第百九話 僕がいた場所
戴冠式の昼夜。
ファルイーアは、二十三星霜齢を迎えた。
彼は、仕立てられたばかりの白い礼服へ袖を通し、久しぶりに外へ出た。
一歩先には、意匠を一新した漆黒の騎士団服を着込むグレンと、華やかな紫の衣を纏ったラルが歩いている。
二人はファルイーアに合わせて歩調を緩めていた。それでも、今の彼には追いつくことさえ難しかった。
ファルイーアは二人に置いていかれまいと必死に足を動かした。
しかし、その足は思うように動かない。ほんの少し歩いただけで息が上がり、胸の奥が鈍く軋む。視界の端が、かすかに揺れた。
(……まずいな。もう、隠しきれないかもしれない)
呼吸を整えようと立ち止まりかけた、その刻。
ふと、街の人々の様子が目に入った。
収奪の季の皇都の空は抜けるように青く、建物の至る所で鮮やかな旗が風にはためいている。
瓦礫の残る大通りを色とりどりの花飾りが彩り、魔術に頼らぬ『人』の手で鳴らされる楽器の音が、力強く空へ響き渡っていた。
誰もが顔を上げ、笑い合っている。
多くを失い、傷を抱えたままでも、それでも前を向こうとする人々の、精一杯の命の祝祭だった。
その光景に、ファルイーアは思わず足を止め、魅入るように立ち尽くした。
「ファル? どうしたの?」
遅れた彼に気づき、ラルが紫の衣を揺らして駆け寄る。
「……みんな、笑ってるって思って」
ファルイーアがぽつりと零すと、ラルは目を細め、やわらかく微笑んだ。
「そうだよ。笑ってる。ファルがくれた平和で、新しい皇帝が生まれるから」
そこへグレンも歩み寄り、大きな手でファルイーアの肩をぽんと叩いた。
その途端、ファルイーアの身体がびくりと硬直する。
「お前とラルが再構築した結界が齎した平和だ。謙遜することはない」
二人の言葉に、ファルイーアは目を伏せた。
自分がやったことだと、頭では分かっている。
けれど、それを成し遂げたのは、今ここにいる『ファルイーア』ではない。
五千星霜を生きたオウセイと、それを乗り越えたケセナだ。
そう言いかけて、やめた。
それを口にすれば、二人の顔からこの穏やかな色が消えると分かっていたから。
ファルイーアは息を一つ吐き、顔を上げた。
「……グレン」
「なんだ」
「背負って」
予想外の言葉に、グレンは驚きに目を見張った。
それから一瞬、ファルイーアの青白い顔を窺い、あえていつもの呆れた口調で言う。
「……お前、こんな人前でまたか。少しは皇帝の兄としての威厳というものをだな……」
「だって、グレンとラル、歩くの速いんだもん。僕、置いていかれそう」
わざと子供っぽく口を尖らせてみせると、グレンは呆れたように深く息を吐いた。
けれど、その大きな背中は、いつものように静かに彼の前でしゃがみ込む。
「ほら」
「……ありがとう」
ファルイーアは遠慮なく、その広い背中へ身体を預けた。
首へ腕を回すと、いつもの温かい体温が伝わってくる。
「ほんと好きだよね、先生のおんぶ」
「うん。ここは僕の特等席」
呆れながら笑うラルへ、ファルイーアも笑って返した。
笑いながら、密かにグレンの背中へ顔を埋める。
――最後になるかもしれない、グレンの背。
戦火の中で初めてこの背に乗ったあの刻。
オーレルディアの第二城門から、迷路のような道を、グレンの背中で走り抜けた。陽だまりみたいな香りのする黒髪が頬を掠めた心地よさを、ぼんやりと覚えている。
あれからずっと、何かにつけては「背負って」とせがみ、この無骨な男を困らせてきた。
けれどグレンは、一度だって彼を拒絶しなかった。
文句を言いながらも、最後には必ずその背を向けてくれた。
無敵の騎士の背中に守られ、グレンと同じ高さで世界を見渡せるこの場所は、ファルイーアにとって何より大切で、かけがえのない『特等席』だった。
グレンがゆっくりと立ち上がり、再び歩き出す。
揺れる背の上で、ファルイーアは静かに目を閉じ、その温もりを命の底へ刻み込むように深く吸い込んだ。
そうして街の喧騒から少し離れた、皇宮の奥の区画へ辿り着く。
そこでファルイーアは静かに降ろされた。
足が地へついた途端、力が抜けてぐらりと身体が傾く。
すかさずグレンの腕が伸び、支えた。
「おっと。大丈夫か、ファル」
「あはは、酔ったかな」
「酔うのか。なら、もう二度と背負わんぞ」
「それは駄目」
笑って答えると、堪えていた喉の奥がひくりと鳴った。
なんとか痛みを隠しきり、ファルイーアは目の前の大きな扉を見上げる。
「ここ?」
「ああ。露台へ続く控え室だ」
グレンが扉を開け、控え室へ足を踏み入れる。
ひんやりとした静けさが肌を撫でた。
グレンが先に入り、ラルは扉の外で立ち止まる。
名残を惜しむようにファルイーアの袖の皺を一つ直してから、低く言った。
「無理しないで」
「うん」
「嘘っぽい」
「近頃さ、ラルってば酷くない?」
「酷い顔してるのはそっち」
痛いところを突かれ、ファルイーアは苦笑する。
それ以上は何も言わず、ラルは静かに一歩退いた。
彼女には大広間の来賓席が用意されていたが、露台へ続く控え室へ入れるのは、皇族と四獣の族長、その護衛に限られている。
皇籍を離れたとはいえ、ファルイーアは新たな皇帝の兄。そしてグレンは、その護衛を務める騎士団長だ。
「……行ってらっしゃい」
「行ってきます」
その短いやり取りだけで、ファルイーアの胸の奥が少し痛んだ。
控え室へ入り、一番近くにあった長椅子へ歩み寄って腰を下ろすと、彼は大きく息を吐いた。
少しだけ、呼吸が楽になった。
数息ほど待った頃。
奥の扉が開き、豪奢な白金の法衣を纏ったフィサルーアが姿を現した。
「……」
その姿に、グレンは思わず目を細める。
狂気も虚無もなく、真っ直ぐ前を見据えるその横顔は、あまりにも若かりし頃のリュウショウによく似ていた。
自分が命を懸けて守った親友の面影が、そこには確かに残っている。
「……よくお似合いです。ご立派になられました、フィサルーア様」
万感を込めたグレンの言葉に、フィサルーアはほんの少しだけ照れたように視線を逸らした。
「やめてください。父上は、もっと立派だった」
「御父君が即位の儀へ臨まれた昼夜など、それはそれは大騒ぎでした。極度の緊張で逃げ出そうとされて、私が首根っこを掴んでおりましたから」
「……父上を美化するのはやめます」
そこへ、遠慮のない足音とともにガイアとレイアが入ってきた。
その後ろから、仕込み杖を石床へ鳴らしながら、青龍族長ツェヴァンが悠然と姿を現す。
「おっ、やってるな!」
フィサルーアの姿を見るなり、ガイアはわざとらしく居住まいを正し、妙に流暢な口調で深々と頭を下げる。
「フィサルーア様におかれましては、このたびの御即位、心よりお祝い申し上げます」
「なんだ、ガイア。やればできるじゃないか」
「先生は黙っててください!」
耳まで真っ赤にして怒鳴り返すガイアを見て、レイアが吹き出した。
「そう硬くなるな。フィサルーア様も、少しの不敬で首を刎ねるほど狭量ではあるまい」
「……それは不敬と捉えますが?」
フィサルーアの呻きなど意に介さず、レイアは続ける。
「だが、見事なものだな。馬子にも……実に様になっている」
「……馬子にも衣装と言いかけましたね?」
「さて、何のことだか」
「かかか! よう似合っておるぞ、フィサルーア様。若き日のリュウショウを思い出すわい」
「……皆して父上と比べるのは、やめていただけますか」
フィサルーアがうんざりしたように息を吐いたところで、グレンがツェヴァンへ顔を向けた。
「師匠。兄上はどうしました?」
「ソウレンなら、すでに大広間じゃ。人の少ない隅を確保すると言うて、真っ先に逃げていったぞ」
「……玄武族長として、それでいいのか」
穏やかな笑いが控え室を満たす。
失ったものは多すぎた。
それでも、確かにここには、取り戻したものもあった。
少し離れた場所で、椅子に座ったままその光景を眺めていたファルイーアは、静かに息を吐いた。
本来なら、自分がそこに立っていたのだろうか。
弟への妬みはない。
そんなものは最初からない。
けれど、自分へは差し出されなかった光景を見ているようで、胸の奥がどこまでも静かに冷えた。
白金の法衣を纏うフィサルーアへ、この先を委ねたのは他でもない自分だ。
フィサルーアを囲む彼らは、優しく弟を包んでいる。
もう大丈夫だ、と胸のどこかで思う。
自分がそこに立っていなくても、この先の世界は確かに回っていくのだと。
「兄上」
低い声に呼ばれ、顔を上げる。
フィサルーアが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「逃げないでください」
「逃げないよ」
「なら結構です」
冷たい言い方だった。
けれど、それが彼らしい素直になれない気遣いだと分かって、ファルイーアは小さく笑った。
やがて一行は、大広間へ移った。
青龍族長ツェヴァン、朱雀族長ガイア、白虎族長レイア、そして大広間の隅でひっそりと佇む玄武族長ソウレン。
四族長と代表議会の議員たちが見守る中、即位の儀は厳かに執り行われた。
ファルイーアはグレンに支えられながら、新たな王冠がフィサルーアの頭上へ戴かれる瞬間を見届けた。
ファミラスに、新たな皇帝が誕生した。
儀式を終えて再び控え室へ戻ると、残すは露台から民へ姿を見せることだけだった。
外から、民への謁見の開始を告げる楽器の音が鳴り響く。
控え室の空気が、すっと切り替わった。
フィサルーアは小さく息を吐き、その表情を完全な『皇帝』のものへ変える。
「行きます」
誰へ向けたともつかないその一言を残し、大歓声の待つ露台へ歩み出た。
「新皇帝、フィサルーア陛下万歳!!」
地鳴りのような歓声が、皇都を揺らす。
ファルイーアは外へ出ず、控え室の長椅子に座ったまま、陽光の中で民へ手を振る弟の背中を静かに見つめた。
世界を救った英雄として讃えられる彼自身も、その喧騒の中へ姿を見せるべきなのだろう。
けれど、熱狂する群衆を見下ろす露台には、どうしても行けなかった。
視線が集まるたび、まるで自分だけが、平和な世界へ紛れ込んだ場違いな亡霊みたいに思えてならなかった。
祝いの声。
歓喜のざわめき。
それらは確かに眩しい。
なのに、自分の胸へはうまく落ちてこない。
民への謁見が終わる前。
ファルイーアは誰にも気づかれないよう、そっとその場を離れた。
だが、ふらつく足で控え室を出ていくその細い背中を、グレンは見逃さなかった。
四族長がフィサルーアの傍らにいることを確かめると、何も言わず、静かに後を追う。
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ファルイーアは、皇宮裏手の園庭へ足を向けていた。
観衆の熱狂を遠くに聞きながら、庭へ続く冷たい石階段を下り、その先にある朽ちた物置小屋の裏手から地下へと続く暗がりを覗き込む。
そこには兵器だった頃、ファルイーアが入れられていた鉄の檻が残されていた。
人形として扱われ、暖かい部屋など与えられることもなく、冷たい風が吹き込む階段の下で震えて過ごした頃の記憶が蘇る。
「……ファルイーア」
そんな彼の背中へ、追ってきたグレンの声が落ちた。
振り返ったファルイーアを、グレンは堪えきれないように大きな腕で抱き寄せた。
その身体は条件反射でひくりと硬直したが、ファルイーアはすぐにそれを隠し、平気な顔を作った。
「どうしてここに来た?」
「見てみたかったんだ。僕がいた場所」
グレンは痛ましげに眉を寄せる。
「見なくていい。ここはお前にとって、辛い記憶しかない場所だ」
「それでも、僕が生きてた証拠でしょ」
ファルイーアは、グレンの腕からそっと抜け出した。
「……グレン、何か勘違いしてない?」
「何をだ」
「ほんとに、見たかっただけだよ」
金糸の髪を風に揺らしながら、彼は笑ってみせる。
「ここで生きてた僕が、確かにいたんだって。……それを、自分で見たかっただけ」
笑っているのに、紅い瞳の奥は少しも笑っていなかった。
それが、グレンの胸を冷たく締めつけた。




