第百四話 ファルイーア・ク・フェスカ
目覚めは、とても静かだった。
頭の中が、不自然なほど軽い。
記憶を失ったわけではない。けれど、自分を支えていた芯だけを抜き取られたような空虚さを抱え、彼はゆっくりと瞼を開けた。
違和感がある。
その正体を掴もうと数度瞬きをしてみるが、脳の奥に張りついた靄は晴れない。もどかしさを覚えながら、のそのそと身を起こし、頭を掻いた。
「なんだろう……」
ふと顔を上げると、窓硝子に一人の青年の姿が映っていた。
無意識に眉を顰める。
「……僕だ」
硝子に映る、自分自身の姿。
けれど、見れば見るほど何かが噛み合わない。
彼はゆっくりと目を伏せた。
決定的な何かが欠けている。なのに、それが何なのか、どうしても掴めない。
「何か、失った気がするけど……」
ぽつりと零し、もう一度、彼は硝子に映る自分を真っ直ぐ見つめた。
「……?」
こてり、と首を傾げる。
見返してくる瞳は、血のように濃く、それでいて澄み切った紅だった。
こんな色だっただろうか。
そこにあるのは、自分を偽っていた『茶』でもない。
最後に持っていたはずの柔らかな『琥珀』でもない。
そして、感情を殺した兵器としての『虚ろな紅』とも違っていた。
いや、そもそも――自分はどんな色の瞳で、この世界を見ていたのだったか。
不確かな自分自身を見つめ続け、どれほどの刻が過ぎただろう。
思考を断ち切るように、背後の木扉が開いた。
そのかすかな音に、彼の身体がびくりと跳ねる。
「あ。起きてたの? ケセナ」
振り返った先、扉の隙間から赤みがかった金髪の少女が顔を覗かせていた。
ラルだ。
彼女のことは、はっきりと分かる。
なのに、やはり何かが違っていた。
彼女の口から発せられた『ケセナ』という名が、ひどく遠い。他人の名を呼ぶ声のように響いたのだ。
「どうしたの? どこか痛い?」
心配そうに眉を下げ、ラルが駆け寄ってくる。
彼は、その小さな身体が近づいてくるのを、ただ無言でぼんやりと見つめることしかできなかった。
「ケセナ……?」
紫の瞳が、不安げに覗き込んでくる。
その直後、『揺らぎ』という言葉が脳裏をよぎった。
彼の内側からすっぽりと抜け落ちていたものの正体が、じわりと輪郭を持つ。
それは、『蒼髪の救世主』としての、あまりにも膨大で冷徹な記憶のすべてだった。
だが、胸の中に穿たれた穴は、それだけでは説明できない。
もっと根源的な、自分を自分たらしめていた何かまで失われている気がした。
ぼんやりと身を起こしたままの彼の額へ、ラルの小さな手がふわりと置かれる。
「熱ある? ケセナ?」
ひんやりとした掌。
けれど、熱はない。彼女もそれに気づいたのか、不思議そうに紫の瞳を瞬かせた。
違う。
身体の異常ではない。
彼女が呼ぶ“ケセナ”という音さえ、もう自分のものには思えないのだ。
彼は返事ができないまま、静かに目を伏せた。
自分という存在の輪郭が、少しずつ溶けていく。
このまま部屋の空気に紛れ、消えてしまいそうな、不気味な空白感。
ラルは黙り込んだ彼を、じっと見つめていた。
彼女は精霊の声を聞き、以前も彼の中にある『揺らぎ』を言い当てたことがあった。
……揺らぎ。
それは、何だったのだろう。
思い出そうとしても、思考は指の隙間から零れる砂のように、形を成さない。
「……っ」
すると、ラルの顔色がさっと変わった。
紫の瞳が見開かれ、唇が震えている。必死に何かを叫んでいるのが分かる。
けれど、その声は、もう彼の耳には届かなかった。
届かなくても構わないとさえ思えた。
睡魔に似た、甘い空虚。
彼は抗うことなく、静かに目を閉じ、意識を手放した。
そこは、完全な闇だった。
視界はなく、音だけが残る世界。
沈んでいく意識の底で、彼は冷え切った頭で思い出す。
――ああ、僕は、音が嫌いだった。
扉が閉まる、重く無機質な音。
近づいてくる、無遠慮な足音。
それらはすべて、自分にとって明確な『嫌悪』だった。
意味の分からない言葉が並べ立てられたあと、自分に降ってくるものは決まっていた。
肌を裂く痛み。
焼けるような熱。
骨まで凍る冷たさ。
こびりついた恐怖の記憶だけが鮮明に蘇り、彼は暗闇の中で、無意識に右手を虚空へ伸ばしていた。
助けを求めるためではない。
ただ、次に来る痛みを少しでも遠ざけたい。
そんな、哀しい防衛本能の名残だった。
「ケセナ!」
闇を切り裂くように、切羽詰まった音が鼓膜を震わせた。
ラルの悲鳴ではない。
低く、太く、よく響く声。
知っている。
この音を、彼は知っていた。
――ああ、グレン。
自分を突き放したくせに。
置いていったくせに。
今さら、そんな必死な声で呼ぶなんて、あまりに身勝手だ。
暗い闇の底で、自分がどれほど求めていたかなんて、知らないだろう。
その腕と声が、抱き締めてくれることだけを待ち続け、心が悲鳴を上げながら壊れていったことなんて。
空っぽの胸の奥を、捻くれた恨み言が掠めた、その直後だった。
虚空へ伸ばしていた震える手を、大きな手が力強く包み込んだ。
剣だこだらけの、無骨な手。
けれど、温かい。
この手を知っている。
暗い絶望の底で、怯えることしかできなかった自分を見つけ出し――生まれて初めて、温もりを与えてくれた手だ。
「ファルイーア!」
びくり、と。
彼の身体が、その悲痛な呼び声に大きく跳ねた。
ケセナでもない。
オウセイでもない。
五千星霜の記憶が抜け落ち、かりそめの輪郭すら曖昧になった自分にとって、その名が一番近かった。
何者でもなくなりかけた闇の中で、辛うじて自分を形作ってくれる、ただ一つの輪郭。
「ファル」
短く、温かなその響きが、深い水底へ沈みかけていた意識を一息に引き上げる。
(この人は、僕にとって何だったのだろう。……僕は、誰だった?)
問いが浮かんだ途端、空っぽだった胸の奥を、一陣の風が吹き抜けた。
暗闇が裂け、光が差し込む。
彼は、ゆっくりと紅い瞳を開いた。
「……グ…………レ……ン……」
掠れた声で呼んだ先にいたのは、無骨なほど必死な顔をした、黒髪黒目の大男だった。
今にも泣きそうな顔で、こちらを見下ろしている。
その顔が、妙におかしくて。
どうしようもなく、愛おしかった。
「ケセナ……っ!」
歓喜に震える声。
けれど、彼はゆっくりと首を横へ振る。
違う。
それは、もう、自分には遠い。
オウセイという強靱すぎる鎧が剥がれ落ち、世界から身を隠すための『ケセナ』という輪郭さえ曖昧になった。
だから、違う。
戸惑うグレンの目を真っ直ぐに見返しながら、彼は待った。
崩れかけた自分を、確かな形へ戻してくれる音を。
拒絶の意味を悟ったのだろう。
グレンは息を呑み、祈るように――暗い地下室から彼を連れ出し、名を与えたあの刻と同じように、その名を紡いだ。
「――ファルイーア」
ああ。
その音だ。
ファルイーア・ク・フェスカ。
この音が彼を包み、ばらばらになりかけた自分を、確かな『自分自身』へ戻してくれる。
暗い絶望の底で、最初に自分を繋ぎ止めてくれた名前。
呼ばれたことが嬉しくて、彼ははっきりと目を見開いた。
目の前には、少しだけ驚いた顔のグレン。
彼は小さく息を吸い、ふわりと柔らかく笑った。
「うん。……グレン」
声は、もう掠れていない。
彼はついに、世界から隠れるための『ケセナ』でもなく、世界を救うためだけの『オウセイ』でもなく。
ただの『ファルイーア』として、確かな輪郭を取り戻した。




