第百十二話 開いていた扉
新皇帝の即位を祝う昼夜に課された務めをどうにか終え、グレンは収奪の季の冷たい風に当たりながら、一人帰路についていた。
向かう先は、第三城門区画にある小さな家。
そこには、晩餐へ出席せず先に戻ったはずのファルイーアと、民への謁見の途中で帰宅したラルが待っている。
戴冠式へ向かう道すがら、ファルイーアはグレンの背へ乗り、『ここは僕の特等席』と笑っていた。
だが、その身体は恐ろしいほど軽かった。
歩調を落としても追いつけず、皇宮へ着く頃には、立っていることさえ難しくなっていた。
玉座の間でも、青白い顔で苦しそうな呼吸を繰り返していた。
それでもファルイーアは笑っていた。
いつものように、何でもないふりをして。
(……帰ったら、話をしなければならんな)
これ以上は放っておけない。
本人がどれほど大丈夫だと言い張ろうと、身体を休ませるだけでは、もうどうにもならないところまで来ている。
近頃のファルイーアが衰弱していることには、気づいていた。
食事はほとんど喉を通らず、少し歩くだけで息を切らす。
日当たりのいい場所や暖炉の前から動かず、読んでいた本を何度も床へ落とした。
七夜前、久しぶりに会ったガイアとキョウも、彼の異変をすぐに見抜いていた。
だからグレンは、戴冠式が終わったあともキョウに皇都へ残ってほしいと頼んだのだ。
ファルイーアを、一人にしておくことが恐ろしかったから。
けれど。
グレンはまだ、彼が自らの終わりを悟っていることまでは知らなかった。
ファルイーアをベラリティル家の地下室から救い出し、育て、そして兵器へと変えた。
戦場から戻るたび、彼を檻へ戻した。
食べられないものを食べろと命じ、吐き戻したものさえ飲み込ませた。
グレンはリュウショウの勅命を言い訳にして、己の役目を遂行した。
小さな身体が痩せ細り、深い夜巡りに自我を取り戻して泣いていることを知りながら、見ないふりをした。
それでも、幼い頃に彼が見せていた無垢な笑顔は、常に胸の奥へ残っていた。
『僕、みんなをまもりたい!』
七星霜齢の彼が告げた、ささやかな願い。
ファルイーアが『ケセナ・レフィード』として現れた折、グレンは、幼い頃のあの少年が戻ってきたのだと思った。
彼がリュウショウを殺していなかったことを知った。
それどころか、親友のたった一人の息子であり、本来なら皇位を継ぐはずだった存在だと知った。
今度こそ、この子を守ろうと誓った。
一星霜前、ファルイーアはラルと共に世界の結界を再構築した。
その代償として、オウセイの魂は彼の内から離れ、その記憶と、ケセナとして過ごした幸福の輪郭までが大きく失われた。
接触への恐怖が再発し、グレンの言葉を『命令』として受け取り、空ろな紅い瞳で従おうとする姿を目の当たりにした。
やがて彼は、再び笑うようになった。
『僕、少し長めの休養をもらってもいい?』
そう言って、暖炉の前で本を開き、静かに過ごし始めた。
グレンの家へ移り住んで十五夜ほどが過ぎた頃には、ラルと身内だけで婚姻を結んだ。
二人の間には、新しい命まで宿った。
ようやく、ファルイーアが願っていた平穏を手に入れたのだと思っていた。
あの笑顔を疑いながらも。
信じたいと、願っていた。
(……あいつは、家で待っている)
帰ったら、もう一度きちんと問い詰める。
誤魔化されても、今度こそ逃がさない。
胸の奥に残る不安を押し込み、グレンは家の木扉を静かに押し開けた。
「…………?」
一歩、足を踏み入れた途端だった。
肌が粟立つような違和感が、全身を走る。
暗い。
そして、静かすぎる。
しかし、家の中には温かな香りが充満していた。
台所には、火を消された鍋が置かれている。
外では、戴冠を祝う喧騒がいまだ遠く響いていた。
それなのに、この家の中だけが、世界から切り離されたように静まり返っている。
「ファル? ラル? ……帰ってるんだろう?」
呼びかけても、返事はない。
気配すらなかった。
胸の奥で、嫌な鼓動が強く跳ねる。
グレンは急ぎ足で奥へ進み、二人の寝室の扉を乱暴に開け放った。
「ファル……っ!?」
誰もいない。
綺麗に整えられたままの寝台だけが、冷たくそこにあった。
血の気が一気に引く。
理由は分からない。
本能が、最悪だと告げていた。
グレンが踵を返し、家を飛び出した、その刻。
夜巡りの静けさを破り、慌ただしい蹄の音が近づいてきた。
一騎の兵が家の前で馬を止め、転がるように降りる。
「グレン騎士団長!」
肩で息をする兵へ、グレンは鋭く向き直った。
「何だ」
「第一城門から、急ぎの伝言です。ファルイーア様が、お一人で城門の外へ出られたと」
「何……?」
「あとから来られたラル様が、行方を捜して外へ向かわれました。騎士団長へ知らせてほしいと――」
「いつの話だ!」
「伝言を受けたのは、夜巡りへ入る少し前です。皇宮へ向かったのですが、騎士団長はすでにお戻りになったあとで……!」
遅かった。
ファルイーアは、もう何刻も前に城門を出ている。
身重のラルまで、そのあとを追っている。
「なぜ止めなかった!」
「も、申し訳ありません! ですが、ファルイーア様はすでに皇籍を離れておられます。それに、少し散歩するだけだと……」
「……っ」
散歩。
今のファルイーアが、戴冠式の昼夜に一人で街の外へ出る。
そんなものが、ただの散歩であるはずがない。
グレンはそれ以上兵を責めることもできず、納屋へ駆け込んだ。
愛馬を引き出し、その背へ飛び乗る。
向かう先は、ガイアとキョウが滞在している貴族街の朱雀邸だった。
夜巡りの静けさを蹄の音で切り裂き、朱雀邸へ辿り着くなり、来客の礼儀など放り捨てて扉を押し開ける。
「ガイアっ!! どこだ!!」
屋敷中へ響き渡る怒声に、着替えの途中だったのか、上衣の釦を半分開けたままガイアが顔を出した。
「……ん? 先生? どうしたってんだ、その顔」
騒ぎを聞きつけ、キョウも怪訝な顔で別室から現れる。
グレンは息を乱したまま告げた。
「ファルイーアが一人で第一城門の外へ出た。ラルもあとを追ったらしい。……二人とも、まだ戻っていない」
「…………は?」
「ファルっ!!」
意味を理解した瞬間、キョウは悲鳴のような声を上げ、勢いよく夜の街へ飛び出した。
「あ、おい! 待てキョウっ!! 当てはあんのかよ!?」
「ないわよっ!! あの子が一人で外に出たなんて、迷子になるに決まってるじゃない!」
「あーーーー、だろうなぁ、おいっ!!」
完全に取り乱したキョウの背を追い、ガイアも上衣の釦を留める暇さえ惜しんで駆け出す。
三人は朱雀邸の厩へ飛び込み、それぞれの馬へ跨った。
第一城門へ向かうには、幾つもの区画を抜けなければならない。
大通り。
祝祭の灯りが届かない路地。
静まり返った広場。
三人は道行く者へ二人の姿を尋ねながら、外側の区画へ急いだ。
第二城門へ差しかかった、その刻。
「――いたっ!! ラルだ!!」
夜巡りの闇を裂くように、ガイアが叫んだ。
第二城門の先から、とぼとぼと歩いて戻ってくる小さな影を、猛禽の赤い瞳が捉える。
それは確かにラルだった。
だが、その隣に探している青年の姿はない。
「ラルっ!!」
三人が馬を止め、駆け寄る。
ラルは彼らの顔を見るなり、その場へ泣き崩れた。
「ケセナがいないの……っ! 第一城門を出たって聞いて、ジェグヌの洞窟まで探したのに……どこにも……っ!」
しゃくり上げるラルを、キョウが無言で抱き締める。
「ジェグヌの洞窟って、あそこか? なんでまた、あいつがそんなところに……」
ガイアの問いに、ラルは震える声で答えた。
「あそこは、ケセナとして皆と身を潜めていた場所だから……もしかしたら、戻ったんじゃないかって……」
「門兵は、あいつが『散歩』に出たって言ったのか?」
「うん……一人で、少し散歩するだけだって……」
「にしたって、戴冠式で、しかも誕生した昼夜に、あの引きこもりが、わざわざ一人で散歩なんてするかよ……」
頭を掻きながら吐き捨てたガイアの言葉に、グレンの顔色が変わった。
「……ガイア。お前、何と言った?」
「へ? 散歩なんてすんな、って……」
「その前だ」
「……引きこもり?」
「…………」
直後、グレンの中で何かが繋がった。
もちろん、確証などない。
この世界で最大の引きこもりで、陰気な隠居で、深い森の奥へ閉じ籠っていた男を、グレンは一人しか知らない。
「……まさか。オウセイの森、か……!?」
グレンは即座に愛馬へ跨った。
「ラル。お前はキョウと一緒に家へ戻れ」
「嫌っ! 先生、あたしも行く!」
「駄目だ」
「嫌だ!! お願い、先生……! あたしだって、今すぐケセナに会いたいのっ!」
馬へ縋りつくラルを見下ろし、グレンは険しい顔のまま首を振る。
「お前はジェグヌまで行って戻ってきたばかりだ。これ以上は身体が持たん」
「でも……!」
「もし、お前の身に何かあったら、俺はファルイーアに顔向けできない」
「……っ」
「いいか。お前の身体は、もうお前一人のものじゃない」
ラルの手が、無意識に自分の腹へ触れた。
「キョウ、ラルを頼んだぞ」
「……分かったわ」
キョウは悔しそうに唇を噛み、それでもラルの身体を強く抱き締めた。
「行くぞ、ガイアっ!」
「おう!」
グレンとガイアが、それぞれの馬へ飛び乗る。
ラルはキョウに支えられたまま、遠ざかる二人の背中を泣きながら見送るしかなかった。
「お願い……見つけて、先生……」
掠れた願いを背に受け、二頭の馬は夜巡りの街道を一直線に駆けていく。
オウセイがひっそりと暮らしていた、深い森の奥。
あの家は、グレンにとっても特別な場所だった。
若い頃、親友リュウショウに連れられ、初めてオウセイという男に出会った場所。
多くの運命が始まり、そして終わった場所。
その場所に今度は、自分の子供のように愛した青年が、独りで死を迎えに向かっているかもしれない。
(頼む、ファル……っ! そこにいてくれ……!)
ファルイーアが最後の場所に選ぶとすれば、あの家しか思い浮かばなかった。
手綱を握り締めながら、グレンの脳裏へ、ファルイーアの笑顔が蘇る。
『……これで、やっと。人として生きられるんだね』
そう言って、心の底から嬉しそうに笑っていた。
あんなにも生きたいと願っていた青年が、なぜ、この昼夜に姿を消したのか。
寂しげな作り笑い。
減った外出。
暖炉の前から動かず、ひたすら本を開く昼夜。
ラルの腹に命が宿ったと知った折も、誰より喜びながら、その直後には力を失ったように椅子へ座り込んでいた。
問い詰めれば、いつも同じように笑った。
『色々ありすぎたから、ちょっと長めの休養だよ』
――違う。
休養ではなかった。
自分には、生まれてくる子を抱き上げる昼夜まで辿り着けない。
それを知った上で吐いていた、優しすぎる嘘だったのだ。
背後を走るガイアも、ファルイーアの衰弱には気づいていた。
七夜前、ほとんど食べられず、少し歩くだけで身体を揺らす姿を、その目で見ている。
それでも、死へ向かう崩壊だとは思っていなかった。
ファルイーアは、いつものように笑っていたから。
グレンもラルも傍にいるのだから、きっと大丈夫なのだと信じていた。
「……ったく。見つけたら絶対に一発ぶん殴ってやる。ラルを泣かせやがって」
隣を走るガイアが、夜風へ吐き捨てる。
ガイアはまだ、ファルイーアの終わりを受け入れていない。
ただ純粋に、「勝手にいなくなった弟」を心配し、いつものように毒づいている。
その残酷なすれ違いが、グレンの胸をさらに抉った。
「……ガイア」
「あ?」
「見つけたら、殴れ」
「おう。先生が止めたって殴るからな」
「ただし、一発だけだ」
「……分かってるよ」
ガイアの声が、僅かに掠れた。
ようやく森の入口が見える。
グレンは祈るように手綱を叩いた。
二頭の馬はその焦燥を悟ったように速度を上げ、鬱蒼とした木々の間へ飛び込んでいく。
東の空が、わずかに白み始めていた。
二人の焦りなど知らぬ顔で、新たな昼巡りの始まりが迫ってくる。
木々の切れ間から、小さな家が見えた。
深い森の奥で、主を失ったまま佇む。
胸の奥へ、郷愁と憎らしさが一度に込み上げる。
自分の運命を狂わせ、多くを残して去ったオウセイの気配が、まだこの場所には残っていた。
だが、グレンの感傷は凍りついた。
(……開いている)
玄関の木扉が、わずかに開いていた。
あり得ない。
ここを出たあの刻、グレンは自分の手で確かに閉めたはずだった。
それが、開いている。
その意味を悟り、グレンは馬を飛び降りた。
「ファル!!」
軋む扉へ手をかけ、一気に引き開ける。
「……っ!!」
暗い室内。
埃の匂い。
その先で、追いついたガイアと共に、グレンは息を呑んだ。
――そこにいた。
オウセイが好んで座っていた大きな椅子へ、深く身を沈めるようにして。
青白い顔のまま、ファルイーアが静かに目を閉じて座っていた。




