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第二十四話 騒がしい夕餉

 ケセナは、魔術道具によって涼しい風が保たれた部屋で、一夜後の出発準備を整えていた。

 そんな彼のもとへ、控えめな足音が近づいてくる。


「ファル……あ、ごめん。ケセナ」


 半分開いた木扉の陰から顔を出し、気まずそうに目を伏せるキョウ。

 その姿を見て、ケセナは小さく笑った。


「どうしたんですか、キョウさん?」

「うん。ちょっと、話があって……」


 青銅色の髪を揺らし、キョウが部屋へ入ってくる。

 その腕には、いくつかの衣類が抱えられていた。


「これ。ガイアの服なんだけど、よかったら」

「ありがとうございます。助かります」


 手渡されたのは、漆黒の陣羽織と、使い込まれた紅色の小袖、そして手甲や脛当だった。

 ケセナはそれらを丸机へ丁寧に置く。


「ごめんね。皇帝なんて言っちゃって」

「驚きましたけど、俺、まだよく分かっていないので」


 苦笑するケセナに、キョウは少しだけ唇を噛んだ。

 謝りたいことも、伝えたいことも、山ほどあるのだろう。けれど、言葉を選ぼうとするほど、何から話せばいいのか分からなくなる。そんな顔だった。

 キョウは自嘲するように短く息を吐き、意を決したようにケセナを見つめた。


「私、あの子が大切なの」


 ケセナは黙って続きを待つ。

 キョウの瞳は彼を見ている。けれど、その奥に映っているのは、記憶の中の『あの子』――過去のファルイーアだった。


「頑固で、意地っ張りで、泣き虫なのに泣かなくて。なのに、笑うの……」


 どうしようもなく愛おしいものを語る声だった。

 だが、言われた側のケセナは少しだけ小首を傾げ、至極真顔で尋ねる。


「俺、そんなに面倒な子供だったんですか?」

「違うわよ!」


 キョウが弾かれたように声を張り上げ、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。

 けれど、すぐにまた表情は苦しげに歪む。


「これから言うこと、記憶を取り戻したら……『姉が言ってたな』って、思い出して」

「姉……? さっきも言ってましたけど、俺が弟って、どういう意味ですか?」

「私たち――私とガイアと先生は、あなたが三星霜齢から八星霜齢までの五星霜、一緒に暮らした『家族』よ」


 その言葉は、空っぽだったケセナの胸の奥に、不思議な熱を落とした。

 記憶はなくても、自分がそんな温かい場所にいたという事実だけが、確かな重みを持って残る。


「それなのに……ごめんね、ファル。守るよって言ったのに、守れなくて」


 キョウの瞳から、ついに涙がひとしずく零れ落ちた。


「あの、キョウさん……」

「言ったでしょ。記憶が戻ったら思い出せって! 黙って聞きなさい!」


 見かねたケセナが口を開いた途端、涙ながらに指を突きつけられ、有無を言わさず口を塞がれた。


「私もガイアも、先生も、いつもあなたを思ってる。一人じゃないよ」


 涙声のまま、それでもキョウは力強く告げた。

 それは、忘れてしまった弟へ向けた言葉であり、目の前にいるケセナへ渡せる、精一杯の餞別でもあった。


「ありがとうございます」

「何よ。記憶ないくせに」

「ちょっ! 感謝させてくださいよ! そういう雰囲気だったじゃないですか!」

「嫌よ。ファルになら言ってほしいけど、あなたに言われても実感ないわ」

「ひどっ!!」


 あまりにも理不尽な言い草にケセナが目を剥くと、キョウは涙を拭いながら、ふふっと吹き出した。

 つられて、ケセナの口からも力の抜けた笑いが零れる。


「あなたがこうやって笑えるなら、ファルは幸せなのかもね」


 そう言って、キョウはそっと手を伸ばし、ケセナの茶色い髪を優しく撫でた。

 指先に触れる髪の色は、記憶の中の金色ではない。それでも、そこにいる彼が笑っている。その事実だけで、キョウは少しだけ救われた気がした。


「さて、言いたいこと言ったし! 夕餉の支度をしてくるから、あとで食堂に来なさい!」

「俺も下へ行きます!」


 しんみりとした空気を振り払うように両手を叩いたキョウの背を追って、ケセナも部屋を出た。


 一階へ降りると、ちょうど中庭から戻ってきたらしいグレンとガイアに鉢合わせた。

 ガイアは「水くれ、水!」と叫びながら、そのまま厨房へ入っていく。

 グレンの手には二本の木剣が握られ、額にはうっすらと汗が滲んでいた。


 ケセナは少し躊躇いながら、自身の細い腕を見下ろす。

 記憶はない。けれど、応龍の皇位後継者などという重い立場らしい自分が、こんなにもひ弱でいいのだろうかという不安が胸に燻っていた。

 このまま旅に出て、本当に誰かを守れるのか。そんな問いが、ずっと喉の奥に引っかかっていた。


「あの、グレンさん……」

「どうした?」

「少しだけ、俺にも剣の稽古をつけてくれませんか? 旅に出る前に、せめてもう少し、剣の扱い方を……」


 その言葉に、グレンはわずかに目を見張ったあと、どこか哀しむような色を黒い瞳に浮かべた。


「五息だけだ……」


 中庭に出たケセナは、グレンから手渡された木剣を握った。

 だが、素振りをしたのはほんの数回。すぐさま腕の筋が悲鳴を上げ、足元がふらつき始める。息は上がり、あっという間に膝をついてしまった。


「はぁっ……はぁっ……」

「そこまでだな」


 グレンは即座に木剣を取り上げると、肩で息をするケセナの背中を、ぽんぽんと大きな手で軽く叩いた。


「焦る必要はない。お前は、無理をして強くなる必要などないんだ」


 優しい言葉のはずなのに、ケセナの胸は少しだけ痛んだ。

 強くならなくていいと言われるほど、自分がどうしようもなく弱いのだと、突きつけられた気がした。


「でも……俺、男なのに、こんなに情けなくて……」


 言ってから、ケセナは唇を噛む。

 男だから強くなければならないなど、誰に教えられたわけでもない。それでも、守られてばかりの自分が情けなかった。


「誰も情けないなどと思っていない。野盗相手に立ち回ったのを忘れたか?」

「あれは、ただ必死だっただけです」

「それでも、お前は戦い抜いた。よくやった、ケセナ」


 真っ直ぐに褒められて、ケセナは返す言葉を失った。

 嬉しいのか、恥ずかしいのか、分からない。ただ、胸の奥がじんと熱くなる。


「殺される直前だったのに、褒められても……」

「お前が笑って生きていれば、それでいいんだ」


 それは、ただの保護者の枠を超えた、重すぎるほどの祈りだった。

 兵器として戦場に立たされていた少年を、もう二度と同じ場所へ戻したくない。グレンの言葉の奥には、そんな悔恨が滲んでいるように思えた。


 その過保護ともいえる言葉に、ケセナは小さく笑う。


「ありがとうございます」


 そう告げて、ケセナは中庭をあとにした。


 ------


 魔術で心地よく冷やされた広々とした食堂へ足を踏み入れた途端。


「むご、むごーーむご!」


 すでに長机の端に陣取り、山盛りの肉を口いっぱいに頬張っているガイアが、ケセナに向かって何かを叫んだ。


「何言ってんのか、ぜんっぜん分かんないんだけど! 口の中のものがなくなってから喋れって、いつも言ってるでしょ!」


 厨房からキョウが間髪入れずに怒鳴りつける。

 すると奥の続き間から、燃えるような縦巻きの真紅の髪を揺らし、髪と同じ深紅の夜会着を纏った小柄な少女――ガイアの妹であるルイラが、優雅に歩み寄ってきた。


「キョウお姉様。兄は『美味い』と言っていますわ」


 扇子で口元を隠し、極めて冷静に通訳するお嬢様。

 その光景に、キョウは呆れ果てたように深く溜息をついた。


「分かるあなたも凄いわ……」


 相変わらず騒々しい朱雀の兄妹のやり取りに、ケセナの口から自然と笑みが零れる。

 自分は本当に、ここで彼らと暮らしていたのだろうか。そう思うと胸の奥が少し疼いたが、不思議と嫌な痛みではなかった。


「さあ、ケセナ! 遠慮しないで、好きなだけ食べて!」


 キョウは気を取り直して満面の笑みを浮かべ、ケセナの皿へ次々と料理を取り分け始めた。

 あっという間に、肉と南国特有の色彩豊かな魚が小さな山を築いていく。


「あ、ありがとうございます、キョウさん……」


 ケセナは引き攣った笑みを浮かべ、渡された皿を受け取った。

 だが、その手は微かに震えている。


(こんなに食べられないんですけど!?)


 旅に出てから気づいたのだ。

 なぜか、人より量が食べられない。少しでも無理に飲み込もうとすれば、激しい吐き気がせり上がってくる。


 せっかくキョウが作ってくれたご馳走を前に、申し訳なさで嫌な汗が滲む。

 食べたい気持ちはある。嬉しいとも思う。けれど、身体だけがどうしても受けつけてくれない。


 匙を握り締め、どうやってこの『山』を崩すべきか途方に暮れていた、その刻だった。


「――おーっほっほっほ! なんという野蛮な盛りつけですの!」


 食堂に、ルイラの場違いで甲高い高笑いが響き渡った。

 ルイラはつかつかとケセナの前へ歩み寄り、その赤い瞳で値踏みするように彼を眺める。


「ふん。あなたがファルイーア? お姉様がおっしゃっていた皇帝? なんだか、随分とひ弱な枯れ枝みたいですわね」

「え……あ、いや……皇帝じゃないし……枯れ枝……」


 ケセナが困ったように視線を落とすと、ルイラは皿の肉の山を見て、大袈裟に眉を顰めた。


「このお皿はなんですの! こんな脂っこいお肉ばかり……。真の貴族は、もっと優雅に、選び抜かれたものを少しずつ楽しまれるものですわ!」


 言うが早いか、ルイラはケセナの皿から、一番大きな肉の塊を素早く手に取った。


「ルイラ! それはファルの分よ!」

「わたくしが毒見をしてさしあげますの! はむっ……。んー、味は悪くありませんわね!」


 夜会着を揺らしながら美味しそうに肉を頬張る妹を見つつ、ガイアは、ケセナが「助かった」と言わんばかりに微かに安堵の息を漏らしたのを見逃さなかった。


「おい、キョウ! ルイラの言うとおりだ! てめぇ、俺たちを差し置いて、こいつの皿にばっか盛りやがって!」


 ガイアは大股でケセナの隣へ歩み寄り、残っていた魚の塩焼きを乱暴に自分の皿へ奪い取った。


「ちょっと、ガイア!? あんたまでファルの分を……! ねえ、先生! 先生からも何か言ってよ!」


 涙目で抗議するキョウが振り返った先。

 壁際で静かに杯を傾けていたグレンは、ガイアの意図を察し、呆れたように肩を揺らして笑った。


「放っておけ。ガイアの言うとおりだ。自分の飯くらい、自分で死守しろ」

「あたし、その甘味もらう」

「えっ、あ、それは……」


 しれっと会話に混ざったラルが、ケセナの皿から果実の甘味をかっさらっていく。


(その甘味は食べたかったなぁ)


 口に出して言えるはずもなく、ケセナはあっという間に量の減った皿を眺める。

 戸惑いより先に、胸の奥が少しだけ軽くなった。


「ケセナ、ちっと減りすぎたか?」

「え?」


 隣にどっかりと座ったガイアが、奪った肉を美味そうに噛み千切りながら、ケセナを軽く小突く。


「この間もお前、食えてなかっただろ。食えねぇなら、無理すんな。お前が『そういう質』なのは知ってるさ。残った分は、俺たちが全部食い尽くしてやる」


 そのぶっきらぼうで優しい声色に、ケセナは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

 理由は分からない。なぜ自分がこんなに食べられないのかも、ガイアがこうして助けてくれるのかも。

 けれど、キョウが言っていた『家族』という言葉がすんなりと腑に落ちて、たまらなく心地よかった。


「ありがとうございます……」


 ケセナは汁物をひと口すする。

 香草の香りと、じんわりとした塩気。弱りきった身体に染み渡るような、優しい味がした。


「美味しい……」

「当然ですわ! わたくしの舌に狂いはありませんもの! おーっほっほっほ!」

「うるせぇ! 少し黙れ、ルイラ!」


 得意げに高笑いするルイラと、それに文句を言うガイア。怒るキョウと、黙々と甘味を食べるラル。

 騒々しくて、慌ただしくて。

 壁際からその様子を見守っていたグレンの目元も、どこまでも優しく和らいでいた。


 そんな賑やかな夕餉を過ごしたケセナは、一夜後、記憶の封印を解くために帰ろうとしている。

 あの、蒼髪の救世主が待つ森の家へ――。

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