第百五話 笑顔という名の、最後の戦場
世界の結界が再構築され、地上から精霊の気配が消えた。
それから何度か目覚めと眠りを繰り返し、ファルイーアは焦点の合わない瞳で寝台の上に座り込んでいた。
オウセイの記憶は失われ、ケセナという名で過ごした幸福さえ、その輪郭を大きく薄れさせていた。
「……」
ふと視線を落とす。
右手の甲から腕にかけて刻まれた無数の古傷が目に入り、彼はびくりと肩を揺らした。
急いで長い袖を引っ張り、傷を隠すように強く握りしめる。
この身体は、顔以外のほとんどに同じような古傷が残っている。
誰にも見られたくない。
それは、悲しいほど身体に染みついた癖だった。
こん、こんと木扉が叩かれた。
ぼんやりと眺めていると、扉が開き、グレンが姿を見せた。
「ケセナ、ご飯持ってきたよ」
その後ろから、盆を持ったラルが声をかけた。
言ってから、ラルは小さく息を呑む。
ファルイーアが、不思議そうに首を傾げたからだ。
「…………ああ、僕のこと?」
「他に誰がいるの」
「そうだね。僕だった」
『ケセナ』の名に、すぐ反応できない。
それだけで、今の彼がどれほど自分自身の輪郭を保てていないかが、残酷なほど明らかだった。
寝台から降り、備え付けられた卓へ歩く。
ふらつく足が重たかった。
「急がなくていい」
グレンは椅子を引き、優しい黒い瞳でファルイーアを見つめ、手を差し伸べた。
それが嬉しくて、ファルイーアはふわりと笑顔を作った。けれどなぜかグレンの手が取れず、目を背けた。
「……うん」
座ると、ラルが卓に盆を置いた。
ファルイーアは、目の前に置かれた温かい汁物と麦餅を見つめたまま、微動だにできなかった。
「……っ」
かつてのケセナのように無邪気に振る舞うことも、オウセイのように飄々と手をつけることもできない。
指示がなければ、食事を摂るという行為すら始められなかった。
あまりにも静かな様子に、グレンは普段と同じ調子で声をかけてしまった。
「冷めるぞ。さっさと食べろ」
――その一言だった。
ファルイーアの身体が、石のように強張り、瞳から一切の光が消えた。
人としての感情が抜け落ちた、無機質で空ろな紅い瞳。
言葉を発することはない。
ただ、グレンの『命令』にのみ従ったあの頃のように、ファルイーアは無言で匙を手に取り、異常な速度で食事を口へ運び始めた。
「ファルイーア、なにを……」
グレンが顔を顰めた、その直後だった。
「……っ」
胃を持たない身体が、急激に流し込まれた食べ物を拒絶し、激しく痙攣した。
喉の奥から、強烈な吐き気が逆流してくる。
だが、ファルイーアは吐き出さなかった。
両手で自らの口を、息が詰まるほど強く塞ぎ込む。
せり上がってきたものを、喉を鳴らして無理やり飲み下した。
内側を焼かれるような激痛。
息ができず、瞳から生理的な涙が溢れ落ちる。
それでも彼は口を塞いだまま、虚ろな瞳で咀嚼を続けた。
兵器だった頃、グレンの命令は絶対だった。
『食わなければ死ぬ。だから食べろ』
『吐き出すな。飲み込め』
そう命じられ続けてきた。
だから、グレンの「食べろ」という言葉は、彼にとってただの食事の合図ではない。
吐き気を飲み下し、激痛に耐えてでも腹に詰め込まなければならない、絶対の命令だった。
「ファル……!? やめろ、吐き出せ!!」
グレンの顔から、一瞬で血の気が引いた。
何気なく口にした言葉が、彼をふたたび凄惨な過去へ引きずり戻してしまった。
涙を流しながら、吐き戻したものを飲み込んでまで従おうとする痛ましい姿に、グレンは弾かれたように立ち上がる。
そして、ファルイーアの手を口元から引き剥がした。
「吐け! 命令じゃない。もう戦わなくていいんだ。だから……!」
しかし。
グレンの手が触れた瞬間、ファルイーアの瞳が異常なほど見開かれた。
彼は、自分の腕に触れた大きな手を、何か恐ろしいものでも見るように凝視する。
「う、ああああああああっ!!」
吐瀉物の残る口を大きく開け、ファルイーアはかつてないほどの恐慌状態に陥った。
「!?」
「ケセナ!?」
異様な悲鳴に、固まっていたラルも慌てて駆け寄る。
ファルイーアは椅子ごと後ろへ倒れ込み、這うようにして二人から遠ざかろうとした。
「先生っ、これ……!?」
震えるラルの声に、グレンは己の手を見つめ、血を吐くような後悔に顔を歪める。
治ったはずの接触への恐怖が、最も凄惨な形で彼を襲っていた。
「……まずは、口の中の物を吐かせる!」
グレンは悲痛な決意で、暴れるファルイーアの身体を背後から強引に押さえ込み、流し台へと抱え込んだ。
触るな、と訴えるように抵抗する身体を押さえつけ、無理やり背中を擦る。
そうしてようやく、ファルイーアは口にしたものをすべて吐き出した。
熱と悪寒に震えるファルイーアは、焦点の合わない瞳をグレンへ向ける。
自分を捕まえていた大きな手が緩んだ隙に、弾かれたように流し台から走り出した。
向かったのは、光の届かぬ部屋の暗い隅。
彼はそこで膝を抱えて蹲り、グレンに掴まれた腕を、皮膚が赤く剥けるほど必死に、狂ったように擦り続けていた。
――誰も彼に触れられなかった、あの頃とまったく同じだった。
グレンとラルは、部屋の隅で震え続けるファルイーアを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
やがて、ファルイーアの身体がぐらりと崩れ落ちた。
「ファル!」
グレンが駆け寄って抱き上げると、ファルイーアは完全に気を失っていた。
「先生、ケセナ、治ってたのに……」
「ああ。記憶が抜け落ちたせいだろう。ラル、辛いと思うが、見ててやってくれ」
「うん」
グレンはファルイーアを抱き上げ、寝台へ運んだ。
ラルが、寝台の横を通り過ぎようとした刻、ふと枕元に置かれた一冊の古びた本に目が留まった。
「絵本?」
何度も何度も読まれたのだろう。
表紙はすり切れ、頁の端が丸くなっている。
「それはファルが好きだった絵本だ。そこの本棚に入れてたんだが、引っ張り出してたんだな」
グレンは表紙しか知らなかったその絵本を横目に、ファルイーアを静かに寝かせた。
ラルが何気なく絵本を手に取り、頁を捲る。
そして、ある一文に目を落とした瞬間、表情を凍らせた。
「ケセナ……?」
絵本の本文に、『ケセナ』という文字があった。
グレンもラルの肩越しに覗き込む。
そこに書かれていたのは、主人公アイダ・ローエンの友達であり、明るく正義感に溢れ、どんな刻でも主人公を助け続ける勇敢な少年ケセナ・レフィードだった。
ラルが、震える手でそっと絵本を机に戻そうとした、その刻。
「……僕、ケセナになりたかった」
寝台から、消え入りそうな声が響いた。
いつの間にか意識を取り戻していたファルイーアが、横たわったまま真っ直ぐな紅い瞳をこちらに向けていた。
「人を助けて、世界を旅して、僕は生きたいって思ってた。でも無理だった。僕は、兵器だから」
「ファルイーア、これからすればいい。できるんだ、お前はこれから……!」
縋るようなグレンの言葉に、ファルイーアは弱々しく首を振った。
「グレン、僕は……」
言葉の先は続かなかった。
再び焦点の合わぬ瞳になり、虚空を見つめたかと思うと、全てを諦めたように眠りの闇へ落ちていった。
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そんな昼夜が続き、とうとうファルイーアは高熱を出して寝込んだ。
寝台の中で、熱に浮かされた頭で静かに悟る。
自分が壊れているから。
兵器としての呪いから抜け出せず、ケセナという理想にもなれないから、自分を『人』にしてくれた人たちに、こんなにも悲しい顔をさせてしまう。
(……隠さないと)
怯えも、身体の軋みも、食べられないことも。
全部、見えないように隠してしまえばいい。
オウセイのように飄々と。
あの絵本の『ケセナ』のように無邪気に。
『笑顔の仮面』を被れば、グレンもラルも、自分を責めずに笑っていてくれる。
それが、空っぽになった彼が最後に選んだ、人としての役割だった。
ファルイーアは、重い身体をどうにか引きずり起こし、寝室の鏡の前に立った。
映っているのは、青白く血の気のない、落ち窪んだ目元の自分だった。紅い瞳が妙に目立つ。金髪の色素が抜け淡くなっているようにも感じた。
どう見ても限界を迎えているその顔を、両手でぱんっと叩く。
「……よし」
口角を上げる。
痛みを奥底へ沈め、一番彼らが安心する笑顔を顔に貼り付けた。
何度も、何度も練習する。
気を抜けば虚ろな兵器に戻ってしまいそうになる自分を、強い意志の糸で縛り上げる。
少しだけ自然に笑えるようになった気がして、ファルイーアは小さく息を吐いた。
一度だけ静かな瞬きをして、ファルイーアはふらつくことすらも隠しながら立ち上がり、部屋を出た。
隣の暖炉のある応接室へ顔を出すと、卓で茶を飲んでいたグレンとラルが、弾かれたように振り返った。
これまでの凄惨な出来事を引きずり、二人の顔は痛ましいほどに強張っている。
「ファル!? お前、まだ寝ていないと……」
「ごめん、二度寝したらすっかり遅くなっちゃった」
あっけらかんと笑って見せる。
二人は信じられないものを見るように、目を丸くした。
「身体は……もういいのか」
「うん。心配かけてごめん。熱が下がって、やっと意識がはっきりしてきたよ。魔力を失ったことも忘れて使おうとしていたから、身体が混乱してたみたい」
冗談めかして笑う。
身体はまだ痛み、立っているだけで眩暈がした。
それでも、彼は微塵も表に出さなかった。
「……本当に、大丈夫なの?」
ラルが疑うように紫の瞳を細める。
ファルイーアは、彼女の頭を軽く撫でた。
触られたことに驚き、ラルがファルイーアの手をじっと見つめる。
「平気だよ。でも……最近ちょっと疲れやすいからさ。僕はもうしばらく、部屋の中でゆっくりしようかな」
「分かった。でも無理しないで」
「ありがとう、ラル。それから……」
ファルイーアは、ほんの少しだけ躊躇った。
それでも笑顔を貼り付けたまま、静かに告げる。
「僕のこと、『ファルイーア』で呼んでもらっていい?」
「え? なんで?」
「ごめん。ケセナがちょっと遠くて。誰のことを呼ばれてるのか、認識できないことがあるみたいだから」
「……うん、頑張る」
「ごめんね」
優しく謝罪し、彼は暖炉の前の長椅子へ腰を下ろした。
傍らにあった本を開き、何でもないように頁を捲る。
「ここ、一番あったかくて落ち着くし。……いいでしょ、グレン? 僕、少し長めの『休養』をもらっても」
穏やかな笑み。
あまりにも自然な振る舞い。
グレンはちくりと胸に刺すものを感じつつ、それでも安堵している自分を受け入れた。
まだ完全に安心していいわけではないだろう。
けれど、少し前までのような空ろな残骸ではなく、ファルイーアが自分から意志を持って『休む』という選択をしてくれた。
そのことに、確かな救いを感じているようだった。
「……ああ。お前の好きにしろ」
その言葉を聞いて、ファルイーアは本に視線を落としたまま、誰にも気づかれないようにそっと息を吐いた。
(……これでいい)
心の傷も、身体の軋みも、食べられないことも。
全部、この笑顔の裏に隠してしまえばいい。
自分が『怠惰で平和な青年』を演じきれば、彼らはもう、自分を責めることなく笑っていてくれる。
そうしてファルイーアは、暖炉の前を、自分の最後の戦場と定めた。
それが命を削る選択だと、知っていた。
それでも彼は笑う。
愛する家族に、これ以上悲しい顔をさせないために。
一星霜に及ぶ、優しすぎる嘘の始まりだった。




