第百十三話 褒めて、グレン
「ファル……?」
異様な光景に足を縫い止められたまま、グレンは扉の傍らで立ち尽くしていた。
その横を、まだ事態を呑み込めていないガイアが、怪訝そうな顔で通り過ぎていく。
「こんなところで寝てんなよ。……おい、ファル。風邪引くぞ」
呆れたように言いながら、ガイアが大きな椅子へ沈み込んだ青年の肩へ手を伸ばした、その直後だった。
――ずるり。
触れた肩から、拍子抜けするほどあっさりと力が抜けた。
椅子から滑り落ちそうになった身体を、ガイアは反射的に抱き止める。
あまりにも軽かった。
「…………えっ?」
ガイアの顔から、たちまち血の気が引く。
腕の中へ収まった身体は、異様なほど冷たい。
それでも、まだ僅かな温もりが残っていた。
ガイアは縋るように、その細い背へ深く腕を回す。
「……ファルイーア?」
震える声で呼ぶ。
「……ああ……ガイア……」
ファルイーアがうっすらと紅い瞳を開け、小さく掠れた声を出した。
けれど、その瞳の焦点はまったく合っていない。
「眠たいんだ」
「じゃあ、こんなところで寝るな」
「うん、そうなんだけど……」
背後では、グレンが血の滲むほど唇を噛み締めたまま、一歩も動けずにいた。
「起きろ。帰るぞ」
「……ごめん。無理」
「何言ってんだ。怪我でもしたか?」
「……どうして、来ちゃうかな」
「あ?」
「見せたくなかったのに」
意味の分からない言葉に、ガイアは顔を顰める。
「馬鹿なこと言ってないで帰るぞ。ほら、先生の背に乗れ」
「……グレン? いるの……?」
虚空を見つめていた紅い瞳が、ゆっくりと彷徨う。
グレンは答えられなかった。
言葉が見つからず、ただその姿を見つめることしかできない。
「グレン、ごめんなさい。でも、僕……」
言葉が途切れる。
ファルイーアは苦しそうに、浅い呼吸を繰り返していた。
その姿に耐えきれず、グレンはようやく駆け寄った。
ガイアから受け取るようにして、冷え切った身体を強く抱き寄せる。
「……ああ。やっぱり、ここが一番安心する」
ファルイーアはグレンの胸へ頬を寄せ、ほんの僅かに口元を緩めた。
「ファルイーア、お前……っ」
「ねぇ、グレン。僕、ちゃんとできた?」
「……何を言っている。帰るぞ。帰って休め」
「グレンの言うことを聞いて、僕、たくさん頑張ったよ」
「もういい。ファルイーア。もう頑張るな」
「ねぇ、グレン。褒めて」
掠れた声が、あまりにも幼かった。
意識が、遠い過去へ戻っているのだろうか。
紅い瞳はグレンを見ているようで、その向こうにいる誰かを見つめている。
「僕、ずっと褒めてほしかった。……嫌われてるって、分かってても……いつか、って思ってた……」
そこで一度、言葉が途切れた。
喉が小さく鳴り、呼吸がさらに浅くなる。
「……ねぇ、グレン……褒めて。……ああ、でも僕、本当は、もっと――」
ふっ、と。
ファルイーアの身体から、すべての力が抜けた。
グレンの胸の中で、ただ深く眠るように瞳を閉じる。
「ファル?」
掠れた声が、冷え切った床へ落ちた。
返事はない。
「ファルイーア……?」
グレンは震える指を、ファルイーアの首筋へ押し当てた。
弱い脈が一度、指先へ触れた。
もう一度。
そして。
何も、感じなくなった。
もう片方の手を鼻先へかざす。
けれど、あれほど苦しそうに繰り返していた呼吸は、完全に途絶えていた。
「……っ、あ……」
喉から、言葉にならない声が漏れる。
「……ああ、お前は頑張った。誰よりも頑張った。褒めるから……これから、たくさん褒めるから……!」
嗚咽とともに、グレンはその場へ崩れ落ちた。
冷たくなっていく細い身体を、二度と離すまいとするようにきつく掻き抱く。
「目を開けてくれ、ファルイーア……! 頼む……まだ、何も返していないんだ。お前に何も……!」
迷子の子供のように、泣き叫ぶ。
「ファルイーア……っ!」
血を吐くような慟哭を聞きながら、ガイアは赤い瞳をきつく瞑った。
唇を震わせ、掌に爪が食い込むほど拳を握り締めることしかできない。
どれほど絶望的な戦場でも、決して立ち止まらなかった男たち。
最強と謳われた二人が、この小さな家では、目の前の事実を受け止めきれず、ただ石のように固まっていた。
――そうして。
新たな昼巡りの陽がすっかり昇った頃。
グレンは震える足で立ち上がり、すでに冷たくなったファルイーアの身体を、壊れ物でも扱うように抱き上げた。
「……っ」
軽い。
戴冠式へ向かう道で背負った折よりも、さらに軽くなっていた。
まるで中身だけが、どこかへ抜け落ちてしまったかのようだった。
七夜前、五人で食卓を囲んだ折。
ファルイーアは、用意された小さな椀の中身さえ、ほとんど食べることができなかった。
『……これ以上は無理、かな』
困ったように笑い、匙を置いた。
戴冠式の晩餐も、人酔いして食べられそうにないからと断っていた。
昔から、彼は少ししか食べられなかった。
無理をすれば、すぐに吐き戻してしまう。
ベラリティル家の地下で、実験体として切り刻まれていた幼いファルイーアは、あの凄惨な場所で胃を奪われていた。
その事実を知った刻、グレンは本気で気が狂いそうになった。
だが、もっと狂っていたのは自分だ。
皇宮へ送られたあとのファルイーアへ、グレンは無理やり食事を押し込んだ。
兵器として生き延びるには体力が要ると、そう信じていたからだ。
吐き戻そうとする口元を押さえ、『飲み込め』と命じた。
幼いファルイーアは涙を溜め、必死に何かを訴えていた。
あれは反抗でも、甘えでもなかった。
胃のない身体へ無理やり食べ物を流し込まれる、命の悲鳴だったのだ。
「……俺はまだ、お前に何も謝れていないんだぞ……」
ぽつりと零れた声は、痛ましいほど掠れていた。
背後で立ち尽くすガイアも、言葉を失っている。
一発ぶん殴ってやる。
そう息巻いていたはずの拳が力なく震え、やがてゆっくりと解けていった。
あれほど生きたがっていた弟が、最後まで何も言わずに笑っていた。
その事実が、たまらなく腹立たしかった。
一度だけ、ガイアはキョウと共に皇宮の奥深くへ忍び込み、ファルイーアに会ったことがある。
裏庭の物置小屋の下に続く冷たい階段。
その先にある檻の中で、細い四肢は鎖に繋がれていた。
輝いていた金髪は薄汚れ、衣服はただ身体へ羽織っているだけだった。
所々から、彼が必死に隠したがっていた古傷が覗いている。
紅い瞳はすでに暗く、以前の無邪気な明るさを完全に失っていた。
ファルイーアは、静かに言った。
『僕の否定は、無意味だから』
あの言葉が、今なおガイアの脳裏へ突き刺さっている。
フェルナリアで『ケセナ・レフィード』として現れた彼を、キョウは最初からファルイーアだと断言していた。
金髪は茶髪になり、紅い瞳も茶色へ変わり、明るい笑顔を浮かべていた。
どう見ても、別人だったというのに。
けれど、内乱の件を試すように言葉を投げかけた刻に返ってきた答えは、やはりあの子のものだった。
だから、ガイアは気づいたのだ。
『ケセナ・レフィード』が、『ファルイーア・ク・フェスカ』なのだと。
どうして記憶を消したのかは知らない。
ただ、兵器として生き、ようやく平穏を手に入れられるはずだった矢先に、世界が再び彼を表へ引きずり出したことが許せなかった。
正統な皇位後継者だと告げ、今度は皇帝になれと言い始める。
誰よりも平和を望み、血反吐を吐いて守った世界が、またファルイーアから何かを奪おうとしているようで、腹が立って仕方なかった。
だからこそ、代表議会でファルイーアが自らフィサルーアへ皇位を委ねた折、ガイアは心の底から嬉しかった。
暗い皇宮の奥で、『否定は無意味だから』と闇に沈んでいたあの子が、自分の意志で皇位を拒んだ。
自分の願いを、素直に口にした。
これでついに、ファルイーアがずっと願っていた『生きたい』が叶う。
それだけで、よかったのに。
ファルイーアは、自分の肉体が崩壊していくことも。
もう長くは生きられないと悟っていたことも。
全部、あの『平気』という笑顔の裏へ隠していた。
(馬鹿野郎……っ。言えよ、頑固者……っ)
胸中でごちる。
泣いて、笑って、すぐ寝落ちする。
口喧嘩をすれば、妙なところで頑固になって、一歩も引かない。
そんな手のかかる弟が大事で、ただ守りたかった。
深い沈黙の中、やっと動き出せたガイアが、そっとグレンの背を叩く。
「……帰ろうぜ、先生」
声は重く掠れていた。
「ラルも、キョウも。ファルの帰りを、家で待ってる」
その言葉に促されるように、二人は重すぎる現実を抱え、昼巡りの光に照らされる森をあとにした。
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オーレルディアの家へ帰宅したグレンとガイアは、寝室の前で無言のまま立ち尽くしていた。
変わり果てたファルイーアの姿を見ても、ラルは泣き喚かなかった。
グレンを責めることも、ファルイーアが一人で消えた理由を問い詰めることもしなかった。
崩れ落ちそうになる感情を自分の内側へ限界まで押し込み、静かに言った。
「……ファルイーアを、寝かせてあげて」
それだけだった。
グレンはファルイーアを、いつも使っていた寝台へ横たえた。
それからのラルは、寝台の脇から一歩も離れなかった。
すっかり冷たくなった傷だらけの手を両手で包み込み、祈るように握り続ける。
「……ケセナ。昼巡りの始まりだよ。起きて……」
まるで、ただ眠っているだけだと信じ込もうとするように。
掠れた声で、失った名と一緒に、繰り返し、繰り返し呼びかけていた。
静かに寝室の扉を閉めたあと、キョウがグレンの胸へ飛び込んだ。
その赤い瞳から、大粒の涙が堰を切ったように零れ落ちる。
「……どういうことなの……っ! なんで、どうしてこんなことに……! あの子、七夜前は普通に笑ってた……! ガイアと馬鹿みたいな言い合いをして、ラルに怒られて、私がからかったら、あからさまに嫌そうな顔して……それなのに、どうして……っ!」
嗚咽で言葉が崩れる。
「先生はずっと一緒に暮らしてたんでしょう!? 衰弱してることだって分かってたんでしょう!? なのに、どうして……どうして、あの子が自分の終わりを悟ってたことに、気づいてあげられなかったの……っ!」
「…………すまない」
グレンは深く頭を垂れた。
拳は、己の無力さを呪うように、血が滲むほど強く握られている。
異変には気づいていた。
食べられなくなっていることも。
身体が急速に弱っていることも。
笑顔の裏で、痛みを隠していることも。
それでも、一夜後もまた同じように暖炉の前で本を開き、困ったように笑ってくれるのだと思っていた。
見抜けなかったのは、ファルイーアが自らの終わりを悟り、誰にも最後を見せないまま、独りで消える覚悟を決めていたことだった。
兵器として生き抜くために身につけた『平気なふり』が、最後の最後で、彼を愛する家族にまで、その覚悟を隠し通してしまった。
心配をかけたくない。
悲しませたくない。
その優しすぎる嘘だけが、残された者たちの胸へ深く突き刺さっていた。
溢れ出る涙を拭おうともせず、キョウはグレンの胸を叩き続ける。
それは彼への非難ではない。
どこへぶつければいいのか分からない、行き場のない絶望の形だった。
思い出すのは、小さな手と、大きな紅い瞳が、自分を見上げて笑う姿。
キョウが愛した『ファルイーア』の姿だ。
口を尖らせてむくれ、ぽてぽてと歩き、振り返ればすぐ笑う。
彼は、そういう弟だった。
それなのに、もう笑わない。
「返して……私の弟を。ファルを!」
「……キョウ」
グレンの胸の中は、ファルイーアが最も安心できる場所だった。
だからこそ、キョウはもう、その胸を叩けなかった。
力を失った拳が、グレンの外套をきつく掴む。
グレンは、泣き崩れるキョウを静かに抱き締めた。
キョウの手が、グレンの大きな背へ回る。
ファルイーアが好きだった、広い背中。
この胸と背中は、あの過酷な世界の中で、彼を幾度も守ってきた。
もう、グレンを責めることなどできなかった。
「先生……あの子は最期に、何て言ったの?」
「……俺に、褒めてほしかったと。もっと何かを言おうとして……そのまま、ファルは……」
そこで、グレンの声も崩れた。
キョウは、ファルイーアが好きだったグレンの胸へ顔を埋め、声の限りに泣き続けた。
その後ろで二人を見ていたガイアが、静かに歩み寄る。
何も言わず、震える二人ごと、強く抱き締めた。




