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第二十八話 選ぶための夜巡り

「一夜、ください……。今は、決められない」


 吐き捨てるようにそう言い残し、ケセナは覚束ない足取りで部屋を出ていった。

 茶色の髪がグレンたちの横を抜けていく。けれど、誰も止められず、振り向くこともできなかった。


 扉が閉まる音が、やけに重く響いた。


 ひたすら歩く。

 どこへ向かっているのか、自分でも分からない。


 記憶を取り戻せば、壊れるかもしれない。

 黄金龍に呑まれるかもしれない。

 その予感が、胸に貼りついて離れなかった。


「そんなの、想定外だよ……」


 愚痴を零しながら歩き続け、気づけば家を抜け出し、森の奥へ足を踏み入れていた。

 どれほど歩き続けたのか。いつしか陽は大きく傾き、紅葉を始めた木々の間から、冷たい空気が流れ込んでいた。森はすでに夕暮れを越え、深い闇を迎え入れ始めている。


 頭を冷やしたい。

 だが、考えるほどに分からなくなる。


「なんで、迷ってるんだよ……!」


 小さく舌打ちをする。

 立ち止まれば、深く考えてしまう。だから止まれなかった。


「ケセナ……」


 背後から声がした。

 振り向かなくても、誰か分かる。ラルの声だ。


 ケセナは足を止め、ゆっくり振り返った。


「ついてこないでよ」


 眉を顰め、吐き捨てるように言う。

 だがラルは少し距離を空けたまま、黙って立っているだけだった。


「一人にしてほしいなら、帰る」

「だったら、帰って」


 苛立ちを隠さず言い放つが、それでもラルは動かなかった。

 その沈黙が妙に重くて、ケセナは堪らず視線を逸らす。


 数息の沈黙。


 やがてケセナは、彼女になら打ち明けてもいい。そんなふうに思った。

 なぜかは分からない。

 ただ、彼女の不思議な紫色の瞳が、真っ直ぐに自分を見続けているから。

 それだけの理由だった。


「怖い……」


 ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。


「何が?」


 ラルの声は静かだ。

 ケセナは地面を見つめたまま答える。


「黄金龍と、自分が怖い」


 ラルはじっと見ているだけだった。

 慰めも、失望も、叱咤もない。

 ただ、ケセナが次の言葉を吐き出すのを待っていた。


「俺、記憶を取り戻したら、みんなを守れるんじゃないかって思ってた……」


 声が震える。

 見せられた断片の過去を知るのは怖い。

 それでも、自分のせいで苦しむ応龍族たちを守りたかった。非道な裁きを受ける彼らは、何も罪を犯していない。

 記憶を取り戻せば、何かできると信じていた。

 けれど、オウセイは死に、自分は壊れるかもしれないと言われ、右腕には黄金龍がいる。

 最悪の現実ばかりを突きつけられ、眩暈がした。


「なんだよ……。狂気って……」


 ラルは何も言わない。

 その沈黙が、余計に胸を締めつけた。

 顔を上げ、首を少し傾けて、ケセナは言った。


「俺、どうすればいい?」


 ラルは口を開きかけて、閉じる。

 無責任に「大丈夫」と言わない、その不器用な沈黙が、今のケセナには拒絶より重く感じられた。


「ごめん……。選ぶのは、俺だよね」


 ケセナが自嘲気味に息を吐いた、その刻だった。


 くしゃり、と枯れ葉を踏む音がした。


 オウセイの張った強固な結界内であるはずの森に、あり得ない足音が響く。

 森の奥で何かが動き、ラルの表情が変わった。

 次の瞬間、黒い影が木々の間から音もなく現れる。


「ほう。そちらから出てきてくれるとは、好都合だ。結界が消滅した隙に覗いてみれば……これは最高の褒美だな」

「フェイカー!」


 ラルが叫ぶ。


 ケセナの身体が強張る。

 怖いのは、フェイカーではない。

 また暴れ出すかもしれない、自分の右腕だった。


「結界が、消滅した……?」


 オウセイがこの森に張っていた結界が、彼の死とともに崩れたのだろう。


(オウセイ……)


 胸が冷えた。ケセナの脳裏に、オウセイの琥珀色の瞳が浮かぶ。

 あの瞳の奥にあった、ひりつくような悲しみが蘇り、ケセナは唇を強く噛み締めた。

 フェイカーが地面を蹴り、一瞬で距離を詰める。


「っ!」


 ラルが瞬時に槍を抜き、横薙ぎに振るった。

 だが、刃は弾かれた。金属を激しく打ったような硬い音が、森に響く。


「なっ……!」


 確かにフェイカーの身体を斬ったはずなのに、刃は彼の周囲を覆う見えない壁に阻まれていた。

 狼狽して後退るラルの手が、痺れたように震えている。

 フェイカーは、ふん、と鼻を鳴らした。


「無駄だ。貴様らごときの刃で、我が『魔人の加護』は斬れぬ!」


 魔人、という単語に、ケセナは耳を疑い、眉を寄せる。


「魔人……?」


 しかし、フェイカーは答えない。

 彼の手から放たれた炎の魔術が、容赦なく二人へ振り下ろされた。ケセナは咄嗟に身を引くが、ちりり、と前髪の先が焼ける。


 二人は森の中で必死に動き続けた。

 こちらの攻撃は一切通らない。回避も限界に近かった。

 フェイカーの放った炎の鞭が、ケセナの右肩を掠める。布が焼け焦げ、火傷を負った肌から血が滲んだ。


 ――その刻だった。


 右腕が、異常な熱を帯びた。


「なにっ……!?」


 火傷の痛みではない。骨の奥が脈打つ。

 右腕に刻まれた黄金龍の紋章が、まるで生き物のように禍々しく鼓動する。

 そして――声が響いた。


『宿主』


 頭の中へ直接響く悍ましい声に、ケセナの呼吸が止まる。


『我を使え』


 右腕が疼く。


『我の糧となれ』


 力が溢れてくる。理性など消し飛ばすような、純粋な暴力の力。

 壊せると、その声は甘く囁いた。


『この程度の獣など、一瞬で塵にしてやろう』


 ケセナは歯を食い縛った。


『我を使え。守れるぞ。貴様が望む者、すべてを』

「やめろ……」


 フェイカーが迫る。ラルが再び斬りかかるが、やはり魔人の加護に弾かれてしまう。


「逃げて、ケセナ!」


 ラルの悲痛な声が響く。

 だが、ケセナの足は動かない。

 右腕が焼けるように熱い。声がさらに強くなる。頭が割れそうだった。


『我を使え、我を使え』


 フェイカーが止めを刺そうと飛びかかってきた。巨大な炎が眼前に迫る。


『我を見よ。我が力の末端を』


 脳内へ低く響いた声とともに、ケセナの意思とは無関係に右腕が跳ね上がった。

 黄金龍の紋章から、目を開けていられないほどの閃光が迸る。詠唱も、魔術の構成すらもない。

 ただ純粋で凶悪な『暴力の光』が、フェイカーの身体を森の一部ごと呑み込んだ。


「な――」


 断末魔の悲鳴を上げる間すらなかった。

 閃光が収まった直後、フェイカーの姿は跡形もなく消し飛んでいた。絶対に斬れないと豪語していた魔人の加護ごと、文字どおり『塵』にされたのだ。

 森の一部がすり鉢状に抉れ、黒焦げた大地から白煙が上がっている。

 あまりにも容易く、呆気ない命の蹂躙。

 ケセナは戦慄し、自らの右腕を左手で強く押さえつけた。恐怖で全身から血の気が引いていく。


「消えろ! 黙れっ!!」


 ケセナが血を吐くように絶叫すると、紋章の奥から、歪な嘲笑のような響きが脳裏へ滑り込んだ。


『待とう。その心が、闇へ堕ちる刻を――』


 その不気味な呪詛を最後に、右腕の熱がすっと引いていく。

 頭の中を侵食していた声も、完全に消え失せた。


 森に、恐ろしいほどの静寂が戻った。

 ケセナは膝から崩れ落ちた。

 荒い呼吸だけが残り、乾いた声が喉から零れる。


「こんなに、怖いのに……」


 黄金龍の紋章が、僅かに脈を打つ。ケセナはきつく目を閉じた。

 先ほどまで命のやり取りがあったとは思えないほど、森の風は穏やかで、葉の擦れる音だけが耳に残る。

 ただ、目の前の抉れた地面と焦げた匂いだけが、異常な破壊の爪痕を残していた。


 ケセナはその場に座り込んだまま、自らの右腕を見つめていた。

 黄金龍の紋章は、今はただの模様のように沈黙している。だが、確かに意思を持って動き、人を容易く消し飛ばしたのだ。

 ラルが少し離れたところに立ち、近づいてこない。槍を下ろしたまま、じっとこちらを見ていることに気づき、ケセナは顔を上げた。

 ケセナの琥珀色の瞳が自分を捉えた瞬間、ラルは咄嗟に顔を逸らした。


(あの人と、同じ色だ――)


 蒼い髪の救世主。

 オウセイ・カイラーヌが、最期まで灯していた瞳の色。


(違う。目の前にいるのは、怯えて震えている、ただの『ケセナ』だ)


 ラルは、すぐに頭を振った。

 ケセナの中にオウセイがいるわけがない。

 色が変わった理由など、どうでもいい。

 優しくて優柔不断なケセナが、目の前に座り込んで怯えているのだから。


「怪我、大丈夫?」


 ラルの問いに、ケセナは答えなかった。

 ただ、小さく笑う。

 その顔がどこか空虚で、ラルは少しだけ眉を顰めた。


「嘘つき……」


 言葉を選び、ゆっくりと続けた。


「もう、選び終わってるくせに」


 ケセナは驚いて目を見開いた。

 無意識に地面の土を強く握り締め、爪の間へ土が食い込む。


「まだ、何も……」


 言いかけて、止める。

 確かに、胸の中には明確な答えがあった。


「選択肢なんて、最初から一つじゃないか――」


 胸中で燻っていた絶望が、言葉になって口から零れ落ちる。


「そうだね」


 それは、短い肯定だった。


「ねえ、ラル。俺は……」


 琥珀色の瞳を細め、ケセナは肩に絡みつく茶色の髪を見つめた。

 この髪が、今の自分だ。ケセナという人物だ。

 名前など、個を表す記号にすぎないと思っていたのに。

 こんなにも『ケセナ』である自分が愛おしい。


「俺のままで、いられると思う……?」


 ラルは、すぐには答えなかった。

 森の奥から、夜鳥の声が聞こえる。静かで、優しい森の音だった。

 やがてラルは、ゆっくりと口を開いた。


「分からない」


 あまりにも正直すぎる答えだった。

 ケセナは小さく息を吐く。


「だよね」

「でも、ケセナは大丈夫」


 続くラルの言葉に、ケセナは目を瞬かせた。


「きっと、大丈夫」


 ラルは真っ直ぐに見ている。迷いのない紫の瞳が、ケセナを真っ直ぐに射抜いていた。


「さっき、黄金龍に『黙れ』って言った。それが、答えじゃないの……?」


 ケセナは何も言えなかった。

 右腕を見る。黄金龍は静かだった。まるで、主の強い意思に屈服したかのように。

 ケセナは立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、少しよろめいた。ラルが咄嗟に手を伸ばしかけたが、ケセナは大丈夫だと示すように、そっとその手を制した。


「まだ……」


 森の奥を見る。家のある方角を。


「まだ、ケセナでいたいけど」


 小さく呟き、右腕に刻まれた紋章を強く握り締める。


「記憶を取り戻すって、決めてたのに」


 ゆっくりと息を吐き出した。


「いざとなったら怖がってさ。俺、情けないよね」


 ラルは黙って聞いている。

 ケセナは、覚悟を決めたように続けた。


「もし……もし俺が、壊れたら」


 少しだけ間を置いて、問いかける。


「俺を、助けてくれる?」


 ラルは即座に言った。


「当たり前。だけど、壊れなければいい」


 あまりにも簡単な言い方だった。ケセナは思わず笑い声を零した。


「簡単に言わないでよ」

「簡単じゃない」


 ラルは一歩踏み出し、力強く断言する。


「ケセナは、一人じゃないから」


 ケセナは一瞬、言葉を失った。

 そして、照れ隠しに小さく目を逸らす。


「ずるいよ……」

「何が」

「そういうこと、言うの」


 ケセナは顔を背けたまま、一歩足を踏み出した。


 家へ向かって歩き出す。記憶を取り戻し、世界の敵と呼ばれる自分と向き合うために。

 ラルも無言で隣に並んだ。彼を助けると決めたから。

 収奪の季の夜巡り。その森の中を、二人の足音が静かに進んでいく。

 ケセナは、自分の右腕を見ないように、前だけを見て歩いた。


 けれど。


 刻まれた黄金龍の紋章は、彼の決意を嘲笑うかのように、確かに脈打っていた。

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