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第三十一話 俺はケセナだよ

 プラークルウの鋭い問いの余韻が、部屋に満ちていた。


 ケセナはしばらく黙ったまま、三人の顔を順に見渡した。金色に変わった髪が、微かに揺れる。ひとつ、静かに瞬きをする。

 その瞬間、琥珀色の瞳に宿っていた『五千星霜』の重みが、すっと薄れた。


「俺は、ケセナだよ……」


 グレンの眉が僅かに動く。ラルが喉を鳴らし、息を止める。

 けれど、ケセナの言葉はそこで終わらなかった。


「そして――」


 一度、目を伏せる。胸へ手を当て、困ったように笑いかけたかと思えば、すぐに苦々しさを滲ませる。その仕草は、三人のよく知る『ケセナ』そのものだった。


「オウセイでもあり、ファルイーアでもある」


 沈黙が落ちた。

 外で鳴く鳥の声だけが、かえってその言葉の異常さを際立たせる。あまりにも膨大な記憶と感情が、一人の青年の中に同居している。


 その事実に、誰一人、すぐには言葉を返せなかった。


 最初に沈黙を破ったのは、グレンだった。


「説明してもらおう」


 低い声だった。地を這うように重く、それでいて目を逸らさない覚悟があった。

 ケセナは小さく、力なく頷く。


「僕は一度、死んだんだ……」


 消え入りそうな声だった。

 話すこと自体を拒むように口を噤み、痛ましげに顔を顰める。感情を押し殺すような、浅く音のない呼吸に、グレンは堪えきれず目を逸らした。

 それでもケセナは、必死に言葉を紡ぐ。


「ベラリティル家で『実験体』と呼ばれていた頃。まだ……三星霜齢だったかな」


 視線は三人を通り越し、もっと遠い場所を見ていた。光も届かない地下室。湿った空気。石の冷たさ。血の匂い。そうしたものすべてが、今もその目の奥に焼きついているのだと分かる。


「あの男たち……デメンス、そしてローケンスは、僕を人として見ていなかった。ただの、壊れても構わない玩具みたいに扱っていた」


 その名を口にした瞬間、ケセナの唇が僅かに歪んだ。憎悪とも嫌悪ともつかない、濁った感情が浮かんでは消える。


「ある昼夜の実験で、僕の心臓は止まった。完全に死んだ……」


 ラルが息を呑んだ。


「死んだ……?」


 信じられない、というより、信じたくないという響きだった。

 ケセナはゆっくり頷き、そして一度、瞼を閉じる。


「でも、その刻、『彼』が来た……。いや」


 次に口を開いた折、その声から青年らしい柔らかさが消えていた。


「『俺』は、そこにいた」


 五千星霜を孤独に耐えてきた者だけが持つ、深く静かな響き。


「『俺』は、死なせたくなかった」


 プラークルウの肩が、目に見えて震えた。

 その声音は、間違いなく彼女が幾度も耳にした、オウセイのものだったからだ。


「俺は、死にゆくファルイーアの魂へ、俺自身の魂を繋いだ。欠けた魂を、俺の魂へ無理やり結びつけた」


 ラルは混乱に顔を歪め、グレンは息を潜めたまま、その声の主を見つめている。


「その接続を通じて、俺の魔力はファルイーアへ吸われ続けた」


 ラルの唇が僅かに開く。

 他者の魂へ己の魂を繋ぎ、その命を無理やり繋ぎ止める――その禁忌の重みを、本能が理解していた。


「その結果が、これだ」


 そう言ったあと、ケセナは、ふっと息を吐いた。

 まるで、自分ではない誰かの記憶を喉から引きずり出したように、しばらく浅く呼吸を繰り返す。

 やがて彼は、少し低く、けれど確かに人の痛みを知る声で続けた。


「その後は、グレン」


 名前を呼ばれた瞬間、グレンの表情が、凍りついたように強張った。


「お前が、一番よく知っている。心臓を動かされただけの肉塊だったファルイーアに、言葉と感情を教えて……」


 そこで一度、言葉が止まる。

 次の一言は静かだった。それなのに、刃よりも鋭く、グレンの胸へ突き刺さった。


「奈落へ落とし、感情を殺す術を叩き込み……完璧な『兵器』に仕立て上げた」


 グレンは何も言えなかった。

 拳を、血が滲むほど強く握り締める。

 自ら作り上げた『最高傑作』を前にして、彼には反論の言葉など一つもなかった。あるのは、悔恨だけだ。


「……っ」


 プラークルウが顔を覆い、小さく泣き声を漏らす。彼女の脳裏には、炎と血の中で感情を捨てて魔術を振るっていた少年の姿が、鮮明に蘇っていた。


「兵器なんて……」


 ラルが、震える声で呟く。


「そんなの、間違ってる」


 その言葉は、真っ直ぐだった。

 ケセナはしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振り、ひとつ長い息を吐く。


「でもさ……」


 声が変わる。

 今度は、三人がよく知る『ケセナ』の声だった。少し頼りなくて、けれど誰かの痛みに気づける、優しい声。


「全部ひっくるめて、今は俺なんだ。オウセイも、ファルイーアも、全部、俺の中にある」


 琥珀色の瞳が、三人を見渡す。

 その眼差しには、謝罪と、諦めと、それでもなお前へ進もうとする意志があった。


「キリエさんは、俺のために消えた。封印の鍵そのものだった彼女の役目は、これで終わったんだ」


 その言葉が落ちると、部屋の空気が重く沈んだ。

 プラークルウの小さな肩が震え、ラルは何かを言おうとして、結局何も言えなかった。グレンもまた、床を見つめたまま奥歯を噛み締めている。


 オウセイの記憶に触れ、彼女が何を背負っていたのかを理解してしまったからこそ、その声はひどく穏やかだった。


「ごめん……。俺は知っていたのに、さっきは取り乱して、心配をかけた」


 誰も、すぐには答えなかった。

 キリエの消滅という事実が、今さらのように重く沈んでいく。

 ケセナは、自分の右腕をそっと握り締めた。

 黄金龍の紋章が、皮膚の下で不気味に脈打っている。鈍い熱が走り、思わず顔が歪む。


「ただ、まだ終わってない。殺戮の根源である黄金龍が、まだここにこびりついてる」


 ラルが息を呑み、その右腕を見つめる。


「これを完全に抑えるには、まだ足りないものがある」

「何だ、それは……」


 ようやく、グレンが声を絞り出した。懺悔を終えた騎士のような、重い声音だった。

 ケセナは真正面を見据えたまま、その名を告げる。


「黄金龍を抑える『鍵』は――フィサルーアが持ってる」


 その名が落ちた瞬間、部屋の空気がまた変わった。

 グレンの整った顔が、はっきりと歪む。


「フィサルーアだと……?」


 その一言には、遠い日の郷愁と、喉元へ刃を突きつけられたような警戒が混ざっていた。

 グレンは深く息を吐く。視線は暗い床へ落ちているのに、その意識は、もう遠い宮廷へ飛んでいた。


 幼い頃のフィサルーアを、グレンは嫌というほど覚えている。


 応龍の皇太子。

 そして、グレンにとって唯一無二の親友だった皇帝リュウショウの、最愛の息子。

 陽光を弾く金の髪。右目を覆う黒い眼帯。その下には、生まれつき濁った灰色の瞳があった。対照的に、左の瞳だけが燃えるような紅だった。


 その異質さゆえに、宮廷では歪な皇子、呪われた血と囁かれていた。だが、当のフィサルーアは、そんな陰口など風のように笑い飛ばしていた。


『おい、グレン!』


 耳の奥で、澄んだ子供の声が蘇る。


『この廊下、最高だぞ! つるつるで、走ると面白いように滑るんだ!』


 その直後に響く、侍女たちの悲鳴。

 高価な花瓶が砕け、歴史ある壺が倒れる。

 その騒動の真ん中で、フィサルーアはいつも楽しそうに笑っていた。

 悪戯好きで、手がつけられないほど自由で、少しばかり性格に難がある。それでも、どこか憎めない、眩しい子供だった。

 だが、その温かな回想を断ち切るように、ケセナが静かに言った。


「あいつが、奪ったんだ」


 グレンは現実へ引き戻される。


「奪った? 何をだ……」


 ケセナは視線を落とした。金色の睫毛が震え、琥珀色の瞳に複雑な感情が揺れる。


「母が、持っていたもの……」


 母、と言っても、ケセナには実感がない。

 ただ、記憶の中に残っている。

 皇帝リュウショウの子を産んだ、側妃の姿が。


「陛下が、いつか来る未来のために、彼女へ託したのかもしれない。そう、記憶にある……」


 父、と呼べずに『陛下』と呼ぶ。その微かな距離感に、ラルが目を伏せた。

 ケセナの声が、さらに低く沈む。


「フィサルーアが、母を殺して……それを奪い去った」


 ラルの顔が強張る。プラークルウも、自分の肩を抱き締めるようにして息を潜めた。


「どうして……。どうして、そんなことを……」


 ラルの呟きに、ケセナは感情の抜けた声で答える。


「たぶん、魔人に唆されたんだと思う。でも、その頃の僕は、ほとんど檻の中だったから……詳しくは分からない」


 こめかみを押さえ、苦しげに息を吐く。

 右腕の紋章が、意思を持つように不気味に脈打った。痛みに言葉を詰まらせ、ケセナは目を閉じる。


「……っ」


 空気がぴんと張り詰める。黄金龍の邪気がうっすらと漂い、ラルが身構える。

 だが、ケセナは数息ののち、ゆっくりと目を開いた。

 その背筋は、すでに真っ直ぐだった。


「だから」


 熱を帯びた右腕を、今度は逃げずに強く握り締める。


「取り返す。フィサルーアから、奪われたものを全部」


 ラルが顔を上げる。


「取り返す……」

「うん。それまでは、この右腕に宿る黄金龍の恐怖に耐え続けなきゃいけない。呑み込まれないように」


 ケセナは少しだけ笑った。いつもの、頼りなげで、でも優しい笑みだった。


「だからさ……もし俺が道を踏み外しそうになったら、助けて。俺を、止めてほしい」


 ラルは迷わなかった。


「もちろん。迷う理由なんてない」


 プラークルウも、涙を拭いながら大きく頷く。


「当たり前です! 私、ケセナ様の盾になるって決めたんですから!」


 けれど。

 グレンだけは、黙ったままだった。

 大きな拳を白くなるまで握り締め、視線を床へ落としている。その胸の奥に渦巻く罪悪感は、もう隠しようがなかった。


(自分は、この子を救うどころか、兵器として調教した。道具へ作り替えたのだ。助ける資格など、俺にあるのか……?)


 答えは出ない。


「グレンさん」


 ケセナが、穏やかに呼ぶ。

 グレンが顔を上げると、そこには、すべてを見透かしたような静かな眼差しがあった。


「貴方だけが悪いわけじゃない。あの刻、あの状況じゃ……きっと、誰だって何かを間違えた」


 その声音は、どこかリュウショウに似ていた。

 そしてケセナは、ほんの少しだけ、泣き出しそうな顔で微笑む。


「だって……あの頃の僕は、ただの化け物にされていたから」


 その一言に、グレンの喉が詰まる。


「そんな僕を、人の形に繋ぎ止めてくれたのは、グレンさんだったんだよ」


 グレンは、何も返せなかった。

 赦しの言葉は、時に責める言葉よりも深く人を抉る。


「少し、風に当たってくる」


 それだけ言うのが、精一杯だった。

 これ以上、あの優しい瞳を見ていたら、自分は立っていられない。グレンは踵を返し、逃げるように家を飛び出した。

 陽の光が、開け放たれた重い木扉から室内へ流れ込む。森の匂いを含んだ風が吹き抜けた。


 けれど、部屋に残された沈黙は、風では攫われず、停滞を続けていた。

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