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第三十二話 触れられない手

 外では昼巡りの陽が空を照らし、木々は黄色や赤色に染まり、収奪の季を迎えていた。


 家の裏手にある古びた見晴らし台で、グレンは一人、手摺りに両手を置いたまま、地平線を眺めていた。


 木々の色は、戦場の色だった。

 そして――ファルイーアが見ていたであろう、惨劇の色でもあった。

 背後で枯れ葉を踏む音が聞こえ、グレンは振り返る。


「ここにいたんだ……」


 小さな声だった。

 その儚げな響きだけで、今、目の前に立っているのが、ファルイーアの気配を色濃く帯びたケセナなのだと分かる。

 ケセナは、手を伸ばせば届きそうで届かない、そのぎりぎりの距離で立ち止まった。傾き始めた陽を浴びた金色の髪が、不気味なほど鮮やかに光っている。

 グレンは手摺りから手を離し、静かに口を開いた。


「化け物、と言ったな……」


 掠れた声だった。自分でも驚くほど、喉が乾いていた。


「俺は、お前を一度たりとも、そんなふうに見たことはない。それだけは……信じてくれ」


 ケセナは意外そうに目を瞬かせ、それから自嘲気味に目を伏せた。


「知ってる」


 小さく答える。


「寝静まった僕の傍で、悲しそうな顔をしていたこと」


 グレンの心臓が、鋭く脈打った。

 懺悔をしたところで、何も戻らない。言葉なら、いくらでも綺麗に並べられる。だが、ファルイーアを兵器にした過去は変わらない。


「ファル……!」


 衝動のまま、グレンはその細い肩へ手を伸ばした。


「……っ!!」


 ケセナの身体が、弾かれたように後ろへ飛び退いた。


 喉の奥から漏れたのは、悲鳴とも息ともつかない音だった。琥珀色の瞳は大きく見開かれ、獣のような怯えに染まっている。

 グレンの手が、空中で止まった。


「……あ」


 ケセナは自分の肩を両手で抱き締めるようにして、荒く呼吸していた。視線は、グレンの『手』に縫い止められている。


 差し出されたそれは、温もりではない。

 過去へ引き戻すための、冷たい道具でしかなかった。


「すまない……」


 グレンはゆっくりと両手を下ろし、背中へ隠した。


「忘れていたわけじゃないんだ」


 忘れていない。忘れられるはずがない。

 ファルイーアには、触れる者すべてを刈り取れと命令していたのだ。

 彼が『手』を怖がることを利用して、『伸びてくる手はすべて敵だ』と認識させていた。

 それでも、ここまで露骨に拒絶する姿を見たことはなかった。

 昔は、誰かの手が近づくたび、ほんの僅かに身体を強張らせるだけだったのに。


 嗚咽混じりの呼吸を繰り返していたケセナが、はっと息を呑み、自らの右腕を押さえた。

 内なる鼓動が、脈打つ。


「あ、あああっ……黙れ……」


 右腕の紋章が、皮膚を食い破ろうとするように暴れ出す。黄金龍の囁きと、『手』の記憶が一度に押し寄せ、ケセナの身体が崩れそうになる。


「ファルイーア!」


 グレンは叫び、反射的にケセナを抱き寄せた。


 その刻。


「うあああぁあああぁあ!!!!!」


 ファルイーアが錯乱した。グレンの胸元で叫び、身を捩って大きな身体から逃れ、地面へ蹲る。

 触れられた箇所を、手の感触を消そうとするように必死に擦り、喉の奥から甲高い、空気を吸えていない音が漏れる。


「ファル!?」

「痛いっ、嫌だ、もう、やめてっ」


 嗚咽に混ざる悲鳴に、グレンは青褪めた。

 『手』の恐怖を、何という悪夢にしてしまったのだろう。

 そして、その恐怖を内側から黄金龍が増幅させている。


「もう、殺して……」


 縋るように懇願する声が聞こえた。

 放心している場合ではなかった。

 グレンはファルイーアへ触れず、ただ名を呼んだ。


「ファル! ファルイーア!! ケセナ……!!」


 何度も呼ぶ。

 濡れた琥珀色の瞳がグレンを捉えると、右腕の異常な脈動が収まり、荒い呼吸と風の音だけが残った。


 十息ほどして、落ち着いてきたケセナがようやく言った。


「ごめん、なさい……」


 呼吸は細く、最小限だった。戦場で感情を押し殺すために叩き込まれた呼吸法が、今も彼を生かしている。


「頭では分かってる。貴方の手が僕を、傷つけないことくらい……」


 胸元へ手を当て、動悸を鎮めようとしながら、言葉を継ぐ。


「でも、身体が……勝手に拒絶する……。ごめんなさい……」


 グレンは、答えられなかった。

 ただ、背中へ隠した拳を、血が滲むほど強く握る。

 あの地下室で彼を傷つけた『手』の記憶を、自分はさらに磨き上げ、兵器として扱いやすい反応へ書き換えたのだ。救うどころか、傷そのものを刃にしてしまった。


「そんなお前に、俺はまた剣を取れと言う」


 掠れた声で、グレンは言った。


「救いようのない外道だな」

「……グレンさん」


 ケセナが、震えながらも真っ直ぐに彼を見る。

 一歩だけ、自分から歩み寄った。

 けれど、その足は、手の届かない場所で止まる。


「俺が兵器だった頃、身体が強張らなかった瞬間がある」


 傾き始めた光が、金色の髪を透かしていた。


「貴方が俺の背後に立って、敵を睨んでいた刻。あの刻だけは、貴方の手が怖くなかった」


 グレンは息を呑む。


「その手が剣を握って、俺の隣で戦ってくれたから。あの瞬間だけは、俺は人形じゃなくて……隣に立つことを許された人になれる気がしてたから」


 その言葉に、グレンはようやく、彼がどれほど必死に『人であろう』としていたのかを知った。


 触れることはできない。

 ならば、せめて。


「ああ……。約束だ」


 グレンは腰の剣の柄を、あえてケセナに見えるように握り締めた。


「お前の横に立つ。誰の手も、お前に触れさせない」


 一拍、置いて。


「たとえ、俺自身の手であってもな」


 ケセナは安堵したように、細く息を吐いた。

 風が吹き、金色の髪が揺れる。

 一瞬だけ、ケセナとファルイーアと、オウセイの残滓が、同じ輪郭の中で静かに重なったように見えた。


「行こう。みんなが待ってる」


 ケセナが先に歩き出す。

 グレンは、その背中との『一歩分』の距離を決して詰めなかった。


 それが今の彼に許された、最大限の誠実さだった。


 ------


 見晴らし台から戻ったグレンは、ラルとプラークルウに重い口を開いた。

 ケセナにとって『手』が、温もりではなく、解体と激痛の象徴になってしまっていることを。

 手を伸ばして触れれば、ケセナは呼吸を乱し、正気を失うことを。


「そんな……」


 プラークルウは、その場へへなへなと座り込んだ。顔から一気に血の気が引いていく。


「触れられない……?」


 小さな身体が、目に見えて震えていた。


 ラルは、何も言わなかった。

 ただ一点を見つめたまま、硬く手を握り締めている。自分の不用意な接触も、同じように彼を傷つけていたかもしれない――そう思った瞬間、身体が強張った。


 その昼夜、彼女たちはケセナとの距離が分からず戸惑い続け、結局、一言も言葉を交わせなかった。


 ------


 一夜が過ぎ、森はまだ薄い霧の中にあった。湿った空気は冷たく、立ち並ぶ木々は影のように黒い。


 オウセイの亡骸は、家の裏手にある、陽だまりの小さな丘へ運ばれた。

 この地では、亡骸は土へ還すのが常だった。特別な儀式はない。ただ静かな場所を選び、土へ還すだけだ。

 グレンが黙々と土を掘っていた。湿った土を返す音だけが、昼巡りの始まりの静寂に規則正しく響く。

 ラルは少し離れた場所で、無言のまま周囲を見張っている。気配は鋭いはずなのに、この昼巡りはどこか散漫だった。

 プラークルウは、オウセイの身体を包んだ布の端を、何度も何度も丁寧に整えている。

 ケセナはその傍らに立ち、掘られていく穴を見つめていた。

 自分の内側にあるオウセイの記憶が、目の前の亡骸を『自分の一部』のように認識している。その感覚が、ひどく奇妙だった。


「こんなものか……」


 グレンの声が響く。

 掘られた穴の前に、四人が並んだ。グレンとラルが、そっとオウセイの身体を持ち上げる。

 ラルは一瞬だけ、手を添えることを躊躇した。

 だが、今、触れているのはケセナではない。


「どうした?」


 グレンに問われ、ラルは小さく首を振る。


「何でも、ない」


 二人は静かに亡骸を土の中へ降ろした。

 その瞬間、ケセナの胸の奥を、奇妙な感覚が掠めた。懐かしさでも、悲しみでもない。もっと名づけにくい何かだった。


「変な感じ……」


 グレンが顔を上げる。


「何がだ」

「自分を埋めてるみたいで」


 その言葉に、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


「あー……それは、確かに」


 プラークルウが微かに呟く。ケセナも小さく笑った。


「でしょ?」


 土をかける作業が始まる。

 土の重い音が、静かに積み重なっていく。


 何度目か、ケセナが鋤を動かし、隣で同じように土を運んでいたプラークルウの手が、ほんの僅かに交差する。

 その指先が、ケセナの手の甲を掠めた。


「……っ」


 和らいでいたケセナの身体が、小さく跳ねた。

 地下室の光景が一瞬だけ脳裏を掠め、柄を握る手が強張る。

 プラークルウは、雷光に打たれたように手を引いた。


「す、すみません!」


 真っ青な顔で、慌てて両手を後ろへ隠す。

 ラルもまた、その反応を見て身を強張らせた。胸の奥がざわつく。自分の何気ない接触も、同じ恐怖を呼び起こしていたのかもしれない。


「大丈夫……」


 ケセナは小さく息を吐き、震える指先をゆっくりと解いた。


「ごめん、プラウ。俺の方こそ」


 プラークルウも、ぎこちなく笑う。


「はい……。私も、ごめんなさい」


 それ以上は何も言わず、二人は再び土をかけ始めた。

 やがて穴は完全に埋まり、露に濡れた小さな土の盛り上がりだけが残る。

 グレンが剣を地面へ突き立て、静かに頭を垂れた。ラルも目を閉じる。プラークルウは両手を胸の前で組んだ。


 ケセナだけが、しばらくその墓を見つめていた。


「ありがとう……」


 過去の自分へ。

 自分を繋ぎ止めてくれた死者へ。

 その一言で、胸の奥にあった何かが、少しだけ静まった気がした。

 しばらくの沈黙のあと、グレンが顔を上げる。


「行くぞ……」


 短い言葉だった。

 誰も反対しない。


 ラルが誰よりも早く荷を背負い、先に歩き出す。プラークルウがケセナの横へ並ぶが、その距離は以前より、ほんの少し遠い。


 ケセナは最後にもう一度だけ、小さな墓を振り返った。

 風が吹く。

 森の葉が、さわさわと笑うように揺れた。

 まるで、誰かが笑ったような気がした。


 四人は、霧の晴れゆく森の道へと歩き出した。

 重なり合わない。けれど、確かに同じ方角へ向かう足音だけが、昼巡りの始まりの空気へ、静かに刻まれていった。

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