第百八話 賑やかな客人
一夜後の昼巡り。
戴冠式まで、あと七夜となった。
陽はまだ高く、収奪の季を迎えた木々には、所々に燃えるような赤が差し始めている。
その静けさを破るように、家の前で荒々しい蹄の音が止まった。
「着いたぞー!! 開けろ、先生! ファルの誕生祝いに、南方の重鎮がわざわざ来てやったぞ!!」
玄関扉を叩くなり響き渡った大声に、家の中で本を読んでいたファルイーアは、びくりと肩を揺らした。
「……うわ」
聞き慣れた声だ。
しかも一番、静かな刻を豪快に壊してくる類の。
暖炉脇の長椅子から立ち上がろうとして、軽い眩暈を覚え、たたらを踏む。その間に、奥の台所からラルが顔を出した。
「ファル、座ってて」
「え、でも」
「いいから」
ラルはそのまま玄関へ向かった。
扉を開けた途端、収奪の季の冷たい風と一緒に、賑やかすぎる気配が一気に流れ込んでくる。
「ラル! 久しぶり! 元気してた!? っていうか顔色いいじゃない! よかったぁぁ!」
「キョウ、近い」
「久しぶりなんだから仕方ないでしょ!」
青銅色の髪を揺らして真っ先に飛び込んできたのは、キョウだった。その後ろで、赤い外套を肩へ引っかけたガイアが大きく息を吐く。
「おいキョウ、玄関塞ぐな。荷物入らねぇだろ」
「あんたは黙って荷物持ってなさいよ」
「誰のせいで増えたと思ってんだ!」
少しも変わらない言い合いに、ラルが半眼になる。
「うるさい。入るなら静かにして。ファルの身体に毒」
「相変わらず辛辣よねぇ」
「容赦ねぇなぁ」
二人に言われても、ラルはむすっと頬を膨らませるだけだった。
「うるさい」
その騒がしさに耐えきれなくなったように、居間の方からファルイーアが顔を出した。
「……久しぶり、二人とも」
「ファルゥゥゥゥ!!」
直後、キョウの顔がぱあっと輝いた。
嫌な予感しかしない。
そう思った刻にはもう遅い。飛び込んできたキョウの全力の抱擁を、ファルイーアは避けきれず、懐かしい腕の中であっさり潰された。
「うわっ、ちょ、キョウ、苦し――」
「会いたかったー!! なんなのその細さ!? ちゃんと食べてる!? 儚さ増してるじゃない、尊いけど心配!!」
「色々言わないで。あと潰れる」
「ほら見ろ、会って三息で抱きついた」
「ガイアは黙ってて」
「黙る理由がねぇだろが」
ガイアが大量の荷物を抱えたまま、呆れ顔で踏み込んでくる。
その後ろから、ちょうど帰宅したグレンが外套を羽織ったまま現れた。
「……南方の族長殿は、いつになったら貫禄が出るんだ」
「あるだろ! 貫禄! つーか先生、嫌味の切れ味が鈍ってねぇ? 老けたか?」
「まだ斬れるぞ?」
「そっちの切れ味じゃねぇよ!」
ガイアがげんなりしたように言って、荷物を下ろす。
静かだった家の中は、一気に人の気配と熱で満ちた。
キョウに抱きつかれたままのファルイーアは、どうにかその肩を押して距離を取る。
「……ほんと久しぶり」
「何その、ちょっと他人行儀な言い方。泣くわよ?」
「理不尽だよ。挨拶じゃないか」
言いながら、ファルイーアは笑った。
その顔を見て、キョウの表情がふっとやわらぐ。
「……うん。よかった。ちゃんと笑ってる」
「え?」
「なんでもない」
誤魔化すように笑って、キョウは彼の頬を軽くつついた、その刻。
「離れて」
ラルの低く冷たい声が飛ぶ。
振り向くと、ラルはじっとキョウの顔を見ていた。その目は、少しも笑っていない。
「ファルから離れて、泥棒猫」
「……私の弟なんだけど」
「関係ない」
有無を言わせない声音だった。
「はいはい。ファル、座ろっか」
苦笑しながらファルイーアを離し、キョウは彼を長椅子へ座らせる。
腰を下ろしてから姿勢が落ち着くまで、ほんの一拍遅れた。それを、ガイアだけが黙って見ていた。
「厳しい奥さんね」
「……うん。ちょっとグレン以上に過保護で」
ぼやきながらラルを見ると、鬼の形相で睨まれた。
肩を落としたファルイーアの傍へ、ガイアが近くの椅子を逆向きに引き寄せてどかりと座る。
「で? 先生から聞いてはいたが、お前ほんとに引きこもって本ばっか読んでんの?」
「引きこもってはないよ」
「かの救世主様だって森に籠ってたろ。一緒だ、一緒」
「一緒……?」
ちらりとグレンを見る。
グレンは少し眉間に皺を寄せた。
それを見て、ファルイーアは何でもない顔で言い直す。
「……だって、出かけたら『英雄様、英雄様』って寄って来られるの、疲れるんだよ」
「あー……まぁ、お前はそうだよな」
グレンがそのやり取りを横目で見ながら、荷物の一つを開ける。
「南方はどうだ」
「だいぶ持ち直した。フェルナリアも街の形になってきたしな」
「うちの連中もよく働いてるわよ。復興って地味だけど、あれはあれで性に合う子も多いし」
「朱雀が地味、って表現どうなんだよ」
その空気が可笑しくて、ファルイーアはまた声を出して笑った。
笑った拍子に胸の奥がひくりと痛む。けれど、まだ隠しきれる。
キョウが長椅子の肘掛けへ腰を預けながら、ファルイーアをじっと見つめた。
「それにしても、ほんとに細いわね。薄くなってるじゃない」
「薄くって何?」
「薄くは薄くよ」
キョウは真顔だった。
茶化しているようでいて、その目の奥には確かな心配がある。
自分が少しずつ『空っぽの器』に近づいていることを見抜かれているようで、ファルイーアは困ったように目を逸らした。
重くなりかけた空気を崩すように、グレンがわざとらしく咳払いをした。
「積もる話は後だ。せっかく来たんだ。ガイア、荷の中の干し肉と香草を出せ。キョウは野菜を刻め」
「え、先生、人の荷物開けてそれってどうなんだ」
「南方の客人面をするなら、それ相応に働け」
「意味分かんねぇし!!」
キョウが吹き出し、ガイアが大袈裟に肩を竦める。
「なぁ、ファル。先生、俺の扱いが雑なんだよ。俺、族長だよなぁ?」
「自業自得だと僕は思う」
「……お前もかよ」
いつもの調子だ。
それが妙に嬉しくて、ファルイーアは肩の力を抜いた。
そうして家の中は、久しぶりに賑やかな音で満たされた。
南方の土の匂いを運んできた荷。
台所で包丁の音を立てるキョウ。
香草を選り分けながら文句を言うガイア。
ラルはその横で黙々と鍋を見て、伸びてくるガイアの手を叩き落とす。
グレンは全体を見ながら、要所で指示を飛ばしていた。
ファルイーアは長椅子に座ったまま、その光景を眺めていた。
こんな風に、みんながいて、くだらない話をして、笑っていられるだけでよかったのに。
どうしてそれすら、自分から離れていくのだろう。
込み上げてくる寂しさで胸の奥に痛みを覚え、顔を見せぬよう深く俯いた。
「ファル、卓に座れ」
賑やかな空気に、ほんの少し気が緩んでいたのかもしれない。
料理へ意識を向けたまま、グレンはこの一星霜、避け続けてきた言い方を、かつてと同じ調子で口にしてしまった。
その途端。
ファルイーアの表情が凍りついた。
顔から色が引き、ふらりと立ち上がる。
彼にはそれが、拒絶し得ない『命令』として響いてしまったのだ。
己の失言に気づいたグレンの顔色が変わる。
「……違う。慌てなくていい。もうすぐできる」
「……あ……うん。ごめん、グレン」
ファルイーアは引き攣ったような苦笑を浮かべ、歩き出した。その手はかすかに震えていた。命令のように聞こえた言葉への恐怖が、どうしても隠しきれなかった。
台所へ戻ったグレンが、三人から何やら小声で問い詰められているのが見える。
ファルイーアは、自分の弱さに強い罪悪感を覚えた。
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並んだ料理は、南方から持ち込まれた干し肉と香草に、一夜前、ラルとファルイーアが買った根菜を加えた温かな煮込み。それから、白身魚の香草焼きと麦餅。
見た目は素朴だが、どれも衰弱した身体へ負担が少ないよう工夫されているのが分かる。
「……ちゃんとご飯って感じする」
「いつもがご飯じゃないような風に言うな。この二人が勘違いする」
グレンの言葉に、一瞬だけ空気が和らいだ。
「ごめん」
苦笑するファルイーアの前へ、ラルが小さめの椀を置いた。
「ファルのはこれ」
「うん、ありがとう」
わざと小さく作られた椀だった。
少ししか入らなくても、空にできれば「食べた」と思えるように。
グレンが向かいの席へ腰を下ろしながら低く言う。
「最初から無理に食べ進めなくていい。少しずつだ」
「僕、そんなに信用ない?」
「ない」
キョウまで力強く頷き、ガイアが「諦めろ」と肩を竦める。
四方から見張られているようなものだ。
仕切り直し、と言わんばかりにガイアが口を開いた。
「さて。少し早ぇが、ファルイーア。二十四星霜――」
「二十三だよ」
すかさずファルイーアが訂正を入れると、ガイアは怪訝な顔をした。
「……あれ? 俺の五星霜齢下だろ?」
「馬鹿ガイア。私たち二十八星霜齢になったばかりじゃないの。少し早いけど、二十三星霜齢、おめでとう。ファルイーア」
「うん。ありがとう、キョウ」
横から割り込んだキョウに、にっこりと笑顔を向ける。そして、混乱しているガイアを横目に溜息混じりに笑い、椀に食べられる量だけの煮込みを入れた。
「ファル。あたし、それ初めて作ったの」
ラルが不安そうにしながら告げる。
「そうなの?」
ファルイーアは、匙で掬い口をつけた。
温かさが喉を落ちていく。味はやさしい。
次は柔らかく煮込まれた干し肉を、小さく崩して口へ運ぶ。
「……どう?」
「美味しい」
ファルイーアが小さく頷くと、ラルは少しだけ安堵したように息を吐いた。
「先生が横でうるさいから心配だった。その香草は多い、火を弱めろ、切り方が雑だ、ってずっと言ってた」
「先生、完全に口うるさい姑だったわ」
キョウの言葉に、グレンの眉間へ深い皺が刻まれた。
「キョウ、お前、外へ出るか?」
「やだ怖い。先生と手合わせなんてしたくなーい」
キョウはわざとらしく身を竦め、ひらひらと手を振った。
食卓に笑いが零れる。
ファルイーアもつられて笑った。
一瞬、喉の奥が熱くひりついた。
けれど、この空気が愛おしくて、彼は必死に隠しきる。
ガイアが大きな手で麦餅をちぎりながら、ファルイーアの様子を眺めて言った。
「……おい、ファル。無理してねぇか?」
「してないよ。いつも通り」
ファルイーアはもう一口だけ、干し肉を食べた。
喉は通る。
だが、腹の底へ沈んでいく感覚が明らかに重い。
(……あ、駄目だ)
これ以上は危ない。
せっかく五人で囲む食卓だ。もう少しだけ、ここにいたかった。
けれど、ガイアの心配そうな視線が痛くて、ファルイーアはそっと匙を置いた。
「……これ以上は無理、かな」
「そうしておけ。吐く方が問題だ」
グレンが低く言う。
「……うん」
キョウもガイアも、ここでは軽口を挟まなかった。
ファルイーアは苦笑し、自分の椀の中身を見下ろす。まだ煮込みは残っている。
「……ご馳走様。美味しかったよ。少し休んでくるね」
そう言って立ち上がる。
立ち上がった途端、足元がわずかに揺れた。けれど、倒れるほどではない。
居間を出ていく細い後ろ姿に、誰もすぐには声をかけられなかった。
足音が寝室へ遠ざかり、扉が閉まったあと、卓の上へ重い沈黙が落ちる。
ガイアが深く眉を顰め、沈黙を破った。
「……あの顔、まだ残ってんだな」
命令に似た響きの言葉を聞いた途端の、ファルイーアの顔。
無機質で、何も映さない紅い瞳。
もう見なくて済むと思っていた『兵器』の顔だった。
「当たり前よ。消えるわけないでしょ。あれだけのこと、なかったことになんてならない」
そう言ったあとで、キョウは自分の拳を膝の上で握り締めた。
「なのに、あの子は笑うのよね。笑って、平気なふりして、こっちを安心させようとする」
「ああ。あいつ、昔っからそういうとこだけ妙に頑固だった」
ガイアは言ってから、手の中の麦餅を見つめて苦々しく笑った。
「それに、予想以上に衰弱してる」
ガイアとキョウの視線が、ファルイーアの小さな椀へ落ちる。
ほとんど減っていない中身が、まだ静かに湯気を立てていた。
「お前たちに頼みがある」
重苦しい空気を破るように、グレンが低く切り出した。
その真剣な響きに、二人は顔を上げる。
「戴冠式が終わっても、しばらくここへ残ってくれないか。朱雀を纏めるお前たちにとって、無理な依頼なのは承知している。だが……ファルイーアを、一人にしておきたくない」
グレンの言葉には、苦悩と焦りが滲んでいた。
「戴冠式の後、俺はフィサルーア様の補佐官になることが決まっている。そうなれば、どうしても家を空ける昼夜が増える。……かといって、ラルは身重だ。これ以上、無理はさせられない」
ぎり、と奥歯が鳴る。
誰より傍らにいたいのに、それができない。その無力さが、声の底に濃く沈んでいた。
「……先生」
キョウが静かに口を開く。
「私が残るわ。ガイアは南方へ戻らなきゃいけない仕事があるし、私なら少し融通が利くから」
「頼む。……あいつは、危なすぎる」
グレンは深く頭を下げた。
隣でその会話を黙って聞いていたラルは、唇をきつく噛み締めていた。




