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第百十話 生きたかった

 祝祭はまだ終わらない。


 鉄の檻を見つめ終えたファルイーアは、グレンに支えられながら、再び皇宮へ戻った。

 戻る道すがら、グレンが静かに聞いた。


「他に見たい場所はあるか?」

「もうないよ。見たかったものは、見られたから」

「……そうか」


 それ以上、グレンは何も聞かなかった。

 ファルイーアもまた、檻の前で何を思っていたのか、口にすることはなかった。


 皇宮へ戻った頃には民への謁見も終わり、一行は露台から玉座の間へ場所を移していた。

 各族長や代表議会の議員たちとの挨拶が、永遠にも思えるほど続いている。


 その熱気の只中にいながら、ファルイーアだけはどこか遠かった。


 祝辞を聞くたび、胸の奥で何かが少しずつ静かになっていく。

 それでも彼は、玉座の間での挨拶が終わるまでその場にいた。

 フィサルーアが皇帝として振る舞う姿を、目を逸らさず見届けた。


 白金の法衣を纏う弟の横顔は、もう狂王のそれではなかった。

 背負うべきものを背負い、その重みごと立とうとする『王』の顔だった。


(……君なら、もう大丈夫だ)


 そう思えた、その刻だった。


 胸の奥に張っていた糸が、ふつりと切れた気がした。


「……っ、は……」


 浅く息を吸う。

 けれど肺がうまく広がらない。

 喉の奥が焼けるように熱く、視界の端が白く滲んだ。


「ファル?」


 隣からグレンの声が飛ぶ。

 ファルイーアは咄嗟に口元を押さえ、何でもないように首を振った。


「ごめん。ちょっと、人酔いしただけ」

「顔色が悪い。少し休め」

「うん……晩餐はやっぱりやめとく。食べられそうにないから、先に帰るよ」


 無理に笑うと、グレンの眉がさらに寄った。

 本当はすぐにでもファルイーアを家へ送り届けたい。

 だが、フィサルーアの戴冠を祝う昼夜の最中だ。四族長もそれぞれ挨拶に応じており、騎士団長たるグレンが席を外せる状況ではない。


「俺が送る」

「駄目だよ。今日はフィサルーアが皇帝になった最初の昼夜でしょ。グレンがいなくなったら困るよ」

「なら、護衛をつける」

「家まではすぐだし、大通りには人もいる。それに僕はもう皇族じゃないんだから、一人で帰らせて」


 穏やかな言葉とは裏腹に、その紅い瞳には、縋るような色が浮かんでいた。

 グレンはしばらく黙っていたが、やがて苦渋の表情で息を吐いた。


「……せめて、皇宮の門までは騎士をつける」

「うん。ありがとう」


 わずかな沈黙のあと、グレンは低く言った。


「帰ったら、ちゃんと横になれ」

「うん」


 怒られると分かっていながら、そう答えるしかなかった。

 グレンは納得していない顔のまま、それでも最後には小さく頷いた。


「帰ったら話がある」

「分かった。家で待ってる」


 その言葉を口にした途端、これがグレンへつく最後の嘘になるのだと、胸の奥が痛んだ。

 ファルイーアは一番うまく作れたはずの笑顔で、グレンへ小さく手を振った。


 呼ばれた騎士に付き添われ、皇宮を出る。

 門前で短く礼を告げると、ファルイーアは祝祭の喧騒へ一人で紛れ込んだ。


 大通りはまだ灯りと人で溢れていた。

 肩を組んで歌う者。屋台の前で笑い合う子供たち。酒に酔って泣き出す老人。

 世界は確かに、生きていた。


 ファルイーアはその真ん中を、一人静かに歩いた。


 誰も彼を引き留めない。

 英雄だと気づいて振り返る者はいても、祝祭の熱に浮かされた街では、青年の足取りの異変まで気に留める者はいない。


 ふいに足が縺れ、石畳の継ぎ目に躓きかける。

 壁に手をついてどうにか堪えたが、呼吸はますます浅くなっていた。


(……まだ、駄目だ)


 こんなところで立ち止まるわけにはいかない。


 向かう先は、もう決まっていた。

 オウセイがひっそりと身を潜め、キリエとともに過ごした、あの深い森。

 自分が死にかけて拾われ、人としての在り方を教えられた始まりの場所。


 あそこなら、きっといい。

 誰にも見つからず、誰にも最後の顔を見せずに済む。


 そう思った途端、自分の胸へ浮かんだ考えの冷たさに、ファルイーアは小さく笑った。


「……最低だな、僕」


 それでも身体は、もう限界を知っている。

 大丈夫なふりを続けて、彼らの前で崩れる方が、ずっと残酷だった。


 城門の前に立つ兵たちが、彼の姿に気づいて慌てて背筋を伸ばす。


「ファルイーア様! どちらへ」

「少し散歩するだけ」


 穏やかに答えると、兵は一瞬だけ迷った顔をした。


「ですが、外はもう夜巡りに入ります」

「すぐ戻るよ」

「護衛をお付けしましょうか」

「大丈夫。少し、一人で歩きたいだけだから」


 嘘だった。

 けれど、そう言うしかなかった。


 兵たちはなおも躊躇っていたが、すでに皇籍を離れた彼を、それ以上強く止める権限はない。

 結局、彼らは道を開けるしかなかった。


「夜巡りが深まる前にお戻りください」

「うん」


 また一つ、嘘を重ねる。


 城門を抜けた途端、祝祭の音は急激に遠くなった。

 夜巡りの闇が少しずつ濃くなる中、街道を抜け、森へ続く道へ足を踏み入れた途端、胸の奥に妙な安堵が広がった。


 帰ってきた、と思った。


 オウセイも、キリエも、もういない。

 それでもこの森だけは、何も問わず彼を受け入れてくれる気がした。


「……っ、はぁ……っ、は……」


 森の入口に差しかかったところで、ついに堪えきれず、大きな木の根元へ崩れ落ちるように腰をつく。


 息が熱い。

 肺が焼けるように痛む。


 痛みを和らげようと魔力を探って――己の内側が、完全に空になっていることへ気づき、自嘲した。


 結界を再構築した代償に、精霊は地上から消えた。

 人々は魔術という杖を失ってなお、自らの手で瓦礫をどかし、道を作り、街を立て直している。


 けれど、ファルイーアの身体だけは違った。


 この身体は、莫大な魔力と、無意識に行使し続けていた魔術によって、辛うじて維持されていたのだ。

 それを失った今、長く保たれていた均衡は、音もなく崩れていた。


 指先は震え、足は縺れ、呼吸一つで肺が軋む。

 もう、この身体を支えるものは何も残っていなかった。


 グレンも、キョウも、ガイアも、ラルも。

 名前と居場所をくれた大切な人たちへ、これ以上悲しい顔をさせたくなかった。


 身体の衰えは、とうに見抜かれていた。

 それでも、この身体がもう長く持たないことも、誰にも見られない場所で消えようとしていることも、まだ知られていない。


 だから彼は、終わりが近いと悟っていることだけは隠し続けた。


 彼らの前で崩れず、ここまで辿り着けた。

 そのことだけが、今のファルイーアには救いだった。


 夜巡りの静けさに包まれた森で、ファルイーアは立ち上がろうとして、足に力が入らず諦めた。

 ぼんやりと息を吐き、幹にもたれたまま、しばらく動けない。


 身体の芯まで冷え切っている。

 けれど、立たなければと思った。


 ここで眠ってしまえば、本当にそのまま終わる気がした。

 それだけは、なぜか嫌だった。


 ふと、右腕へ目が落ちる。


 けれど、もうその内側に黄金龍はいない。

 黄金龍もまた、世界を守る結界の理へ取り込まれ、この身体から消えていた。


 右手の甲から腕へかけて残っているのは、黄金龍が巣食っていた名残の紋と、無数の古傷だけだった。

 右腕だけではない。全身に残る古傷は、ファルイーアが人ではないと告げているようだった。


「あっ……」


 肩がびくりと跳ねる。

 慌てて長い袖を引き下ろし、傷痕を覆い隠した。


 だが、見られる相手などいない。

 森には冷たい風が吹いているだけだ。


「……隠したって、仕方ないのに」


 乾いた笑いが、震える唇から零れた。


 もう誰の目もない。

 もう怯えなくていい。

 それでも傷を隠そうとしてしまうのは、幼い頃から身についた、ただの哀しい癖だった。


 木の幹へすがるようにして立ち上がる。

 森の奥へ進めば、オウセイとキリエと過ごしたあの家があるはずだった。


 自分を『兵器』の呪縛から解き放ってくれた、始まりの場所。

 短いはずの道のりが、果てしなく遠い。


 肺の痛みに耐え、もつれる足をどうにか前へ出す。

 一歩ごとに視界が揺れる。

 息を吸うたび胸が軋み、喉の奥へ鉄の味が滲んだ。


 それでも進む。


 いつもの倍以上の刻をかけて、森の奥の小さな家が視界に滲んだ。


(……ああ)


 あの頃のままの家だ、と胸の奥で呟いた途端。

 玄関の前に、二つの影が立っているように見えた。


 オウセイ。

 そして、キリエ。


「オウセイ……っ!」


 縋るように駆け寄ろうとして、足がもつれた。

 身体は言うことを聞かず、土の上へ無様に転がる。


 顔を上げても、そこには誰もいない。

 限界を迎えた脳が見せた、優しすぎる幻だった。


 オウセイがそこにいるはずがない。

 結界を再構築したあの刻、オウセイの魂との接続は切れた。

 もう声は届かず、彼の記憶も失われている。

 それでも、オウセイが確かにいた痕跡だけは、自分の内側に残っていた。


「……何してるんだろ、僕」


 土だらけの顔をしかめ、自嘲するように笑う。


 思い出すのは、辛かったことばかりだ。

 幸福な記憶は、掌に載るほどしかない。


 ずっと自分には、喜びも幸せも来ないと思っていた。

 痛みと悲しみだけが、自分の世界だった。


 この世界へ生まれたことを悔いる昼夜を過ごし、伸びてくる手は、いつも自分の身体を壊していった。

 唯一、温かいと思えた手さえ、自分を突き放した。

 それでも心の奥底にあった『生きたい』という願いだけは、最後まで消えなかった。


 だから、戦えた。


 叶わないとわかっていた。

 生きたいという、ささやかな願いが現実になることなどないのだと。


 自分は、生きられない。


 それでも、暗い闇の中で諦めきれず、足掻いた。

 その結果、突きつけられた真実が重すぎた。


 本当は、生きられたのに。

 あの輝かしい光の中で立っていたのは、本来なら自分だったはずなのに。


 恨みではない。諦めと自己嫌悪だった。

 ないものを強請る自分が嫌だった。

 だから、かつて自分を捨てる決断をした。


 昔、あの蒼い髪の救世主へ、何度も何度も訴えた記憶が蘇る。

 なかなか首を縦に振らない彼は、やがて諦めたように言った。


『分かった。ただそれは、お前をさらに苦しめる結果になるかもしれない』

『過去の重荷は俺が背負う。お前は、これからを生きる自分だけを見ろ』


 あの刻は、意味が分からなかった。

 自分という存在が嫌だった。

 消したくて堪らない。

 だけど生きたくて仕方がない。

 その想いだけがすべてだったから。


 ああ、オウセイ。

 貴方が心配していたほど、悪いものじゃなかったよ。

 僕は、記憶を封じ、ケセナとして過ごした昼夜を、それでも大切に思っている。

 その刻があったから、僕はここまで生きられた。


 這うようにして玄関へ辿り着き、重い木扉を押し開けた。

 蝶番がぎぃ、と鈍い音を立てる。


 埃は積もっている。

 けれど、あの頃の温もりは消えていなかった。


 静まり返った居間。

 暖炉は冷え切っているのに、そこには確かに誰かが暮らしていた痕跡が残っている。

 オウセイが無造作に本を積み上げていた棚。

 キリエが磨き上げていた食器棚。

 窓辺へ落ちる淡い光。


 ファルイーアはよろめきながら部屋の奥へ進み、オウセイがいつも座っていた大きな椅子へ深く身を沈めた。


 張り詰めていた力が、そこで静かに抜けていく。


 戦わなくていい。

 痛みに耐えながら笑わなくていい。

 誰にも、大丈夫だと言い張らなくていい。


 すべてを手放す刻がきた。


 けれど、やはり諦めきれない。


 生きたい。

 死にたくない。

 ラルが宿した小さな命を、この腕で抱き締めたい。


 けれど身体はもう動かない。

 指先一つ、思うようにはならなかった。


 もっとラルといたい。

 彼女の真っ直ぐな紫の瞳は、自分を素直にさせてくれる。

 グレンにも我儘を言いたい。

 我儘どころか、文句を山ほどぶつけたい。

 ガイアと口喧嘩して、キョウに突進されて、窒息しそうになりながら笑っていたい。


 できて当たり前のことが、自分には何一つできなかったから。


「……死にたくない」


 静まり返った家の中へ、小さな声が一つ落ちた。


 名前をくれた人。

 居場所をくれた人。

 こんな自分を愛してくれた、すべての人たち。


 その人たちの名を、掠れる意識の底で何度も呼ぶ。

 声にはならない。

 それでもなお、呼ばずにはいられなかった。


 やがて夜巡りがほどけ、昼巡りの始まりが来る。


 窓辺から差し込んだ淡い光が、静かに、椅子にもたれた青年の頬を撫でた。


 瞼が重い。

 ファルイーアは静かに、目を閉じる。


 生きたかった。

 その願いだけを、最後まで胸の奥に抱いたまま。

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