表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/69

第二十九話 黄金龍に抗う者

 夜巡りの森は、墨を流し込んだように暗く、木々の間を抜ける風は肌を刺すように冷たかった。


 先ほどまで森を焼くように満ちていた閃光と熱が嘘のように消え、今は不気味な静寂だけが広がっている。

 ケセナとラルは無言のまま、湿った土を踏み締めて歩いていた。

 フェイカーが文字どおり『塵』と化した光景が、ケセナの網膜に焼きついて離れない。右腕の黄金龍の紋章はすでに熱を失い、沈黙しているが、その重みだけがやけに生々しく感じられた。


 ざっ、と。

 前方の茂みが大きく揺れ、ケセナがびくりと身構える。次の瞬間、暗闇の中から巨大な影が飛び出してきた。


「ケセナ! ラル!」


 切羽詰まった声。

 片手に剣を握り締めたグレンだった。

 息を乱し、血相を変えて飛び出してきた彼は、二人の無事な姿を見つけるなり、がくりと肩を落として深く息を吐き出した。


「無事か……! 一体、何があった? 轟音が響いてきたぞ」


 グレンの鋭い視線が、ケセナへ向けられる。


「えっと……」


 ケセナは口を開きかけたが、言葉に詰まった。

『フェイカーが現れて、俺の右腕が勝手に奴を消し飛ばした』――そんな狂気じみた事実を、どう説明すればいいのか。人を一人、跡形もなく消滅させてしまった右腕への恐怖がぶり返し、咄嗟に言葉が出てこない。


 戸惑い、視線を泳がせるケセナの横で、ラルがするりと口を開いた。


「フェイカーが来た」

「フェイカーだと……!?」


 グレンの顔色が変わる。

 あの魔術団副団長が、結界の消滅に乗じて、ここまで入り込んできた。そう理解した瞬間、グレンはぎりっと奥歯を噛み鳴らした。

 鋭い視線で周囲の暗闇を睨みつけ、それからケセナの右肩の服が焦げているのを見咎める。


「怪我をしているのか」

「ああ、大丈夫。平気だから」


 こんなもの、大した怪我ではない。

 ケセナは右肩を隠すようにしながら、口早に答えた。


「とにかく、話は戻ってからだ……」


 グレンは短く告げると、二人を庇うように背後へ回り、家の方角へ歩き出した。


 三人は暗い森を抜けていく。

 やがて木々の隙間から、家の橙色の灯りが見えてきた。その温かな光が視界に入った瞬間、ケセナはようやく、強張っていた肩の力を少しだけ抜くことができた。

 その光の中に、一つの人影が立っていることに気づく。


「キリエさん……?」


 家の前。冷たい夜風の中、キリエが腕を組んで立っていた。

 長い黒髪が風に揺れている。焦りの色は見せていない。けれど、安全な家の中ではなく外で待っていた。それだけで十分だった。

 キリエの牡丹色の瞳が、闇から姿を現した三人――とりわけケセナの無事な姿を捉え、ほんの僅かに緩む。


「無事で良かったわ」


 静かで、けれど確かな温度を持った声だった。

 彼女は短くそれだけを告げると、冷え切った三人を迎え入れるように、背後の木扉を引き開けた。


 古びた木材が軋む。

 家の中から、暖炉の薪が爆ぜる音と温かな空気が流れ出してきた――その刻。


「ケセナ様ぁぁぁぁ!!」


 耳をつんざくような甲高い悲鳴が、夜巡りの静寂を粉砕した。

 開かれた木扉の隙間から、銀髪の小さな身体が、文字どおり矢のような勢いで躍り出てくる。


「えっ、わっ……!」


 回避する間もなかった。

 封玉へ頑なに籠もっていた剣精、プラークルウの銀髪が、ケセナの視界をいっぱいに埋め尽くす。

 勢いよく胸元へ突っ込んできた衝撃で蹌踉めくケセナの顔へ、涙に濡れた柔らかな頬が張りついた。

 けれど、どこか懐かしく、ケセナはその感覚に少しだけ安堵する。


「ごめんなさい! ごめんなさい! 私が封玉へ籠もって、黄金龍の制御を手放したから……ごめんなさい!!」

「プラウ、落ち着いて……!」


 プラークルウの金色の瞳からは、大袈裟なほど大粒の涙が溢れていた。ケセナは窒息しそうになりながら必死に引き剥がし、その小さな身体の震えが、決して大袈裟な芝居ではないことを知る。


「私、怖くて、震えてました!」

「なんで、プラウが震えてるの」

「毎回毎回、置いていかれるものですから」


 涙目のまま、プラークルウは、ふふん、と鼻を鳴らす。

 最初の飛びつきはともかく、もうこれはわざとだと確信し、ケセナは呆れたように息を吐いた。


「そこ、威張るところじゃないと思う……」

「いいから、中に入れ。冷えるぞ」


 涙目で抗議するプラークルウにケセナが呆れていると、背後からグレンが短く促し、三人はようやく温かな家の中へ足を踏み入れた。


 暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音が、静まり返った部屋に響く。

 グレンは椅子へどっかりと腰を下ろすと、腕を組み、鋭い黒い瞳でケセナを真っ直ぐに見据えた。

 ケセナの横には、今度こそ離れるものかと、プラークルウがぴったり纏わりついている。


「さあ、話してくれ。何があった」


 静かな、だが逃げ場のない催促。

 ケセナは右肩の焦げた服の端を無意識に握り締めながら、ゆっくりと口を開いた。


「森の奥で、フェイカーに襲われました。オウセイの結界が消えた隙を、突かれたんだと思います」


 キリエの表情が微かに険しくなる。


「ラルが槍で斬りかかったんですが、まったく通用しなくて……。奴は、魔人の加護だと言ってました」

「魔人の加護……」


 グレンが低い声で反芻する。


「フェイカーの炎が迫ってきて、受けるしかなくて……。その刻、俺の右腕が勝手に熱を持って、頭の中へ直接、声が響いたんです。『我を使え』って」


 それまで騒がしかったプラークルウでさえ、息を呑んで静まり返った。


「それから、右腕からものすごい光が溢れ出して……」


 ケセナは言葉を区切った。

 黄金龍の放った純粋な暴力。魔人の加護ごとフェイカーを一瞬で跡形もなく塵に帰した、あの圧倒的な蹂躙。

 言えば、もう戻れない気がした。自分が、取り返しのつかない化け物だと認めてしまう気がした。


「気がついたら……フェイカーは、いなくなってました」


 ケセナは俯き、一番残酷な事実を飲み込んで、そう締めくくった。


 グレンの鋭い眼光が、一瞬だけケセナの震える指先へ落ちる。

 何が起きたのか、そのすべてを察したわけではないだろう。だが、グレンはそれ以上を追及しなかった。


「ラルはどうだ? お前からも、そう見えたか?」


 壁際に立っていたラルは、淡々と答える。


「光で何も見えなかった。光が消えたら、フェイカーもいなかった」


 嘘ではない。あまりにも強烈な閃光に視界を奪われ、ラルが次に目を開けた刻には、あの魔術団副団長の姿はどこにもなかったのだ。

 グレンは目を閉じ、深く考え込んだ。


 あのフェイカーが、ただ目を焼かれた程度で退くとは思えない。

 執念深いあの男なら、確実にケセナの首を狙ってくるはずだ。


 だとしたら――黄金龍の力の片鱗。その気配に恐れをなしたか。

 あるいは、ケセナがその力に呑まれかけているか。


 重い沈黙が続く中。


「でも」


 ラルが、静かに言葉を継いだ。

 全員の視線が、紫色の瞳を持つ少女に集まる。

 ラルはケセナを真っ直ぐに見つめ、はっきりと告げた。


「ケセナ、右腕の黄金龍に『黙れ』って言った」


 その言葉が落ちた瞬間。

 部屋の空気が、ぴたりと止まった。

 グレンも、キリエも。そして、ケセナの胸元にしがみついていたプラークルウも、一斉に目を丸くしてケセナを見た。


「は……?」


 最初に間の抜けた声を漏らしたのは、プラークルウだった。


「黙れ、って……ケセナ様、あの狂気にですか? オウセイ様ですら抗えなかった、あの阿呆龍に、喧嘩を売ったんですか!?」

「いや、喧嘩を売ったわけじゃなくて……」


 ケセナが慌てて否定しようとした、その刻だった。


「っ、ははははは!」


 グレンが腹の底から吹き出すように笑い始めた。

 最初は堪えるように肩を震わせていたが、やがて耐えきれなくなったように大声を上げ、ばんばんと自分の膝を叩く。


「黄金龍に『黙れ』か! 傑作だな! そりゃあフェイカーも、尻尾を巻いて退くわけだ」


 グレンのその言葉に、ケセナは内心で冷や汗をかいた。

 違う。フェイカーは退いたのではない。

 黄金龍が一瞬で、跡形もなく消し飛ばしたのだ。

 だが、その残酷な真実を口にする前に、グレンの大きく温かな手が、ケセナの頭を乱暴に、けれど優しく撫で回した。


「上出来だ、ケセナ」


 グレンの黒い瞳が、深い慈愛と安堵に細められる。


「力に魅入られず、呑まれなかった。お前は自分自身の心で、あの黄金龍を捩じ伏せたんだ。よくやった」

「俺は、ただ……うるさくて、怖かっただけです」


 自分は、そんな立派な人間ではない。買い被りだ。

 そう言いたかったが、グレンの温かい手と、呆れながらも安堵で涙ぐんでいるプラークルウを見ていると、言葉が喉の奥へ引っ込んだ。


「オウセイ様の目に、狂いはなかったようね」


 静かな声が響き、キリエがゆっくりと歩み寄ってきた。

 使い古された椅子の傍らからケセナの正面へ立ち、その牡丹色の瞳で、ケセナを真っ直ぐに射抜く。


「オウセイ様が命を削ってまで、あなたを助けた理由が……分かった気がするわ」


 暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。

 キリエは目を伏せ、ほんの少しだけ息を吸い込み、覚悟を決めたように、残酷な最終確認を口にした。


「本当に、記憶の封印を解いていいのね?」


 その問いに、ケセナは思わず目を伏せた。

 脳裏に蘇るのは、フェイカーを一瞬で塵にした、あの規格外の暴力の光。

 記憶を取り戻せば、自分は完全にあの黄金龍と一体化してしまうかもしれない。優しい人々を傷つける、世界の敵になってしまうかもしれない。

 その前に、壊れてしまうかもしれない。

 怖い。足が竦むほどの恐怖が、胸の奥で渦巻いている。


 だが。


『もし俺が壊れたら、助けてくれる?』

『当たり前。だけど、壊れなければいい』


 暗い森の中で交わした、ラルとの不器用な約束。

 頭を撫でてくれるグレン。騒がしく泣いてくれるプラークルウ。

 そして、自分のために五千星霜の命を使い切ってくれた、オウセイ。


 ケセナは両拳を握り締め、ゆっくりと顔を上げた。

 その琥珀色の瞳には、もう逃げ隠れしない、確かな決意の光が宿っていた。


「はい。お願いします」


 迷いのない声だった。

 その返事を聞いたキリエは、ほんの一瞬だけ表情を揺らした。

 だが、すぐに微笑を作る。


「分かったわ……」


 キリエはそれだけを言うと、くるりと背を向けた。


「では、一夜後」


 静かに告げ、彼女は一度も振り返ることなく、自室へと戻っていった。

 ぱたんと静かに木扉が閉まる。


 残されたケセナは、自らの右腕に刻まれた、沈黙する黄金龍の紋章を、今度は逃げることなく静かに見つめ返していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ