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第三十話 封印解放

 帳の隙間から差し込む昼巡りの光が、室内を白く照らしていた。


 ケセナは眩しさに目を細め、小さく欠伸を漏らす。暖炉の火はすでに落とされ、煤の匂いだけが薄く残っている。その静けさは、これから始まる儀式のためだけに整えられたもののようだった。


 部屋の中央からは、食卓も椅子もすべて運び出されていた。代わりに床一面を埋め尽くすように、複雑な紋様が描かれている。生々しいほど濃い赤で刻まれたそれは、昼巡りの光の中にあってなお、呼吸するように淡い燐光を放っていた。


 その中心に、ケセナは座していた。


 部屋へ入ると、キリエはこれを『魔法陣』と呼んだ。ファミラスで行使される『魔術』とは異なる、魔人の力――『魔法』による儀式なのだという。


 そのキリエは今、ケセナの正面で背を向けて立っていた。純白の儀式衣は彼女の神秘性をいっそう際立たせており、ケセナは思わず見惚れそうになる。だが、見惚れている場合ではないことは、彼自身がよく分かっていた。


 やがて、腰まで届く長い黒髪を揺らし、キリエが振り返る。牡丹色の瞳が、僅かに揺れていた。


 見事な装飾の施された杖を、彼女は強く握り直す。


 そして、ケセナの右腕を見た。


 黄金龍の紋章が、皮膚の下で生き物のように脈打っている。閉じ込められた獣が、檻の内側から爪を立てているようだった。そのたびに熱が走り、ケセナは無意識に顔を顰める。


「準備はいい……?」


 魔法陣の外側に立ち、キリエは静かに問うた。


 声はいつもどおり冷静だった。けれど、握り締めた杖の先が微かに震えているのを、ケセナは見逃さなかった。


「これが、封印解放の儀式よ。もう、引き返せない」


 ケセナは肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


「分かっています。俺は……記憶を取り戻します」


 そう言って見上げると、キリエは一瞬だけ目を伏せた。


「そう。あなたの本来の記憶。あなたが、自分を守るために捨てたもの」


 唇が、ほんの僅かに震える。


「辛さしか、ないかもしれないけれど……」


 ケセナは乾いた笑みを浮かべた。頬が引きつる。


「地獄を覗き込むような気分ですよ」

「当然よ。正気を保てる保証すらないわ」


 キリエは淡々と返す。


「でも、安心して。万が一の場合は、グレンたちが容赦なく動く」


 厚い扉の向こうには、待機している三人の気配がある。グレンの重い存在感。ラルの鋭い静けさ。そして、プラークルウの落ち着かない足音。


「何があっても、止める」


 それはケセナへ向けた言葉であると同刻に、キリエ自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。


「でも――あなたの魂が耐えている限り、私は止めない」


 ケセナは、静かに頷く。


「逃げないと決めたんだ」


 それが、一夜前、あの暗い森の中で自分が出した最後の答えだった。


 本音を言えば、今も怖い。足が竦むほどに。けれど、それでも求めてしまったのだ。自分という存在を形作った『記憶』の、その先を。


 キリエが魔法陣の縁に立ち、両手をかざす。


「始めるわ。抗いなさい、ケセナ……」


 刹那、室内の空気が一変した。


 魔法陣が爆発するように光を放つ。床に刻まれた紋様が生き物のように蠢き、渦巻く白光が、室内を満たしていた昼巡りの明るさを一瞬で呑み込んだ。


 ケセナの右腕に刻まれた黄金龍の紋章が、肉を焼き切るような熱さで激しく脈打つ。


 視界が、砕けた。

 まるで、玻璃細工が粉々に散るように。


 次の瞬間、ケセナは別の場所にいた。


 暗い地下室だった。

 光の届かないその空間は、湿気に満ちた空気がねっとりと肌へまとわりついている。歪な巨大な石の周りに、幾つもの黒い影が群がっていた。大人たちだ。誰もが不気味な笑みを浮かべ、石の上に横たわる小さな身体へ手を伸ばしている。


 がり、がり、と耳障りな音が響く。

 赤い液体が、石の上から床へと流れ落ちていた。

 声も出せないまま、その中心から小さな手が上へ伸びる。

 助けを求めるように。

 だが、その手は、ぱたりと力なく落ちた。

 鉄錆に似た、濃い血の臭いが鼻を刺す。


 場面が変わる。


 肌を焼く、猛火の熱。

 崩れ落ちた町。

 空を裂くほどの悲鳴が、何千、何万と重なって響いている。逃げろと誰かが叫んでいる。愛する者の声か、自分自身の絶叫か、それすらも判然としない。


 炎。風。水。土。

 底知れぬ力が、すべてを平等に灰燼へと変えていく。

 誇りも、歴史も、愛も。

 何もかもが、等しく無へ還っていく。


 そして、その破壊の中心にいるのは――血まみれの、小さな影だった。


 蹂躙される者と、蹂躙する者。

 そのどちらの中心にいるのも。


 他ならぬ、自分自身――ファルイーアだった。


「っ、が……あぁっ!」


 ケセナの喉から、ひび割れた悲鳴が漏れる。

 息ができない。視界が明滅する。魔法陣の光が室内で激しく脈打った。


「ケセナ! 耐えなさい!」


 遠く、深い水底から響くように、キリエの声が聞こえた。

 けれど、その声はもう届かない。

 記憶の奔流は止まらない。


「あ……ああ……っ」


 空気を求めて大きく口を開く。涎が顎を伝う。

 肉が裂ける痛み。骨を削られる感覚。


「やめろ……。触れるな……っ!」


 両手が宙を切る。迫り来る幻影を、必死に払いのける。


 目の前には、積み上がる死体の山。

 悲鳴。

 嗚咽。

 血の匂い。

 何もかもが赤かった。


「俺は……俺が、殺し……っ」


 嗚咽が漏れる。


「もう、見せるな……っ」


 両手で目を覆っても、脳裏へ焼きついた光景は消えない。

 そうして最後に訪れるのは、圧倒的な虚無だった。


 だが。

 その地獄の底から、まったく別の記憶が滲み出してくる。


 柔らかな木漏れ日が差し込む、静かな森。

 琥珀色の瞳を持つ、蒼い髪の男。

 救世主と呼ばれながら、それを否定し続けた男。


 オウセイ・カイラーヌ。


 彼は、血に塗れ、心を壊したファルイーアを、ただ穏やかな目で見つめていた。

 彼もまた、五千星霜という途方もない苦痛の中を生き抜いてきたはずなのに。どうして、あんなふうに静かでいられたのか。


 ファルイーアとも、ケセナとも異なる、オウセイの長すぎる贖罪の記憶が、濁流となって流れ込んできた。


「なんで……」


 ケセナの呟きは、涙混じりの拒絶だった。

 記憶が混ざっていく。

 自分のものではないはずの、五千星霜の痛みが入り込む。


 深い悲しみ。慈しみ。諦念。祈り。

 そして、世界を救うために下した、あまりにも残酷な決断。


 ケセナは、理解してしまった。

 オウセイが、なぜ滅びの力である黄金龍を応龍族の長の右腕へ託したのかを。

 なぜ、こんな呪いのような運命を、彼ら一族へ背負わせたのかを。


 何よりも。


『お前は、俺がずっと待ち望んでいた……俺を殺してくれる者だ』


 その言葉の意味を。


(ああ、貴方の魂が、僕と繋がったから……)


 自分の奥底に流れていた魔力の源が、誰のものだったのか。

 その答えまで、嫌というほど理解してしまった。


 ぬるりと、黄金龍が蠢いた。

 右腕の熱が、限界を超えて増していく。


「やめろ……。来るな……!」


 ケセナの身体は、悪寒に襲われたように激しく震えた。咆哮する黄金龍。囁くオウセイ。二つの存在が、内側から自分を引き裂こうとしてくる。


(逃げない。ここで呑まれたら、俺は俺でなくなる!)


 その刻だった。


『――大丈夫。お前なら、この鎖を変えられる』


 流れ込んだオウセイの記憶が、声となって耳元で再生された。


 ケセナは、血が滲むほど歯を食い締め、両目を見開く。


「黙れ、黄金龍……!」


 声を絞り出す。


「俺は、お前には屈しない!」


 光が飽和した。

 魔法陣が、陽そのものさえ呑み込むほどの白光を放つ。その光の向こうに、キリエの牡丹色の瞳が見えた気がした。


 その瞳は、ひどく穏やかだった。

 まるで、最初からこうなることを分かっていたかのように。


 次の瞬間。


 鼓膜が痛むほどの、完全な静寂が落ちる。

 ケセナの髪が、開いた窓から差し込む風にさらりと揺れた。

 視界に映った前髪からは、見慣れた茶色が消えている。


 そこにあったのは、冷たい『金』だった。


 しばらく、その髪を見つめたまま呼吸を整える。胸の上下がようやく落ち着き始めた頃、ケセナはゆっくりと自分の手を見下ろした。


「終わった……?」


 震える手を見つめる。返事はない。


「キリエさん……?」


 顔を上げる。

 誰もいなかった。

 魔法陣は煤一つ残さず消え失せ、部屋には自分一人だけが取り残されている。


「キリエ……?」


 見回す。

 だが、その姿はどこにもない。

 ざらりと嫌な予感が背筋を走った。ケセナはふらつく足で立ち上がり、勢いよく廊下へ飛び出す。


「グレン! ラル!」


 隣室から、待機していた三人が弾かれたように顔を出した。


「終わったのか!?」


 グレンが叫ぶ。

 そして、次の瞬間、目の前の青年を見て言葉を失った。

 ラルの紫色の瞳が見開かれ、プラークルウは手にしていた菓子を床へ落としたまま、ぽかんと口を開ける。

 そこに立っていたのは、間違いなく金色の髪をした青年だった。

 だが、グレンの知るファルイーアとは、決定的に違う点が一つある。

 その瞳は、本来の紅でも、記憶の封印によって変わった茶色でもなかった。

 深く、温かな琥珀色。


「ファル、様……?」


 プラークルウの口から、かつての名が漏れる。

 だが、ケセナはそれに応じる余裕もなく、灰のように青褪めた顔で訴えた。


「キリエが……キリエがいないんだ」


 三人が、不可解そうに顔を見合わせる。


 瞳の色。

 そして何より、『キリエ』という呼び捨て。

 グレンは言い知れぬ違和感に引っかかりを覚えつつ、低い声で言った。


「何を言ってる、ケセナ」

「キリエは、どこだ?」


 ケセナの声が低くなる。

 琥珀色の瞳が、鋭い光を帯びた。


「お前が出てくるまで、俺たちはずっとここで扉を見張っていた。キリエどころか、誰も部屋から出てきていない……」


 ラルもまた、無言で頷く。

 その瞬間、ケセナの頭の奥で、オウセイの記憶が鋭く弾けた。欠けていた何かが、音を立てて噛み合っていく。


「違う……」


 誰へ向けるでもなく、ケセナは呟いた。


「キリエは……彼女は……」


 その声に、五千星霜の果てを生き抜いた者の、深く静かな響きが宿る。

 プラークルウが震えた。

 その声音を、彼女は知っている。

 グレンもラルも息を呑んだまま、目の前の青年を見つめている。

 ケセナは、いや――そこに立つ『誰か』は、冷酷な真実を静かに告げた。


「キリエは、消滅した」


 グレンが一歩、警戒するように後退る。


「『俺』という存在を肯定し続けた彼女は」


 琥珀色の瞳が、この世のものではない遠い場所を見ている。


「『俺』の希望を叶えるため、自ら封印の鍵になった」


 息の詰まるような、重い沈黙が落ちた。

 プラークルウの金色の瞳が細くなる。

 彼女は目の前の青年の中に、かつて仕えた主の気配を感じ取っていた。

 複雑な眼差しで彼を見つめ、そして、震える声で問いかける。


「ねえ……」


 冷たい刃のような、決定的な問いだった。


「今の、あなたは……誰?」


 窓から差し込む昼巡りの光が、その異質な青年の輪郭を容赦なく照らし出していた。

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