第百十一話 置いていかないで
ラルは皇宮を後にし、民が露台を見上げる広場の端に立っていた。
民への謁見の開始を告げる楽器が高らかに鳴り響くと、押し寄せる波のように、人々が新たな皇帝を讃え始める。
「新皇帝フィサルーア陛下、万歳!」
「フィサルーア様ー!」
鼓膜が破れんばかりの祝福と熱狂を、ラルは少し離れた街路樹の陰から静かに眺めていた。
人々は平和の到来を喜び、新たな世界の象徴へ向かって手を振っている。
しかし、彼女の耳に届くのは、そんな華やかな声ばかりではなかった。
群衆の中心から離れた木陰には、歓喜の輪からあえて距離を置く者たちもいる。
熱狂の裏に隠された本音が、ふとした拍子にこぼれ落ちていた。
「あんな狂王が皇帝だなんて……世も末だな」
「どうして英雄様じゃないんだ」
「英雄様は露台にいらっしゃらないのか?」
フィサルーアが道観で懺悔を続け、その姿を民の前へ晒してきたことは、すでに広く知られている。
それでも、流された血の記憶まで消えたわけではなかった。
彼の罪を知ってなお、許すことのできない者たちは、身を寄せ合って忌々しげに囁き合う。
「でも、あの『人形』が玉座に座るよりはマシだろ」
「そもそも、どうしてまた応龍の連中が皇帝の座に就く必要があるんだ?」
「違いない。応龍は化け物しかいないじゃないか」
中には、あの内乱で兵器として投入されていた『ファルイーア』の存在を知る者すらいた。
「逆らったら、またあの人形が使われて殺されるぞ」
「怖い怖い。あの人形の機嫌を損ねたら、街ごと消し飛ぶ」
触れる者すべてを無慈悲に殺戮する、感情のない兵器。
己の命と魂を削りきってまで彼らの次の昼夜を繋いだというのに、ファルイーアへの謂れのない陰口が、躊躇いなくラルの耳へ届く。
祝福の裏側で吐き出される冷酷な声を聞き、ラルは深く眉を顰めた。
(何も知らないくせに……)
彼がどれほどの痛みを背負って立ち、何を思って皇位を手放したのか。
想像すらしない者たちの無責任な言葉が、ラルの胸を鋭く抉る。
フィサルーアの統治は、きっと楽なものにはならない。
それでも、以前とは違う。
今のオーレルディアには代表議会がある。
皇帝が一人で何もかも決める時代は、もう終わったのだ。
『世界の象徴……世界の結界を担った一族のいるところだ』
以前、グレンがそう言っていたのを思い出す。
結界を再構築し、真の意味で世界を守ったのはファルイーアだ。
そして、それを最後まで手伝ったのは、他でもない自分自身。
あの生きるのが下手で、優しすぎる青年が、身を削って守り抜いた世界。
ラルは群衆の熱気と陰口へ背を向け、二人の帰る家へ向かって歩き出した。
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ファルイーアは、今も皇宮の中にいる。
露台には姿を見せなかった彼が、これから出席する席をラルは思い浮かべる。
民への謁見の後は、玉座の間で各地区の族長や代表議会の議員たちが、新皇帝へ代わる代わる挨拶を行う。
さらにその後は、参列した各地区の要人たちを招いた盛大な晩餐会が待っていた。
要人だけが集う厳かな空間で、疲れやすくなったファルイーアはきっと、誰にも心配をかけまいと、あの穏やかな笑顔を崩さずに立っているのだろう。
(ファルは、晩餐会には出ないって言ってたけど……)
ふと、ここ数昼夜、ほとんど食事の進まないファルイーアの、困ったような笑顔が脳裏をよぎった。
(……薄いって、キョウに言われちゃってた)
七夜前。
久しぶりに再会したキョウが、何気なく放った言葉だった。
誰に責められたわけでもない。
それでもラルには、その一言が、自分の力不足を鋭く指摘しているように聞こえてならなかった。
一番近くにいながら、彼の身体が少しずつ弱っていくのを止められない。
食べられるものを考えても、口へ入る量は減っている。
そのわずかな食事さえ、あとで吐き戻してしまうこともあった。
祝祭に沸く街の音が、やけに冷たく、遠い世界の出来事のように感じられる。
ラルは強く己の衣の裾を握り締めた。
早く帰って、少しでも喉を通りやすい温かな汁物を用意して待っていよう。
長い儀式に疲れて帰ってくる彼が、少しでも安らげるように。
ラルは家路を急いだ。
家へ辿り着くと、外套を脱ぐのももどかしく、真っ先に台所へ向かう。
保存庫から干し肉と野菜を取り出し、弱った身体でも飲めそうな汁物を作り始めた。
塩は入れず、干し肉と野菜から滲み出る旨味だけで、慎重に味を調える。
柔らかく煮込んだあと、具材を丁寧に取り除き、澄んだ汁だけを小さな鍋へ移した。
固形物を食べられなくても、これなら少しは喉を通るかもしれない。
完成した温かな汁物から立ち昇る湯気を眺め、ラルはふう、と小さく息を吐いた。
それから、ふと窓の外へ目を向ける。
いつの間にか、昼巡りの陽が西へ傾き始めていた。
「遅い……」
儀式を終えて、そろそろ帰ってきてもいい頃合いだ。
まだ帰宅しない最愛の人の姿を思い浮かべながら、ラルは無意識に自分の腹へ手を添えた。
奇跡としか言いようがなかった。
肌を合わせたのは、たった一度きり。
その一夜で、この腹に新しい命が宿ったのだから。
あの夜巡りのことを思い出すと、胸が痛いほど締めつけられる。
傷があることは知っていた。
けれど、衣を一枚も纏わない彼の身体は、ラルが想像していたよりも、ずっと痛々しかった。
息を呑んでしまった。
ただ、それだけだった。
それだけでファルイーアは傷ついたように笑い、すぐに衣を身につけると、部屋を出ていってしまった。
その細い背中を見送りながら、追いかけることも、気の利いた言葉をかけることもできなかった。
あの折の自分を、ラルは今でも許せずにいる。
それ以来、ファルイーアから触れてくることは少なくなった。
触れたいのに、また拒絶されることが怖いのだと、なんとなく分かっていた。
ラルは、あの一夜の寂しげな背中を振り払うように、強く頭を振った。
過ぎたことを悔やんでいても仕方がない。
帰ってきたら、温かな汁物を少しだけ飲んでもらおう。
それから、暖炉の前でゆっくり休ませてあげよう。
そう思い直して扉へ目を向けたが、いくら待っても、扉が開く気配はなかった。
外はすでに、夜巡りへ移ろい始めている。
「……遅すぎる」
晩餐会には出ないと言っていたのだから、とうに帰宅していなければおかしい刻限だった。
疲労で動けなくなり、どこかの路地へ座り込んでいるのだろうか。
それとも、祝祭に沸く街の人々に英雄として捕まり、無理をして笑い続けているのだろうか。
――いや、もしかしたら。
あの広場で陰口を叩いていた者たちに取り囲まれ、心ない言葉をぶつけられているのではないか。
次から次へと最悪の想像が脳裏を駆け巡り、ラルの胸を激しく打ち据える。
居ても立ってもいられなかった。
ラルは鍋の火が消えていることを確かめると、外套を掴み、矢のように家を飛び出した。
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人々が酒を酌み交わし、肩を組み、笑い声を響かせるその只中を――ただ一人、ラルだけが蒼褪めた顔で走っていた。
「ファル……っ! どこにいるの、ファルイーアっ!!」
人波をかき分け、左右を見回す。
華やかな音楽も、溢れ返る笑顔も、彼女にはまるで届かなかった。
群衆の間。
屋台の陰。
灯りの届かない路地の奥。
息を切らしながら、ただひたすら彼の姿を探し続ける。
本当なら、真っ先にグレンやガイア、キョウへ知らせるべきだった。
けれど、まだこの刻のラルは、ファルイーアが祝祭の人波に捕まっているか、帰る途中で動けなくなっているのだと思っていた。
皇宮へ戻るより、帰路を辿った方が早く見つけられる。
そう信じていた。
こんなことなら、皇宮の門前に残り、ファルイーアが出てくるのを待てばよかった。
ラルは血が滲むほど強く唇を噛み締める。
思い返せば、ここしばらくのファルイーアは明らかにおかしかった。
外へ出ず、暖かい場所で本を開いたまま、呆然として動かない。
食事はほとんど喉を通らず、無理をすれば吐き戻す。
夜巡りの最中に魘されることも、古傷を隠す仕草も、前よりずっと増えていた。
異変には気づいていた。
何度も問いかけた。
隠しているのだと、本人へ突きつけたこともある。
けれど、ファルイーアはいつも困ったように笑い、大丈夫だと言い続けた。
今は色々なものが追いついていないだけなのだと。
だから、いつかは立ち直れると思っていた。
以前のように、大きな声で笑えるようになると信じていた。
(まさか、ファル……自分がもう長くないって、分かってたの……?)
胸の奥へ浮かんだ疑念に、全身から血の気が引いた。
もし、そうだとしたら。
彼は、いつから知っていたのだろう。
結界を再構築し、『ファルイーア』という輪郭だけを残して目覚めた、あの昼夜からだろうか。
グレンの声を『命令』として受け取り、触れられることに怯え、高熱を出して寝込んだあと。
起き上がってきた彼は、突然、以前と変わらない笑顔を見せた。
『僕、少し長めの休養をもらってもいい?』
あの言葉の意味を、ラルはようやく理解した。
あれは、身体を治すための休養ではなかった。
終わりが来るまで。
自分たちを悲しませないために、笑って過ごすと決めたのだ。
(一星霜も……気づけなかった……!)
触れられても、以前ほど取り乱さなくなった。
グレンの声を『命令』として受け取ることも減った。
立ち直っているのだと思い、安堵していた。
違ったのだ。
ファルイーアは恐怖も痛みも、すべて笑顔の奥へ押し込めていただけだった。
自分たちを心配させまいと、一星霜もの間、優しすぎる嘘をつき続けていたのだ。
ラルは走った。
街の隅々を駆け回り、声を枯らして名を呼んでも、彼の姿は見つからない。
嫌な予感に身体を震わせながら、ラルはとうとう第一城門へ辿り着き、警備兵へ詰め寄った。
「ファルイーア様を、見ませんでしたかっ!?」
形相を変えて問いかけるラルに、兵士たちは顔を見合わせた。
「ああ、だいぶ前にお通りになったな」
「……っ! どこへ行くとか、何も言ってなかった!?」
声が、恐怖で震える。
「いや。もう皇籍を離れておられるからな。行き先まで詮索はしなかった」
「夜巡りが深まる前にお戻りくださいとは申し上げたんだが……『少し散歩するだけだから』と笑っておられたよ」
「散歩……?」
こんな戴冠式の折に。
ファルイーアとフィサルーアが生まれた、この昼夜に。
「護衛をお付けすると申し上げたんだが、一人で歩きたいと断られてな」
その言葉を聞いた途端、ラルの中で何かが音を立てて崩れた。
――一人で歩きたい。
ファルイーアが、本当に散歩へ出たとは思えなかった。
(もし、ファルが……誰にも見られない場所で消えようとしてるなら)
ラルは城門の向こうを見つめる。
整備された道の彼方に、中継要塞都市ジェグヌの不穏な影が、降り始めた夜巡りの底へ沈んでいた。
向かう先は、一つしかない。
「お願い、皇宮へ知らせて! グレン先生に、ファルが第一城門の外へ出たって!」
「あ、ああ。分かった」
「おい、待て! 外は危ないぞ!」
兵士の制止も聞かず、ラルは城門を飛び出した。
「待って……っ、待ってよ、ファル……!!」
灯り一つない街道を、祈るような思いで夜の奥へ進む。
走っては息を切らし、歩いてはまた駆け出した。
腹に宿る命を思えば、無茶をしてはいけない。
分かっているのに、立ち止まることなどできなかった。
中継要塞都市ジェグヌ。その西の端。
ラルは、見覚えのある狭い穴の前へ辿り着き、立ち止まった。
入口は草に覆われ、最近誰かが通った気配はない。
それでも、ラルは躊躇わなかった。
縋るように、その暗い穴へ飛び込む。
自分たちがツェヴァンの襲撃から逃れるために辿り着き、ガイアと喧嘩をして、崩れた土砂を必死に風魔術で掘り起こした場所。
あの頃は、いつだって一緒だった。
「ケセナ……っ」
暗闇の中で、ラルは思わず昔の名を呼んでいた。
(……やっと慣れたのに)
自然に『ファル』と呼べるようになったばかりだったのに。
どうか、奥からあの声が返ってきてほしい。
いつものように困った顔で笑って、「ごめん」と言ってほしい。
けれど、最奥まで辿り着いても、そこにあったのは冷たい岩壁だけだった。
熱を帯びた記憶ばかりが胸へ蘇り、現実には彼の痕跡一つ残っていない。
彼は、ここにもいない。
「……っ、あ……っ」
膝から力が抜けた。
その場へ崩れ落ち、ラルは子供のように泣きじゃくった。
「ケセナ……っ! どこなの、ケセナ……っ!」
もし、まだ精霊たちが地上にいたなら。
彼がどこへ向かったのか、尋ねることができたかもしれない。
けれど、もういない。
精霊たちは結界の理へ自らを織り込み、地上から姿を消した。
ファルイーアは最初、一人ですべてを背負おうとしていた。
そんなこと、許せるはずがなかった。
だからラルは手を貸した。
この先も、二人で生きていけると信じて。
彼を救うために差し出したはずの力が、結果として、彼を探し出す唯一の術を自分から奪ってしまった。
「どこ行ったの……! 置いていかないでよ、ケセナぁっ!!」
暗闇へ放たれた絶叫は、無情にも、遠くで砕ける波の音に呑まれて消えた。




