【幕間】猟犬の檻の兵器
オーレルディアの皇宮の最奥。
光の届かない、冷え切った裏庭へ続く階段の陰に、先帝が飼っていた猟犬の檻が残されていた。
かつて獣を閉じ込めていたその場所は、いつしか一人の幼子を『応龍の兵器』へ造り変えるための、凄惨な工房と化していた。
「――ぁ……っ、あぁぁぁぁぁぁっ!!」
鉄格子の中に、鼓膜を劈くようなファルイーアの悲鳴が響き渡る。
魔力を持たないグレンに代わり、魔術的な調教と改造を担っていたのは、魔術団長ルーデンス・ベラリティルだった。
彼は冷徹な灰色の瞳で術式を編み上げ、ファルイーアの小さな身体の奥底に眠る規格外の魔力を、引きずり出し、広げ、無理やり器へ馴染ませていく。
九星霜齢の身体には到底耐えられない負荷だった。
けれど、その力はすでに二人の警護兵の命を奪っていた。
一星霜前、園庭で暴走した応龍の魔力が、止めに入った警護兵を焼き尽くしたあの刻から、ファルイーアはただの幼子ではいられなくなった。
リュウショウは彼を守るのではなく、兵器として運用する道を選んだ。
脳が焼き切れるような高熱と激痛に、ファルイーアは身をよじり、石畳を掻きむしった。
濡れた紅い瞳が、鉄格子の向こうに立つ黒い影を捉える。
グレン・ラティア。
黒目、黒髪の騎士だ。
六星霜前、その大きな手が自分の手を握り返し、地下室の地獄から救い出してくれた。
だから、また救ってくれる。
ファルイーアは、そう信じていた。
「ぐ……れん……っ」
助けを求めるように細い手を伸ばす。
グレンは、思わず顔を背けた。
それでも術式は止まらない。
ルーデンスが、さらに魔力を込めた。
「ああああっ、グレン……っ、たすけ……っ」
「随分と鳴くようになりましたね。我が屋敷の地下にいた頃は、まったく鳴かぬ物体だったというのに」
「ルーデンス、もういいだろう! これ以上は身体が持たん!」
見かねたグレンが叫ぶ。
ルーデンスは淡々と術式を解いた。
「限界ですか。……これは、そういうものとして造られたのでしょう?」
苦痛から解放されたファルイーアの身体が、びくびくと痙攣する。
ルーデンスはその様子を観察するように見下ろし、薄く口元を歪めた。
「……まあ、良いでしょう。この昼夜の『拡張』はここまでにしておきます」
彼が立ち去ったあと、檻の中には、荒い息を吐きながら痙攣する小さな身体だけが残された。
グレンは奥歯を噛み締め、鉄格子の中へ足を踏み入れる。
「ファルイーア」
痙攣し続ける身体をそっと抱き上げ、グレンはその震えが落ち着くのを待った。
ファルイーアの紅い瞳が、ぼんやりとグレンを見る。
「グレン……ぼく……」
「お前は、人を殺めた。だから、その力を正しく使うために、これは必要なことだ」
「…………グレンがいてくれるなら、ぼく、がんばる」
「そうか……偉いぞ、ファル」
グレンはファルイーアを抱き締めた。
これは幼子の強がりだ。
痛くて、怖くて、逃げ出したいに決まっている。
それでも、三星霜齢までその身に受けていた実験の続きではないのだと、グレンはそう言い聞かせるしかなかった。
「腹は空かないか?」
「……うううん、空かない」
「ファル。食べた方がいい」
痛みに朦朧とするファルイーアの首根っこを掴み、グレンは無理やり上体を起こさせた。
魔力の拡張に耐えるには、最低限の肉体の体力が必要だ。
どれだけ本人が拒んでも、食わせなければならない。
「食べろ。口を開けろ」
持ってきていた冷めた粥を、無理やり口の中へねじ込む。
だが、ファルイーアは二口ほど飲み込んだ直後、たまらず「おえっ」とえずき、泥まみれの石畳の上へ粥を吐き戻してしまった。
「ごめ、なさ……っ、げほっ……!」
涙と吐瀉物にまみれてむせ返るファルイーア。
その痛ましい姿に、グレンの胸は千切れそうだった。
それでも彼は、椀に残る粥を再びファルイーアの口元へ押し当てた。
「飲み込め」
「ぅ、あ……っ」
「吐き戻しても飲み込め。……死にたくなければ、食え」
食べなければ死ぬ。
食べさせれば、苦しめる。
どちらを選んでも、この子を傷つけることに変わりはなかった。
嫌で、嫌で仕方がなかった。
こんな拷問のような昼夜を、いつまで続ければいいのか。
だが、その歪んだ情は、やがて騎士団全体へ暗い影を落とし始めた。
執務室に戻ったグレンは、重苦しい顔をした副団長エンジに詰め寄られていた。
「団長。最近のあなたは異常です。……あの檻の『人形』にかかりきりではないですか」
「……俺は、陛下の勅命に従い、兵器の管理をしているだけだ」
「兵器に自ら餌を与え、顔を青ざめさせる騎士団長がどこにいますか!」
エンジの声には、怒りだけではなく、切実な焦りが滲んでいた。
「団長が人形に固執し、判断を鈍らせていると……騎士団内で士気が低下し、不満が噴出しています!」
副団長の悲痛な訴えに、グレンは言葉を返せなかった。
そこへ、静かに執務室の扉が開いた。
入ってきたのは、魔術団長ルーデンスだった。
「副団長の言う通りです」
静かな声だった。
だが、その響きは刃のように冷たい。
「貴方は、あの人形に『心』を残している。……リュウショウ陛下は、世界を背負うためにあの憎悪すら飲み込み、兵器として利用する道を選ばれました。貴方はどうなのです?」
「俺は……」
「選ぶのです、騎士団長グレン・ラティア」
ルーデンスが冷酷に告げる。
「貴方がその剣で守りたいのは、この世界を統べる親友か。それとも、あの人形か。……両方を救うなどという甘い幻想は、とうに消え失せているはずですがね」
リュウショウか。
ファルイーアか。
二択を突きつけられ、グレンは己の無力さに絶望した。
もしここでファルイーアを選べば、反逆者として騎士団は崩壊する。
ガイアたちにも累が及ぶ。
リュウショウも守れない。
大人として、騎士として、選ぶべき道は一つだとわかっている。
それでも。
自分の手を握り返す震える小さな手を。
よく笑い、よく泣き、よく怒っていた、あのファルイーアを。
どうしても、見捨てることができなかった。
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苦悩の昼夜は続いた。
やがてファルイーアは、少しずつ口数を減らし、泣き叫ぶことをやめていった。
その昼夜も、調教を終えた彼は、軋む身体をどうにか持ち上げた。
鉄格子の向こうでは、グレンとルーデンスが何かを言い争っている。
首だけを動かして檻の入口を見ると、錠が下りていなかった。
扉が、うっすらと開いている。
(逃げられる……っ)
ファルイーアは二人に気づかれぬよう、そっと檻を抜け出した。
どこをどう歩いたのかはわからない。
皇宮の最奥は皇族のみの区画で、もともと人は多くない。幸いにも、奇跡的に誰の目にも留まらず、彼は突き当たりの扉へ辿り着いた。
きっと、この先は外だ。
なぜか、そう信じて押し開ける。
だが、そこはただの部屋だった。
豪奢な寝台に、執務机。
けれど、その先に大きな窓がある。
ファルイーアは縋るように窓へ駆け寄った。
とにかく、裏庭ではない外へ出たかった。
背伸びをして窓枠に手をかける。
ひ弱なファルイーアの腕力では、身体は持ち上がらない。
それでも必死に、窓枠へかかった指に力を込めた。
「……あっ」
指が滑り、窓枠の端へぶつかった。
かちり、と小さな音がする。
ファルイーアは驚きに目を見開いた。
窓の下に、小さな扉が現れていた。
迷うことなく、その扉を開けて飛び込む。
飛び込んだ先にも扉があり、さらに開ける。
すると、そこは土の隧道だった。
補強され、崩れぬよう整えられた古い道。
ファルイーアが上を見回しながら歩いていると、ふいに何かを踏んだ。
慌てて足元を見る。
そこには、古ぼけた一本の箒が転がっていた。
「あなたは、だあれ?」
箒に話しかける。
もちろん返事はない。
けれどファルイーアは、誰かと話がしたかった。
「僕はファルイーア。名前、グレンくれたの。だから、僕があなたに名前をつけてあげる」
箒は沈黙したままだ。
それでも、ファルイーアは続けた。
彼の耳には、返るはずのない声が聞こえている。
箒が笑っている。
あの優しい兄や姉のように、柔らかく語りかけてくる。
それほどまでに、彼の精神は限界だった。
「ケセナ。ケセナ・レフィード。それがあなたの名前。僕が一番大好きな絵本の人なんだよ」
忘れかけていた絵本を思い出して、箒にそう名づけた。
ずっと笑っていたかった。
けれどその感情は無情にも遮られた。
「――ここにいたのか、ファルイーア」
冷えた隧道に、低い声が落ちた。
振り返れば、そこには知らない男が立っていた。
蒼い髪と、琥珀色の瞳。
ファルイーアは箒を握り締め、後退りする。
「違う……っ、僕は、ファルイーアじゃない。ケセナ、ケセナ・レフィードだもんっ」
幼い声で、必死に否定する。
蒼髪の男は、しばらく何も言わなかった。
ただ、その琥珀色の瞳で、傷だらけの幼子を静かに見下ろしている。
「名を変えたところで、お前の中身は変わらん」
「ちがう……っ」
「お前の否定に意味はない。俺が探しているのは、お前という子供ではない」
感情のない声だった。
「お前の中にある、応龍の力だ」
「……おう、りゅう……?」
「そうだ。世界を守るために必要な力だ」
その声に怒りはなかった。
憐れみもなかった。
必要なものを必要な場所へ戻すための、冷たい合理だけがあった。
怯える紅い瞳も、痩せ細った手足も、震える唇も。
そのどれにも、意味を見出してはいない。
彼が見ているのはただ一つ。
この小さな身体の奥底に眠る、絶対守護の応龍の力だけだった。
「お前自身の意思は、今は必要ない」
その言葉は、幼いファルイーアの胸を冷たく貫いた。
自分ではない。
この男も、自分を見ていない。
見ているのは、自分の奥にある何かだけ。
「いやだ……戻りたくない……っ」
「戻るぞ」
「いやだっ、ぼくは、ケセナだもん……っ!」
「それでも、お前はファルイーアだ」
オウセイは一歩近づき、細い肩へ手を伸ばした。
「その力を応龍へ繋ぐ。それがお前に与えられた役割だ」
「やだ……っ、やだ、グレンのところ、戻りたくな――」
「聞く必要はない」
冷たく言い捨て、彼はファルイーアの肩を掴み上げた。
戻りたくないと泣き叫ぶ声を聞きながらも、彼は顔色ひとつ変えない。
ただ必要なものを回収するように、暗い隧道を引き返していった。
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その夜巡り。
再び冷たい檻を訪れたグレンは、これまで僅かに残していた『人としての揺らぎ』を、完全に押し殺していた。
後ろに控える副団長エンジと複数の騎士団員が冷ややかにファルイーアを見下ろしている。
「……ぁ……」
痛みに蹲っていたファルイーアが、足音に気づいて顔を上げる。
どんなに痛いことをされても、吐いたものを食べさせられても、グレンだけは自分を殺そうとはしない。
唯一の『家族の温もり』の残り香。
ファルイーアは震える身体を引きずり、縋るように手を伸ばした。
そして、グレンの黒い外套の裾を弱々しく握りしめる。
「グレン……っ」
泣き腫らした顔で、縋りつく幼子。
だが。
グレンは、自分の外套を握るファルイーアの手を、力任せに払い退けた。
「あ……」
石畳に放り出され、痛みに手を押さえて呆然とするファルイーアを、グレンは氷のように冷たい瞳で見下ろした。
一切の感情を殺した目だった。
「――命令するまで、俺に近づくな」
それは、ファルイーアという存在を『人間』から『物』へと決定的に叩き落とす、最後の一撃だった。
グレンはそれ以上何も言わなかった。
ただ食事の椀だけを無造作に置き、振り返ることなく檻を出ていく。
重い鉄の扉が閉まり、団員たちと共に去って行く。
一人残されたファルイーアは、払い退けられた自分の手を、虚ろな目で見つめていた。
痛い。
暗い。
苦しい。
なぜ、グレンは自分を突き放したのだろう。
『命令なく、俺に近づくな』
その言葉が、熱に浮かされた脳内で何度も反響する。
やがて、限界を超えたファルイーアの精神は、自らを守るために一つの『歪んだ答え』を導き出した。
(……僕が、ちゃんとできないからだ)
痛いと泣くから。
吐いてしまうから。
魔力を上手に使えないから。
ちゃんとできない、悪い子だから、嫌われた。
(ちゃんとできたら……『めいれい』どおりにいい子になったら……きっとまた、ほめて……あたまをなでてくれる……)
ぽきり、と。
ファルイーアの中で、何かが折れた。
痛くても泣かない。
苦しくても吐かない。
ただ、命令された通りに敵を殺すだけの存在になればいい。
そうすれば、褒めてくれる。
そうすれば、生きていける。
褒めて。
褒めて。
生きたい。
生きたい。
生きたい――。
その剥き出しの生存本能だけを核として残し。
猟犬の檻の中で、よく笑い、よく怒った金糸の髪の少年は完全に壊れ、二度と戻らない虚無の淵へと沈んでいった。
残されたのは、命令だけを待つ殺戮兵器『ファルイーア』だった。




