第百七話 暖炉のそばで
ファルイーアは暖炉の傍らで、静かに火の爆ぜる音を聞いていた。
彼が今、昼夜を過ごしているのは、グレンとラルが暮らす小さな家だった。
外へ出ることは、めっきり減った。代わりに習慣になったのは、こうして暖かい場所で本を読むことだ。文字を追っている間だけは、胸の痛みも息苦しさも、ほんの少し遠のく気がした。
冷気を感じ、右腕に視線を落とす。
黄金龍の紋と古傷が残る肌を目にした途端、びくりと身体が揺れた。
慌てて袖を引き下ろし、隠そうとした拍子に本が床へ落ちた。
「……あ」
拾おうとして身を屈めかける。
だが、その動きだけで身体が軋み、彼は手を伸ばすことを諦めた。
精霊を失ってから、身体は目に見えて弱っていた。
指先は意志と関係なく小さく震え、少し長く立っているだけで足元が危うくなる。呼吸をするだけでも、肺の奥が鈍く軋んだ。
だから近頃は、こうして暖かい場所へ逃げ込むようになった。
暖かかった繁茂の季でさえ、身体は冷え切っていた。暖炉の火がなければ落ち着かない。ラルもグレンも、初めは暑いと文句を言っていたが、あまりに寒いと訴えたからか、収奪の季を迎えた今ではもう諦めているらしい。
それに、読書が好きというのも半分は本当で、半分は言い訳だった。
火の近くで静かに本を開いていれば、誰も無理に外へ連れ出そうとはしない。身体の限界を誤魔化すには、都合がよかった。
「また暖炉の前にいた」
振り返ると険しい顔をしたラルが、つかつかと歩み寄り、床に落ちた本を拾う。
「暖かいんだよ。ラルだって知ってるでしょ」
「寝てたの?」
「……少し、うとうとしてた」
「夜巡り、ずっと魘されてるから、眠れてない?」
そう言って、ラルはファルイーアの手首を取った。
その途端、彼の身体がびくりと硬直する。
けれど、ラルは何も言わなかった。
この一星霜、ファルイーアが必死に隠し続けてきた拒絶の反射を、彼女はあえて言葉にしないで受け止めていた。
手首のひやりとした感触に、ラルの眉が寄る。
「また冷たい」
「そうかな」
ラルは不満そうに唇を尖らせ、そのまま彼の隣へ腰を下ろした。
「戴冠式まで、あと八夜。ファルは行くの?」
問われ、ファルイーアは答えに詰まった。
あと八夜。
そこまで、この身体が持つのか。
無意識に考えかけて――すぐにやめた。
フィサルーアの即位。
それを最後まで見届けるべきだという思いはある。
「……行くよ。フィサルーアに押しつけたの、僕だし、彼と約束したし」
「無理しないでね」
「うん」
ラルは迷うように少し視線を落とし、自分の腹へ手を添え撫でた。
「……ねぇ、ファル。そろそろ子供の名前、考えないと」
ファルイーアは数度瞬きを繰り返し、それから遅れて意味を理解し、深紅の瞳を見開いた。
「そうだね。ラルは、どんな名前がいい?」
「ファルが決めて。あなたが考えてくれた名前がいい」
「……ケセナは?」
「それは駄目って何度も言ってる」
「やっぱり駄目かぁ……」
口ではそう言いながら、胸の奥にじんわりと熱が広がった。
まだ見ぬ、小さな命。
それが自分とラルの間にあるという事実は、どうしようもなく不思議で、愛おしい。
けれど、その温もりと同じだけ、胸の底へ暗い不安も沈んでいく。
ファルイーアはそれを押し隠すように、そっと息を吐いた。
「瞳の色は、ラルに似るといいな」
「どうして?」
「僕、ラルの紫の瞳、綺麗で好きだから」
「ファルの紅い瞳の方が綺麗」
「それ、なんだか複雑なんだけど」
真面目に言い切られ、ファルイーアは今度は声を立てて笑ってしまった。
笑った拍子に、喉の奥が熱くなる。
咳き込みそうになるのを必死に堪え、彼は顔を背けた。
「ファル?」
すぐにラルの鋭い声が飛ぶ。
「……なんでもない。ちょっと……感動で、息が詰まって……」
苦しい言い訳だった。
案の定、ラルの目が細くなる。
「近頃ずっと、変」
ラルは少しだけ俯き、低い声で続けた。
「ちゃんと食べないし、すぐ疲れた顔するし、本を読んでる途中でぼーっとしてるし、立ってるだけでふらつくし。……隠してる」
「隠してないって。色々、追いついてないだけ」
「オウセイ?」
「……ケセナも、ね」
「まだ、なんだね」
返ってきた言葉は、思っていたよりずっと強かった。
ラルは、気づいているのかもしれない。自分がついている、この優しすぎる嘘に。
「一人で勝手にいなくならないでね」
その一言が、胸の奥へ深く刺さった。
いなくならない。
そう言いたいのに、断言できない。
身体の均衡が少しずつ崩れていることを、誰より自分が知っていたからだ。
「……うん」
それは約束にはならない。
ラルも、それ以上は問い詰めなかった。
少しの沈黙が訪れ、暖炉の火が、静かに爆ぜた。
その音に耳を澄ませながら、ファルイーアはラルから本を受け取り、ぱらりと開く。
その刻だった。
玄関扉が開く重い音が響いた。
爆ぜる暖炉の火に照らされた空間へ、外気をわずかに纏った大きな影が入り込んでくる。
「二人とも、ここにいたのか」
仕事に出ているはずのグレンが、帰ってきていた。
「グレン? どうしたの? 仕事は?」
ファルイーアが不思議そうに小首を傾げると、隣に座っていたラルが、すっと目を細めて非難めいた視線を向ける。
「まさか、またサボり……」
「おい、ラル。俺はサボったことはない」
即座に反論するグレンに対し、ラルは半眼になったまま、無言で抗議の意思を示した。
「……」
「信じてない顔をするな」
師匠と弟子の遠慮のないやり取りに、ファルイーアはたまらず吹き出した。
「どうしたのさ。この昼夜は遅くなるって言ってたのに」
「ああ。南方から使者が来てな。少し手が空いたから、伝えに戻った。ガイアとキョウが戴冠式に出席するため、こちらへ向かっているそうだ。早ければ、一夜後の昼巡りには到着するらしい」
「どうして、こんなに早く?」
理由が分からず、ファルイーアが純粋な疑問を投げかけた。
「お前の『誕生した昼夜』を、一緒に祝いたいそうだ」
言葉の意味を理解するまでに、数息かかった。
ファルイーアは紅い瞳を丸くし、間の抜けた声を漏らす。
「え? 祝う?」
「戴冠式は、お前の『誕生した昼夜』だろう」
さも当たり前の事実を告げるように言われ、ファルイーアは心底不思議そうに、ぽつりと呟いた。
「……それって、祝うものなんだ」
どこか照れくさそうにはにかむ彼を見て、グレンとラルは一瞬だけ言葉を失った。
それでも、ファルイーアの嬉しそうな顔につられるように、二人もほんの少しだけ口元を綻ばせた。
和らいだ空気の中で、グレンが本題を切り出す。
「それでだ。今この家にある食材では、あの大食漢を迎えるには足りないと思ってな」
「……確かに、うるさいのが好きそうなものはないかも」
赤い髪の騒がしい兄弟子の顔を思い浮かべたのだろう。ラルは少し呆れたように同意した。
「俺は任に戻る。買い出しを頼めるか?」
「分かった。でも、ファルは……」
頷きかけて、ラルは隣に座るファルイーアを案ずるように見やる。その視線に気づき、彼は間髪入れずに声を上げた。
「僕も行くよ」
「でも……」
外の寒さと彼の体調を慮り、ラルが難色を示す。
「たまには外に出ないと。それに、ラルと一緒に歩きたい」
ファルイーアは安心させるように、柔らかく微笑んだ。
真っ直ぐに見つめられ、ラルがわずかに言葉に詰まる。彼女が反論を探すより早く、グレンの太く低い声が降ってきた。
「無理はするなよ、ファル」
「分かってるよ」
「ラル、見張ってろ」
「うん」
見事なまでに隙のない二人の連携に、ファルイーアは不満げに唇を尖らせた。
「ねぇ、ラルは身重なのに、どうして僕だけ心配するの」
「そんなの、ファルが一番無理するから」
ラルが息をするように即答する。
「ラルは自分の限界を知っている。お前は限界まで黙って、突然倒れるからな」
グレンもまた、腕を組んで深く頷いた。
逃げ場のない正論を次々と突きつけられ、ファルイーアはがくりと肩を落とす。
「……僕って信用されてない」
「されてると思ってたの?」
「酷すぎる」
ラルの容赦ない追い打ちに、ファルイーアは大げさに天を仰いだ。
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グレンが皇宮へ戻って間もなく、ファルイーアはラルと共に街へ出た。
冷たい外気に晒され、数歩進むだけで足元が頼りなく揺れる。それを悟られまいと必死に息を整え、何食わぬ顔でラルの歩調に合わせ続けた。
どうにか市場を回り、目的の食材を買い揃える。店の者に家まで届けてもらう手筈を整えたところで、ラルが歩みを止めた。
「疲れたでしょ、ファル」
「え、まだ大丈夫だよ」
すかさず笑顔を作って応じたものの、ラルは紫の瞳を細め、首を横に振る。
「うん。駄目。あそこの噴水のところで座ろ」
「……どの辺で判断してるのさ」
「色々」
「……」
ラルは有無を言わせずファルイーアの外套の袖をむんずと掴み、広場の中心にある噴水へ連行すると、その石造りの縁に彼を座らせた。
「ねぇ、ラルも座りなよ」
身重の彼女を立たせていることに申し訳なさを覚え、ファルイーアが隣をぽんぽんと叩く。
だが、ラルは少し離れた場所を指さした。
「ちょっと待ってて。屋台が出てるから、あたし、温かい飲み物買ってくる」
「うん。気をつけてね」
人混みへ向かっていくラルの背中を見送りながら、ファルイーアは小さく息を吐いた。
座ってみて初めて、膝がわずかに震えていることに気づく。やはり、限界はすぐそこまで来ているらしい。
ぼんやりと景色を眺めていると、視界の端で人影が揺れた。
遠巻きにこちらを窺っていた一組の親子が、おずおずと近づいてきたのだ。
「もしかして、英雄様ですか?」
「……え」
「すみません。この子、ファルイーア様のことが大好きで」
母親が申し訳なさそうに頭を下げる横で、男の子が目を輝かせている。
「だって、かっこよかったよ! 騎士団長の背中で、こう、手を挙げてるの!」
男の子が真似るように小さな腕を高く掲げた瞬間、ファルイーアの心臓がどくりと重く跳ねた。
「……あ、えっと。そっか、見てたんだ」
曖昧な笑みを浮かべながら、胸の奥がきりきりと痛む。
――違う。
そう否定したかった。
あの昼夜、グレンの背中で皆の声援に応えたのは、自分ではない。もう一人の自分とも言うべき存在、『ケセナ』だったのだと。
けれど、真実を告げることはできず、ファルイーアは奥歯を噛み締めて口を噤んだ。
記憶の輪郭は曖昧なのに、グレンの背から見た光景だけは、脳裏に残っている。
あの刻の高揚も、胸に渦巻いていた感情も、薄い膜の向こうにある。分かるのに、自分のものだと思えない。その隔たりが罪悪感となって、首を絞めてくる。
「ねぇ、ファルイーア様が皇帝になるんじゃないの?」
何の疑いも濁りもない、無垢で真っ直ぐな期待の眼差しに射抜かれ、ファルイーアは凍りついたように動けなくなる。
「いや、僕は……」
絞り出すように漏れた声は、街の喧騒に呑み込まれた。
顔を上げると、人混みを抜けて戻ってくるラルの姿が見えた。
片手には、紐で括られた二つの蓋付き木筒を提げている。だが、その表情には明らかな焦りの色が浮かんでいた。
「ケセナ」
ファルイーアが声を出すより早く、ぴんと張り詰めた声が落ちた。
ラルは足早に近づいてくると、空いている手でファルイーアの外套の袖を掴んだ。
「帰ろう」
「え、あ……あの、ごめんなさい。僕、ファルイーアじゃなくて……!」
状況が呑み込めず戸惑う親子に向けて、どうにかそれだけを言い残し、ファルイーアはラルに引かれるまま、その場を立ち去った。
呆然とこちらを見送る親子の視線が、背中に痛かった。
広場の喧騒から少し離れた路地まで来たところで、ラルがようやく歩みを緩めた。
「ごめん。ケセナって呼んだ」
前を向いたまま、ぽつりとラルが言う。
「ううん、ありがとう。むしろ助かったし」
「そうなの?」
「『皇帝になるんじゃないの?』って言われちゃって。返答に困ってたから」
「だから『自分はファルイーアじゃない』なんて言ったの? 嘘つき」
「……咄嗟に出ちゃったんだよ」
苦笑する彼を真っ直ぐに見つめていたラルが、どこか遠くを見るように紫の瞳を柔らかく細めた。
「でも、ちょっと懐かしかった」
「え?」
「なんでもない。これ、帰ってから飲もう?」
あえて明るい声を作り、手にしていた二つの木筒を軽く掲げてみせる。
「……うん。そうだね」
ファルイーアは深く追及せず、穏やかに微笑み返した。
足元のふらつきを隠そうとするファルイーアに合わせ、ラルは何も言わず歩調を緩めた。
二人は寄り添うように肩を並べ、騒がしい広場を背にして、二人の帰る温かな家へと再び歩き出した。




