第百六話 託された玉座
あれから一星霜が過ぎ、新たな収奪の季が訪れていた。
精霊が消え、魔術という神秘を失った皇都は、なお至る所に瓦礫を抱えたままだった。
それでも人々は立ち止まらなかった。己の手で石を運び、木を組み、土を踏みしめながら、復興の道を歩き始めている。
旧評議会は解体され、今は各地区の族長と街の代表者たちによる『代表議会』が世界の行く末を話し合っている。
空席となった皇位を誰が継ぐのか。
代表議会では一星霜にわたり、ファルイーアとフィサルーア、二人の名を候補として話し合いが重ねられてきた。
その間、フィサルーアは道観で己の罪と向き合い、懺悔を続けていた。議員たちもまた、彼と直接言葉を交わし、その罪だけではなく、人柄や皇太子として培われた資質を見極めてきた。
一方のファルイーアはグレンの屋敷へ移り住み、幾度求められても、皇帝になることを拒み続けていた。
これまで議会へ姿を見せなかった二人が、この昼夜、初めて揃って招かれた。
一星霜にわたる議論へ、最終的な結論を出すために。
議場の中央へ立たされたファルイーアに、なお多くの議員たちが皇位を求めた。
世界を救った英雄。魔人を祓い、神の干渉を断ち切った当人。彼を置いて他に誰がいるのか、と。
だが、ファルイーアはきっぱりと首を横に振った。
「僕には、無理です。皇帝にはなりません」
以前のように、力強く声を張ることはもうできない。
広いこの場所が、この刻の彼には果てしなく広く、恐ろしい空間に感じられた。
声を出すだけで息が削れる。
抜け落ちたオウセイの記憶も、ケセナという名で過ごした幸福も、もう戻らない。
残ったのは、「実験体」「兵器」「人形」と呼ばれ続けてきた『ファルイーア』という輪郭だけだった。
ただでさえ少ない食事が、近頃はほとんど喉を通らない。
『命令』という言葉を聞くだけで、冷たい地下室や血塗れの戦場へ引き戻される気がした。
本当は、すぐにでもここから逃げ出したい。
ここに立っていたくない。
それでも、ファルイーアは必死に立っていた。
兵器の頃に学んだ『痛みを隠す術』が、周囲を安心させるための『平気なふりをする仮面』として、辛うじて彼をそこに縫い留めていた。
議員たちが切実な面持ちで詰め寄る。
「しかし、世界を救ったのは貴方です! 貴方をおいて、誰がこの国をまとめられるというのですか!」
熱を帯びた声を前にしても、ファルイーアの意志は揺らがなかった。
「……僕は、『兵器』です」
静かな一言だった。
自分で口にした言葉なのに、その響きは胸の奥を鋭く抉った。
「人を治めることが、兵器にできるはずがありません。それができるのは――フィサルーアです」
その名が落ちた途端、大きなどよめきが起こった。
狂王。
戦乱の元凶。
皇帝弑逆の大罪人。
魔人に蝕まれていた事実も、この一星霜、彼が罪と向き合い続けてきたことも、議員たちは知っている。
それでも、人々の記憶から血の色が消えたわけではない。
世界を救った英雄本人が、かつて世界を壊しかけた弟へ皇位を託した。その決断への驚きと戸惑いが、波のように広がった。
「……随分と高く買われたものですね」
ざわめきを断ち切る冷え切った声が響いた。
「黙って聞いていれば、何ですか」
壁際に凭れていたフィサルーアが、身体を起こす。
絢爛な衣装ではなく、飾り気のない喪服のような黒衣を纏い、静かな足取りでファルイーアの隣へ進み出た。なお向けられる警戒も恐れも、彼は一顧だにしなかった。
「そんなフィサルーアが相応しいと、僕は思ってる」
ファルイーアが真っ直ぐに告げると、フィサルーアは呆れたように肩を竦めた。
「……どこがです? 私はこの世界を崩壊させかけた反逆者ですよ」
「世界を治めるために必要なものを、君は持ってる」
自嘲する弟へ、ファルイーアは静かに言った。
「君は皇太子として育てられ、“陛下”の背中を一番近くで見てきた。僕は何一つ知らない」
未だに亡きリュウショウを『父』と呼べず、ファルイーアはかすかに苦笑を零す。
「僕は、いつだって『人形』だったから……でも、フィサルーアは違う。王として立てる『人』だよ」
そこで一度息を継ぎ、ファルイーアは居並ぶ全員に聞こえるように告げた。
「僕が“自分の意志”で戦ったのは、それが唯一、僕に残されていた願いだったから。僕のせいで虐げられる応龍族を救いたかった。ただそれだけ」
辺りは完全な沈黙に包まれた。
彼の中に残る傷の深さと、弟へ向けられた純粋すぎる願いに、空気が少しずつ変わっていく。
ファルイーアはフィサルーアの腕を掴み、自分と入れ替えるように彼を議場の中央へ立たせた。
「フィサルーアは、性格が、ちょっとあれだけど」
「……兄上?」
「皇帝には、この僕がフィサルーアを推薦します」
真顔で告げられたその一言に、張り詰めていた空気がほんのわずかに緩んだ。
「……性格がちょっとあれとは? そもそも、私に皇位を押しつけたいのか、貶したいのか、どちらかにしていただけますか」
「純粋に押しつけたいだけだよ」
「そうですか。しかしながら、貴方はなぜいつも感情論を先に押し出すのです? 皆は貴方に期待を寄せている。それに応え努力しようとする気概が、微塵も感じられない」
「え、あ、いや、僕の意見――」
「ここは貴方の意見だけで決まる場ではありません」
「えっ、ちょっとそれはどうなの」
フィサルーアの理詰めに押され、ファルイーアがしどろもどろになる。
その光景に、あちこちから、はっきりとした笑いが漏れた。
泥人形でも狂王でもない。
ただ兄に振り回されている、面倒くさい弟にしか見えなかったからだ。
「かかか! 良いのではないかの。我らは『王』の意志を尊重するわい」
一際大きく、静寂を破るようにツェヴァンが声を上げた。
それにレイアも静かに頷き、続く。
「決意は固いようだな、遺児よ」
「……すみません、レイア様。僕、勝手に決めてしまいました」
「良い、遺児よ……いいや、ファルイーア」
レイアはそこで言い直し、慈しむような目を彼へ向けた。
「お前は、搾取されすぎた。もう解放されるべきなのだ」
その言葉に、ファルイーアは仮面の奥でわずかに目を伏せた。
少し離れたところでは、ガイアがその光景を微笑ましく眺め、黙って聞いていた。
ファルイーアが決めたことに、彼が口出しする気はない。彼が、彼らしく笑っていてくれるなら、それでいいのだ。
「で? 戴冠式はいつにすんだよ?」
ガイアがわざとらしく大きな声を上げ、とりあえずの議題を皆へ投げつける。
その一言で、止まっていた刻が再び動き出した。誰もが『フィサルーアの即位』を当然の帰結として、実務の話し合いへ意識を切り替えていく。
そうして、代表議会でフィサルーアの皇位継承は正式に可決された。
戴冠式は三十夜後、フィサルーアの、そしてファルイーアの誕生した昼夜と定められ、議会は閉会した。
------
最後の一人が議場を出て、重厚な扉が鈍い音を立てて閉まる。
広い空間に残されたのは、ファルイーアとフィサルーアだけだった。
途端に、安らぎとはほど遠い、冷え切った沈黙が流れ込む。
ファルイーアは一番近くにあった卓へそっと手をつき、誰にも気づかれないように小さく深呼吸をした。
立っているだけで胸が鉛のように重い。全身の骨が軋み、視界がかすかに揺れる。けれど、それを目の前の弟に悟らせるわけにはいかなかった。
「……随分と勝手をしてくれますね」
先に口を開いたのはフィサルーアだった。
黒衣の裾を翻し、ファルイーアの数歩手前で立ち止まる。その横顔は、彫像のように冷え切っていた。
「私に何の相談もなく、議場のど真ん中で皇位を押しつけるとは、私の意志は無視ですか」
「相談したって怒るでしょ」
あまりにもあっさり返されて、フィサルーアの眉がわずかに寄る。
「……では、答えてください。なぜ私なのです」
「王に向いてるから」
「ふざけないでいただきたい」
声音は低い。
だが、その底にあるのは怒りだけではなかった。犯した罪の重さと、許されることへの戸惑いが、声の端をわずかに震わせていた。
「私はこの世界を壊しかけた反逆者です。父上を殺し、評議会を乗っ取り、魔人の手先として人を踏みにじった。そんな男に玉座を差し出すなど、理屈が分かりません」
ファルイーアはしばらく黙り込む。
それから、絞り出すように静かに口を開いた。
「僕には無理だから」
真紅の瞳が、誤魔化すことなく真っ直ぐフィサルーアを見る。
「僕が教えられてきたのは、人を殺すことだけ。世界を治めるっていうのは、人を生かすことだよ」
フィサルーアの指先が、黒衣の袖をきつく握りしめた。
「……人なら、私も殺しましたよ」
「だけど、君は人を生かすことを知っている」
「貴方がこれから学べばいいことです」
「それが無理だって言ってるんだよ」
ファルイーアの声は、驚くほど穏やかだった。
その穏やかさが、フィサルーアには恐ろしかった。
「理由を、述べてください」
「僕は、そういう風には“作られてない”から」
冷水を浴びせられたように、フィサルーアの言葉が止まる。
「君は“作られた”。王になるために、学んできた。覚えてきた。身につけてきた」
二人の間に、深い沈黙が落ちた。
フィサルーアはしばらく何も言えなかった。
自分の血肉となっているものは、本来なら目の前の兄に与えられるはずだったものだと、誰よりも理解しているからだ。
やがて、耐えきれないように低く吐き捨てる。
「……残酷な人ですね」
「僕はその残酷の中にしかいられない。出て行けない。だから、フィサルーアにお願いしたい」
「……兄上。私も、その中の一人です」
フィサルーアは自嘲するように、自らの罪を並べ立てた。
「貴方のものだったはずの人生を生き、貴方のものだったはずの父を、世界を、奪った。それでも王座に座れと?」
「座ってよ。フィサルーアは出て行ける」
勢いよく、フィサルーアが目を見開く。
「残酷な世界を、君は作り替えられる」
「……っ」
「だって、君は生きていける」
その言葉に、フィサルーアの唇がかすかに歪んだ。
笑ったのか、怒ったのか、泣きそうだったのか、自分でも分からない歪み方だった。
ファルイーアは静かに言った。
「僕はもう十分、苦しかったから。君は、これからずっと残る。だから、君はちゃんと生きて」
それは皇帝へ向けた言葉でも、反逆者へ向けた言葉でもない。
ただ一人の兄から弟へ向けられた、剥き出しの願いだった。
しばらくして、黒衣が翻る。
「……三十夜後、出席してください。貴方が決めたことです。最後まで見届ける義務がある」
「分かってる」
それで会話は終わったはずだった。
だが、扉へ向かって歩き出したフィサルーアが、ふいに足を止める。
「……一つだけ」
振り返らないまま、ぽつりと低い声が落ちた。
「なぜ、そこまでして私に託せるのです?」
ファルイーアは少しだけ考えてから、答えた。
それは誰の受け売りでもない、彼自身の魂が導き出した、たった一つの答えだった。
「君は、僕だから」
ただ、それだけだった。
言葉の真意を悟ったのか、フィサルーアの背を覆う黒衣の肩が、ごくわずかに揺れた。
「……そうですか」
感情を硬く押し殺した声だけを残し、彼は今度こそ扉の向こうへ消えていった。
分厚い扉が静かな音を立てて閉まり、一人残されたファルイーアは、辛うじて自分を縫い留めていた『平気なふり』の仮面が限界を迎え、砕け散るのを感じた。
膝から、力が抜ける。
卓に置いた指先が滑り、支えを失った身体が、その場へ崩れ落ちた。
息を大きく吸うが、空気が肺に入ってこない。
胸の奥には消えない痛みがある。
それでも、一つの役目だけは終えたのだと、かすかに思えた。
どれほどそうしていたのか。
やがて呼吸が僅かに落ち着くと、ファルイーアは卓へ縋りつき、震える足で立ち上がった。
ファルイーアがどうにか議場を後にした頃には、昼巡りも終わりへ傾きかけていた。
人目を避けるように歩き出す。
無理を重ねた足は、かすかに引きずられていた。




