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第二十三話 ここにいてください

 夜巡りが明けきる前に目を覚ましたケセナは、グレンとラルが寝ているうちに着替えを済ませた。


 ガイアから借りてきたという紺色の上衣は、袖こそ指先まで隠れるが、やはり襟元が広く、首筋の古傷までは隠しきれない。

 考えた末、それまで着ていた、切り刻まれ、血の滲んだ紺色の外套を短剣で裂き、首元へ巻くことにした。少々不格好ではあるが、醜悪な傷が見えるよりは幾分ましだ。誰にも見られたくない。その切実な防衛本能が、彼にそうさせた。


 グレンとラルを起こさないよう洞窟から出ると、陽が昇ったばかりだというのに、すでに空気はぬるく重かった。


(暑いなぁ……)


 繁茂の季を迎えた南方地区の、じっとりとした風に当たりながら、ケセナはぼんやりと虚空を見つめていた。


(俺が……皇位後継者……)


 ふと、見せられた映像のような過去の中で、自分へ向けられた言葉が脳裏を過ぎる。

 いまだに信じられない。

 確かに自分は本来、皇帝直系の証である金髪と紅瞳を持ち、宝刀の主人にもなっている。状況だけを並べれば、そうなのだろう。

 だが、身体に残る傷と心が、どうしてもそれを拒んでいた。


(でも、俺のせいで苦しんでいる応龍族たちを見過ごせない)


 決意は固かった。

 自分が何者であろうと、言われのない罪で罰せられる応龍族の犠牲を、これ以上増やしてはいけない。


 だから。

 フィサルーアと評議会の前に自分を晒し、ねじ曲げられた真実を正そうと思ったのだ。

 

「絶対に、止めるんだ」


 呟いた決意が、ケセナの視線を鋭くさせた。

 空に浮かぶ雲を睨みつけていると、背後の洞窟からグレンとラルが揃って出てきた。

 着替えを済ませたケセナを見て、グレンが短く息を吐く。


「ケセナ、おはよう」

「おはよう、ラル。グレンさんも」

「ああ、おはよう」


 ラルがすすっとケセナの隣に座り、その様子がおかしくて、グレンは口元を緩めた。


「一夜前、何も食べないで寝ちゃったから、お腹空いてない?」

「うん。少し空いているかな」

「食料、尽きちゃってて。これしかない」


 ラルが差し出したのは、小さな林檎だった。

 林檎とラルを見比べながら、ケセナがそっと手を伸ばす。


「ありがとう。ラルたちは?」

「私と先生は、フェルナリアに行ったら食べる」

「……え?」


 齧りつこうとして動きを止めるケセナに、グレンは言った。


「そういうことだ。食べ終えたら、フェルナリアへ行くぞ」


 そうして、林檎を半分ほど食べ終えたケセナは、残りを包み、グレンとラルと共に崖を下り、フェルナリアの廃墟街へ戻った。


 ------


 生活区域の入口では、すでにガイアとキョウが待ち構えていた。


「わざわざ出迎えなくていいのに」


 グレンがラルを背後へ隠し、顔を顰めて唸る。

 すると、ガイアが柄にもなく、ひどく恭しい口調で口を開いた。


「何をおっしゃいますか。応龍騎士団の団長殿に頼み事をしておきながら、出迎えもせずとは、朱雀の恥でございます。それに、共に『現』皇帝陛下もいらっしゃるとあれば、当然の礼儀でしょう」

「『元』団長な。それに、俺はともかく、ケセナは……」


 グレンの制止を無視し、ガイアはその場に仰々しく跪いた。

 そしてケセナを真っ直ぐに見上げ、言葉を続ける。


「キョウから話はすべて聞きました、皇帝陛下。我ら朱雀は応龍の家臣。それは今も変わりません。たとえ評議会が応龍を戦犯と呼ぼうと、我らは応龍と共に歩むことを誓う一族でございます」


 背後で聞いていたケセナは、面食らって言葉を失った。

 完全に豹変したガイアの様子に、ただただ呆気に取られている。


「ガイア。お前、何か勘違いしていないか」


 グレンが額に手を当て、深く溜息をついた。

 どうやら、隣で得意げに胸を張っているキョウが、話を相当盛って伝えたらしい。


「勘違い、とは?」

「ケセナは……ファルイーアは、皇帝ではない」

「…………は?」


 ガイアが赤い瞳を凶悪に細め、跪いたままキョウをぎろりと睨み上げる。

 だがキョウは「何よ」と不満げに口を尖らせ、悪びれる様子もない。


「てめぇ……」


 ガイアの口から、いつもの乱暴な地声が飛び出した。

 勢いよく立ち上がり、キョウの目の前まで詰め寄る。


「誰が皇帝だ、あぁ!? ほんっと、てめぇはでっち上げが好きだな! 俺にこんな恥ずかしい真似をさせておいて、なんだその面は!」

「だって、ファルだもん! この子が言ったのよ! ファルイーアだったって!」


 キョウはグレンの背後にいるラルを指差して叫ぶ。

 唐突に会話へ引っ張り出されたラルが、迷惑そうに眉を寄せた。


「それに、ファルはいずれ皇帝になるのよ? 間違ってないじゃない!」

「開き直って言うなっ! リュウショウ皇帝陛下は地位を辞し、評議会へ全権を委ねられたって、何度も説明しただろうが!」

「何よ、さっきまで『皇帝陛下』なんて神妙に言ってたくせに!」

「てめぇが『ファルが記憶を思い出して、私こそが次期皇帝だって玉座に宣戦布告した』っつったからだろうが!!」


 盛ったどころの話ではなかった。もはや完全な英雄譚の捏造である。


 ケセナは反論する気力すら失い、この言い合いはもう止めてほしいと胸中で呟いた。

 グレンも同じ気持ちらしく、天を仰いで首を振っている。

 そして、この騒音にもう一人、不快感を露わにしている人物がいた。


「捏造、最低……」


 ラルの冷え切った声が響くと、ガイアとキョウが彼女を睨みつける。


「うるせぇ!!」

「うっさい!!」


 見事なまでに揃った怒声を浴びせられ、ラルが半眼を向けた。

 呆れきったケセナがグレンを見上げれば、師匠である彼は完全な放置を決め込んでいた。どうやら、嵐が過ぎ去るのを待つしかないらしい。


 だがケセナは、火に油を注ぐかもしれないと思いながらも、おずおずと口を挟んだ。


「あの、俺、その『ファルイーア』だという記憶がなくて……。なんて言えばいいのかな。とりあえず、これから記憶の封印を解きに行く、という感じなんですが」


 そんな曖昧な本人の説明を聞いた途端、キョウが雷のごとく目を輝かせた。


「聞いた!? ガイア! やっぱりファルでしょう!」

「おめぇは、人の話をひとつも聞いてねぇな!」

「聞いてたわよ! 封印を解きに行くんでしょ!」


 日頃の鬱憤をぶつけ合うような言い合いが再開された。

 こちらにも火の粉が飛びそうになり、ケセナはげんなりしながら眺めることにした。

 やがて、キョウが唐突に衝撃的なひと言を放った。


「――私も、一緒に行くから」


 その場にいた全員が、ぎょっとした。

 あまりにも唐突な宣言だった。


「ガイアはここの守りもあるし、行けるのは私だけ。私だって、あの内乱を前線で見ていたんだから、戦力になる。そうでしょ、先生?」

「確かに、そうなんだが……」


 話を振られたグレンは、曖昧に言葉を濁してガイアの顔を窺った。

 当然、ガイアの表情は怒りを通り越し、さらに凶悪な険しさを増している。


「馬鹿言ってんじゃねぇ! お前が抜けたら、ここに残ってる奴らの飯はどうすんだよ!」


 ガイアの、あまりにも現実的で切実な猛反対に、キョウはふふんと自信満々に鼻を鳴らした。


「安心して。あんたには黙ってたけど、料理の弟子が随分と腕を上げたわ。あの子なら、もう一人でも任せられるから」

「あぁ?」


 ガイアから、低く不愉快な声が漏れる。


「ルイラが料理に興味を持ってね」

「ルイラだと!? あいつが料理に興味!? 嘘だろ、絶対!!」


 ガイアが素っ頓狂な悲鳴を上げた。

 ルイラの名を知らないケセナたちは、揃って首を傾げる。


「ルイラって、誰?」


 ラルの真っ直ぐな問いに、ガイアは苦虫を噛み潰したような顔で答えた。


「俺の、十も離れた妹だよ。蝶よ花よと甘やかされて育ったせいで、自分の服すらまともに着られねぇ、親父似の糞生意気なガキだ」


 よほど手の掛かる妹らしい。

 このままでは、また別の言い争いが始まりそうになり、ケセナは慌てて本来の話題へ引き戻した。


「キョウさん。どうして、一緒に行くなんて?」


 するとキョウは、迷いのない真っ直ぐな瞳でケセナを見つめ返した。


「簡単なことよ。あなたがファルイーアだから。ファルなら、今の状況を良しとせず、黙って自ら動き、フィサルーア様や評議会を討とうとすると思ったから」


 ケセナは、胸の奥を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚を覚えた。


 ――ファルなら。


 その言葉はひどく温かく、そしてひどく残酷だった。

 期待。信頼。あるいは、信仰に近い何か。

 あまりにも真っ直ぐな思いに、息が詰まる。


「あの……どうして、そこまで……」

「だってあなたは、三から八星霜齢までの五星霜、私たちと一緒に過ごした、大事な弟だから」

「……弟?」


 にわかには信じられず、ケセナは首を傾げた。

 彼女が愛し、信じているのは、目の前にいる自分ではなく、彼女の記憶の中にいる過去の弟、ファルイーアだ。

 自分はファルイーアなのか。それとも、ただのケセナなのか。

 自分の中にある記憶の残滓が、静かにざわめき始める。


 だが、その思考の波は、グレンの鋭いひと言で断ち切られた。


「駄目だ」


 力強く拒絶し、グレンはキョウを射貫くように見据えた。


「キョウ、お前はここにいろ」

「先生!?」

「内乱を戦っただと? 自惚れるな。お前は、ただ戦場にいただけだ。戦った気になるな。それに、お前の戦場は今、ここだろう?」


 同行させれば有益なのは間違いない。

 だが、この先の旅はあまりにも危険すぎる。ケセナには、グレンの厳格な口調の奥に、愛弟子を案じる不器用な親心がはっきりと読み取れた。


「お前はただ、ファルイーアと一緒にいたいだけだろう。大人になれ、キョウ……」


 図星を突かれたのか、キョウもガイアも、それ以上は何も言えなかった。


 場に重苦しい空気が沈んでいく。


 会話の中心は自分のはずなのに、ケセナはどこか他人事のような疎外感を抱いていた。

 見せられた過去の記憶に、自分のものという実感が伴わないせいもあるだろう。会話へ割って入ることを、本能が躊躇させていた。


「ご本人は、どうなんだよ?」


 ふいにガイアから問いかけられ、ケセナは目を泳がせた。


「俺、は……」


 言葉が出てこない。じわりと額に嫌な汗が滲む。

 しばらくの沈黙。

 ケセナは右手をきつく握り締めた。

 胸の奥から湧き上がってきたのは、小さな、しかし確かな拒絶だった。

 分からない。自分が何者なのか、まだ答えは出ない。


 けれど。


「キョウさんは……ここにいてください」


 絞り出すように、ケセナはそう告げた。


「だ、そうだぜ……」


 ガイアが振り返り、キョウを見る。

 寂しそうな顔をして、キョウは一歩だけ後ずさった。

 そして、静かに頷く。

 グレンが安堵の溜息を漏らした、その刻だった。


「――じゃあ、最高のご馳走を作らなきゃ!」


 キョウはそれまでの暗い表情をぱっと払い、ことさらに明るい、無理に作ったような声で叫んだ。


 それが彼女なりの、精一杯の強がりなのだと。

 痛ましげに目を細めたガイアの横顔を見て、ケセナの胸にも鋭い痛みが走った。

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