸の奥で、小さく鼓動が跳ねた。


 世界は、どんな景色なのだろう。


 その問いが浮かぶと、恐怖の向こうへ一歩踏み出してみたいという思いが、確かに生まれた。


 彼は何度か深呼吸を繰り返し、見知らぬ部屋の木扉へ向かう。


「よし」


 小さく息を吐き、金具へ手を伸ばす。


 けれど、指先が触れるより早く、金具が硬質な音を立てた。


 彼はびくりと固まる。


 身体が、勝手に動いた。


 半歩だけ後ろへ退き、右手を胸元へ引く。

 左足は滑るように前へ出た。


 何かを防ぎ、一息で反撃に転じるための完璧な姿勢。


 なぜ自分がそんな動きをしたのか、彼自身にも分からない。


 その目の前で、木扉がきしみもなく内側へ開いた。


 扉の向こうには、蒼髪の男が立っていた。

 白い単衣の留め具を上から二つ外し、少し大きめの脚衣を穿いた飾らない格好。

 男が長身なのか、それとも自分が小柄なのか。

 彼には、それを判断するための基準すらなかった。


 蒼髪の男の視線が、彼の足元から胸元へ滑る。

 その姿勢に何を見たのか、琥珀色の瞳がほんの僅かに細められた。


「……身体は、覚えているか」

「え?」


 聞き返すと、男は何でもないというように短く息を吐いた。


「気にするな。起きたのなら――」


 そこまで言って、男は言葉を切った。


 半歩退いた姿勢のまま固まる彼を見て、何かを飲み込むように目を伏せる。


「ああ。そうだった。“ハジメマシテ”。俺はオウセイ・カイラーヌだ」


 その言い方は、初対面の挨拶というより、あらかじめ決めていた台詞のように聞こえた。


「ええと……オウセイ……さん?」


 警戒を解き、彼は小首を傾げた。

 名前を聞いても、何も思い浮かばない。

 目の前の男を、以前の自分がどう呼んでいたのか。

 それすら分からないことが、妙に心細かった。


「オウセイでいい」

「あ、はい。えっと……」

「一夜前のことは覚えているか?」

「……一夜前?」


 オウセイが、わずかに琥珀色の瞳を揺らした。

 ごく微かな反応だった。

 けれど、その瞳の奥に、何かが痛むような色が走ったのを、彼は見逃さなかった。


 オウセイはすぐに言い直す。


「ここへ来る前のことだ」

「……ここへ来る前」


 繰り返してみても、その言葉は胸の中へ落ちてこない。

 何かを覚えているような感覚さえなかった。

 少し考え込んだあと、彼は正直に首を振る。


「……全く、覚えていません」


 オウセイは短く息を吐いた。

 叱責でも、落胆でもない。

 むしろ、長く張りつめていたものが、静かに解けたように聞こえた。


 安堵している。


 自分が何も覚えていないことに。

 彼には、その理由が分からなかった。


 オウセイは、ぽんと彼の頭に手を置く。

 彼は思わず目を瞬かせた。


 その掌は大きく、優しく、温かかった。

 突然触れられたことへの戸惑いはある。

 けれど、身体が硬直することも、恐怖に息が詰まることもない。


 オウセイはその反応を確かめるように、静かに瞳を細めた。

 掌から伝わる熱に、強張っていた身体から少しだけ力が抜けていく。


「それならいい」


 低く零れたその言葉には、深い安堵と、ひどく切ない響きが混じっていた。


 なぜ、この人はそんな声を出すのだろう。

 自分は、何を忘れたのだろう。


 問いかけるより先に、オウセイは頭から手を離し、くるりと背を向けた。

 どこかへ行ってしまう。

 そんな気がして、彼は慌てて声を上げる。


「あのっ」


 呼び止めたものの、その先が出てこない。


 何を聞けばいいのかも、何を求めているのかも分からない。

 ただ、このまま一人になることが、急に怖くなった。


 オウセイは振り返り、目元を和らげる。


「飯。食うだろ」

「あ」


 ――きゅるるるぅ、ぎゅぅ。


 彼の腹が、間の抜けた返事と重なるように、盛大な音を響かせた。

 彼は顔を真っ赤にし、慌てて腹を押さえる。


「す、すみません……っ!」


 オウセイはぴたりと動きを止めた。

 やがて、肩が小さく震える。


 堪えきれなかったように吹き出し、目元を拭いながら、それでも収まらない笑いを押し殺すように言った。


「くっ……ふっ……お前は、正直だな」

「いや、これは、その……!」


 言い訳を探そうとしても、腹の音に勝てる言葉などなかった。


 オウセイは、とうとう声を上げて笑った。

 重く張りつめていたものから解き放たれたような、心底楽しげな笑い声だった。


 その笑いにつられるように、彼の胸の奥へ残っていた強張りも、ふっと緩んでいく。


 記憶はない。

 名前も分からない。

 この身体に刻まれた傷の意味も、まだ何ひとつ知らない。


 それでも、目の前には温かい手がある。

 笑ってくれる人がいる。

 腹は、間抜けなほど正直に空いている。


 なら、まずは食べよう。


 そう思えたことに、不思議なくらい心が弾んだ。

 彼はふわりと笑みを浮かべ、オウセイと連れ立って居間へ向かった。


 廊下へ出たところで、先を歩くオウセイが、ぽつりと呟いた気がした。


「忘れたままでいい」


 彼は思わず顔を上げる。


「……何か言いました?」

「いや。飯が冷めると言っただけだ」


 彼は小さく頷き、再び前を向く。


 誰かに与えられた名も、背負わされた罪も。

 目の前の男が、なぜ自分の忘却に安堵したのかも。


 そして、その声が祈りにも似ていたことを、まだ知らないまま。

お読みいただきありがとうございます。


本作は完結まで毎日18時頃更新予定です。

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― 新着の感想 ―
記憶を失った主人公の不安や戸惑いが丁寧に描かれていて、自然と物語に引き込まれました。オウセイとのやり取りも温かく、これから二人がどんな物語を紡いでいくのか楽しみです!
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