↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
116/121

第百七話 暖炉のそばで

 ファルイーアは暖炉の傍らで、静かに火の爆ぜる音を聞いていた。


 彼が今、昼夜を過ごしているのは、グレンとラルが暮らす小さな家だった。

 外へ出ることは、めっきり減った。代わりに習慣になったのは、こうして暖かい場所で本を読むことだ。文字を追っている間だけは、胸の痛みも息苦しさも、ほんの少し遠のく気がした。


 冷気を感じ、右腕に視線を落とす。

 黄金龍の紋と古傷が残る肌を目にした途端、びくりと身体が揺れた。

 慌てて袖を引き下ろし、隠そうとした拍子に本が床へ落ちた。


「……あ」


 拾おうとして身を屈めかける。

 だが、その動きだけで身体が軋み、彼は手を伸ばすことを諦めた。


 精霊を失ってから、身体は目に見えて弱っていた。

 指先は意志と関係なく小さく震え、少し長く立っているだけで足元が危うくなる。呼吸をするだけでも、肺の奥が鈍く軋んだ。


 だから近頃は、こうして暖かい場所へ逃げ込むようになった。

 暖かかった繁茂の季でさえ、身体は冷え切っていた。暖炉の火がなければ落ち着かない。ラルもグレンも、初めは暑いと文句を言っていたが、あまりに寒いと訴えたからか、収奪の季を迎えた今ではもう諦めているらしい。


 それに、読書が好きというのも半分は本当で、半分は言い訳だった。

 火の近くで静かに本を開いていれば、誰も無理に外へ連れ出そうとはしない。身体の限界を誤魔化すには、都合がよかった。


「また暖炉の前にいた」


 振り返ると険しい顔をしたラルが、つかつかと歩み寄り、床に落ちた本を拾う。


「暖かいんだよ。ラルだって知ってるでしょ」

「寝てたの?」

「……少し、うとうとしてた」

「夜巡り、ずっと魘されてるから、眠れてない?」


 そう言って、ラルはファルイーアの手首を取った。

 その途端、彼の身体がびくりと硬直する。

 けれど、ラルは何も言わなかった。

 この一星霜、ファルイーアが必死に隠し続けてきた拒絶の反射を、彼女はあえて言葉にしないで受け止めていた。


 手首のひやりとした感触に、ラルの眉が寄る。


「また冷たい」

「そうかな」


 ラルは不満そうに唇を尖らせ、そのまま彼の隣へ腰を下ろした。


「戴冠式まで、あと八夜。ファルは行くの?」


 問われ、ファルイーアは答えに詰まった。


 あと八夜。

 そこまで、この身体が持つのか。

 無意識に考えかけて――すぐにやめた。


 フィサルーアの即位。

 それを最後まで見届けるべきだという思いはある。


「……行くよ。フィサルーアに押しつけたの、僕だし、彼と約束したし」

「無理しないでね」

「うん」


 ラルは迷うように少し視線を落とし、自分の腹へ手を添え撫でた。


「……ねぇ、ファル。そろそろ子供の名前、考えないと」


 ファルイーアは数度瞬きを繰り返し、それから遅れて意味を理解し、深紅の瞳を見開いた。


「そうだね。ラルは、どんな名前がいい?」

「ファルが決めて。あなたが考えてくれた名前がいい」

「……ケセナは?」

「それは駄目って何度も言ってる」

「やっぱり駄目かぁ……」


 口ではそう言いながら、胸の奥にじんわりと熱が広がった。


 まだ見ぬ、小さな命。

 それが自分とラルの間にあるという事実は、どうしようもなく不思議で、愛おしい。


 けれど、その温もりと同じだけ、胸の底へ暗い不安も沈んでいく。

 ファルイーアはそれを押し隠すように、そっと息を吐いた。


「瞳の色は、ラルに似るといいな」

「どうして?」

「僕、ラルの紫の瞳、綺麗で好きだから」

「ファルの紅い瞳の方が綺麗」

「それ、なんだか複雑なんだけど」


 真面目に言い切られ、ファルイーアは今度は声を立てて笑ってしまった。

 笑った拍子に、喉の奥が熱くなる。

 咳き込みそうになるのを必死に堪え、彼は顔を背けた。


「ファル?」


 すぐにラルの鋭い声が飛ぶ。


「……なんでもない。ちょっと……感動で、息が詰まって……」


 苦しい言い訳だった。

 案の定、ラルの目が細くなる。


「近頃ずっと、変」


 ラルは少しだけ俯き、低い声で続けた。


「ちゃんと食べないし、すぐ疲れた顔するし、本を読んでる途中でぼーっとしてるし、立ってるだけでふらつくし。……隠してる」

「隠してないって。色々、追いついてないだけ」

「オウセイ?」

「……ケセナも、ね」

「まだ、なんだね」


 返ってきた言葉は、思っていたよりずっと強かった。

 ラルは、気づいているのかもしれない。自分がついている、この優しすぎる嘘に。


「一人で勝手にいなくならないでね」


 その一言が、胸の奥へ深く刺さった。


 いなくならない。

 そう言いたいのに、断言できない。

 身体の均衡が少しずつ崩れていることを、誰より自分が知っていたからだ。


「……うん」


 それは約束にはならない。

 ラルも、それ以上は問い詰めなかった。


 少しの沈黙が訪れ、暖炉の火が、静かに爆ぜた。


 その音に耳を澄ませながら、ファルイーアはラルから本を受け取り、ぱらりと開く。


 その刻だった。


 玄関扉が開く重い音が響いた。

 爆ぜる暖炉の火に照らされた空間へ、外気をわずかに纏った大きな影が入り込んでくる。


「二人とも、ここにいたのか」


 仕事に出ているはずのグレンが、帰ってきていた。


「グレン? どうしたの? 仕事は?」


 ファルイーアが不思議そうに小首を傾げると、隣に座っていたラルが、すっと目を細めて非難めいた視線を向ける。


「まさか、またサボり……」

「おい、ラル。俺はサボったことはない」


 即座に反論するグレンに対し、ラルは半眼になったまま、無言で抗議の意思を示した。


「……」

「信じてない顔をするな」


 師匠と弟子の遠慮のないやり取りに、ファルイーアはたまらず吹き出した。


「どうしたのさ。この昼夜は遅くなるって言ってたのに」

「ああ。南方から使者が来てな。少し手が空いたから、伝えに戻った。ガイアとキョウが戴冠式に出席するため、こちらへ向かっているそうだ。早ければ、一夜後の昼巡りには到着するらしい」

「どうして、こんなに早く?」


 理由が分からず、ファルイーアが純粋な疑問を投げかけた。


「お前の『誕生した昼夜』を、一緒に祝いたいそうだ」


 言葉の意味を理解するまでに、数息かかった。

 ファルイーアは紅い瞳を丸くし、間の抜けた声を漏らす。


「え? 祝う?」

「戴冠式は、お前の『誕生した昼夜』だろう」


 さも当たり前の事実を告げるように言われ、ファルイーアは心底不思議そうに、ぽつりと呟いた。


「……それって、祝うものなんだ」


 どこか照れくさそうにはにかむ彼を見て、グレンとラルは一瞬だけ言葉を失った。

 それでも、ファルイーアの嬉しそうな顔につられるように、二人もほんの少しだけ口元を綻ばせた。


 和らいだ空気の中で、グレンが本題を切り出す。


「それでだ。今この家にある食材では、あの大食漢を迎えるには足りないと思ってな」

「……確かに、うるさいのが好きそうなものはないかも」


 赤い髪の騒がしい兄弟子の顔を思い浮かべたのだろう。ラルは少し呆れたように同意した。


「俺は任に戻る。買い出しを頼めるか?」

「分かった。でも、ファルは……」


 頷きかけて、ラルは隣に座るファルイーアを案ずるように見やる。その視線に気づき、彼は間髪入れずに声を上げた。


「僕も行くよ」

「でも……」


 外の寒さと彼の体調を慮り、ラルが難色を示す。


「たまには外に出ないと。それに、ラルと一緒に歩きたい」


 ファルイーアは安心させるように、柔らかく微笑んだ。

 真っ直ぐに見つめられ、ラルがわずかに言葉に詰まる。彼女が反論を探すより早く、グレンの太く低い声が降ってきた。


「無理はするなよ、ファル」

「分かってるよ」

「ラル、見張ってろ」

「うん」


 見事なまでに隙のない二人の連携に、ファルイーアは不満げに唇を尖らせた。


「ねぇ、ラルは身重なのに、どうして僕だけ心配するの」

「そんなの、ファルが一番無理するから」


 ラルが息をするように即答する。


「ラルは自分の限界を知っている。お前は限界まで黙って、突然倒れるからな」


 グレンもまた、腕を組んで深く頷いた。

 逃げ場のない正論を次々と突きつけられ、ファルイーアはがくりと肩を落とす。


「……僕って信用されてない」

「されてると思ってたの?」

「酷すぎる」


 ラルの容赦ない追い打ちに、ファルイーアは大げさに天を仰いだ。


 ------


 グレンが皇宮へ戻って間もなく、ファルイーアはラルと共に街へ出た。

 冷たい外気に晒され、数歩進むだけで足元が頼りなく揺れる。それを悟られまいと必死に息を整え、何食わぬ顔でラルの歩調に合わせ続けた。


 どうにか市場を回り、目的の食材を買い揃える。店の者に家まで届けてもらう手筈を整えたところで、ラルが歩みを止めた。


「疲れたでしょ、ファル」

「え、まだ大丈夫だよ」


 すかさず笑顔を作って応じたものの、ラルは紫の瞳を細め、首を横に振る。


「うん。駄目。あそこの噴水のところで座ろ」

「……どの辺で判断してるのさ」

「色々」

「……」


 ラルは有無を言わせずファルイーアの外套の袖をむんずと掴み、広場の中心にある噴水へ連行すると、その石造りの縁に彼を座らせた。


「ねぇ、ラルも座りなよ」


 身重の彼女を立たせていることに申し訳なさを覚え、ファルイーアが隣をぽんぽんと叩く。

 だが、ラルは少し離れた場所を指さした。


「ちょっと待ってて。屋台が出てるから、あたし、温かい飲み物買ってくる」

「うん。気をつけてね」


 人混みへ向かっていくラルの背中を見送りながら、ファルイーアは小さく息を吐いた。


 座ってみて初めて、膝がわずかに震えていることに気づく。やはり、限界はすぐそこまで来ているらしい。


 ぼんやりと景色を眺めていると、視界の端で人影が揺れた。

 遠巻きにこちらを窺っていた一組の親子が、おずおずと近づいてきたのだ。


「もしかして、英雄様ですか?」

「……え」

「すみません。この子、ファルイーア様のことが大好きで」


 母親が申し訳なさそうに頭を下げる横で、男の子が目を輝かせている。


「だって、かっこよかったよ! 騎士団長の背中で、こう、手を挙げてるの!」


 男の子が真似るように小さな腕を高く掲げた瞬間、ファルイーアの心臓がどくりと重く跳ねた。


「……あ、えっと。そっか、見てたんだ」


 曖昧な笑みを浮かべながら、胸の奥がきりきりと痛む。


 ――違う。

 そう否定したかった。


 あの昼夜、グレンの背中で皆の声援に応えたのは、自分ではない。もう一人の自分とも言うべき存在、『ケセナ』だったのだと。


 けれど、真実を告げることはできず、ファルイーアは奥歯を噛み締めて口を噤んだ。


 記憶の輪郭は曖昧なのに、グレンの背から見た光景だけは、脳裏に残っている。

 あの刻の高揚も、胸に渦巻いていた感情も、薄い膜の向こうにある。分かるのに、自分のものだと思えない。その隔たりが罪悪感となって、首を絞めてくる。


「ねぇ、ファルイーア様が皇帝になるんじゃないの?」


 何の疑いも濁りもない、無垢で真っ直ぐな期待の眼差しに射抜かれ、ファルイーアは凍りついたように動けなくなる。


「いや、僕は……」


 絞り出すように漏れた声は、街の喧騒に呑み込まれた。

 顔を上げると、人混みを抜けて戻ってくるラルの姿が見えた。

 片手には、紐で括られた二つの蓋付き木筒を提げている。だが、その表情には明らかな焦りの色が浮かんでいた。


「ケセナ」


 ファルイーアが声を出すより早く、ぴんと張り詰めた声が落ちた。

 ラルは足早に近づいてくると、空いている手でファルイーアの外套の袖を掴んだ。


「帰ろう」

「え、あ……あの、ごめんなさい。僕、ファルイーアじゃなくて……!」


 状況が呑み込めず戸惑う親子に向けて、どうにかそれだけを言い残し、ファルイーアはラルに引かれるまま、その場を立ち去った。


 呆然とこちらを見送る親子の視線が、背中に痛かった。


 広場の喧騒から少し離れた路地まで来たところで、ラルがようやく歩みを緩めた。


「ごめん。ケセナって呼んだ」


 前を向いたまま、ぽつりとラルが言う。


「ううん、ありがとう。むしろ助かったし」

「そうなの?」

「『皇帝になるんじゃないの?』って言われちゃって。返答に困ってたから」

「だから『自分はファルイーアじゃない』なんて言ったの? 嘘つき」

「……咄嗟に出ちゃったんだよ」


 苦笑する彼を真っ直ぐに見つめていたラルが、どこか遠くを見るように紫の瞳を柔らかく細めた。


「でも、ちょっと懐かしかった」

「え?」

「なんでもない。これ、帰ってから飲もう?」


 あえて明るい声を作り、手にしていた二つの木筒を軽く掲げてみせる。


「……うん。そうだね」


 ファルイーアは深く追及せず、穏やかに微笑み返した。


 足元のふらつきを隠そうとするファルイーアに合わせ、ラルは何も言わず歩調を緩めた。

 二人は寄り添うように肩を並べ、騒がしい広場を背にして、二人の帰る温かな家へと再び歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。