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第百三話 新たなる結界

 静寂に沈む『祈りの間』。

 歴代の皇帝が世界の安寧を願い、己の命を削りながら祈りを捧げてきたその石室に、ケセナは一人で立っていた。


 最初にファミラスへ結界を張った頃、こんな仰々しい部屋はまだ存在しなかった。

 オウセイが応龍を皇帝に据え、他の獣族へ皇帝を支え、守る役目を定めたのちに整えられた場所だ。


 この部屋で初代皇帝となったライネルが、皇帝など柄ではないと心底嫌そうな顔をしていたのを思い出し、ケセナは場違いな苦笑を漏らした。


 それから、幾千星霜。

 この祈りの間で、綻びた結界は幾度も修復され、維持されてきた。

 だが、内乱が起こり、綻びを残したまま先代皇帝リュウショウを失ったことで、五千星霜にわたり世界を覆っていた殻は完全に砕け散った。


「……最初から、やり直しか」


 気の遠くなるような作業だ。

 だが、やるしかない。


 ケセナにできるのは、絶対守護の理を宿す応龍の魔力を、オウセイの術式によって極限まで増幅させること。

 けれど、それを“世界全体”へ張り巡らせるなど、人の身で踏み込める領域ではなかった。

 世界へ張り巡らせる意識の糸を一本たりとも緩めれば、自分も、手を貸してくれるラルも、たちまち魔力の奔流に呑み込まれてしまう。


「ケセナ、お待たせ」


 静かに扉が開き、ラルが入ってくる。

 紫の瞳には、迷いの欠片もなかった。


「準備はいい?」


 ケセナが問いかけると、ラルは迷わず頷いた。


「……うん。あたしは、いつでも」


 ケセナは深く息を吐き、意識を内側へ沈める。


 通常の魔術に、詠唱は要らない。

 だが、この規模の術式だけは別だった。


 兵舎の壁を修復した術式とは、規模も精度もまるで違う。

 魔術と魔法を絡め、何重もの理を編み上げていく。

 失敗は許されない。


「久遠の深淵より、理の残滓へ告ぐ」


 地の底から響くような、重く冷たい声が、ケセナの喉から零れ落ちた。


 その響きを耳にした途端、ラルは思わず息を呑む。

 彼女の耳へ、世界中の精霊たちの声が一斉に流れ込んできた。


 泣き声。

 笑い声。

 歓喜と悲鳴。


 あらゆる感情が濁流となり、ラルの胸へ押し寄せる。


「我は忘却の彼方より来たりし原初の咎人。黄金の覇竜を宿し、蒼き救済の魔人が魂へ刻みし理を継ぐ器。今、精霊たちの願いを束ね、幾千星霜を越え、神域へ至る門を封じん」


 ケセナの言葉に呼応するように、ラルもまた術式を組み上げていく。


 最も使い慣れた風の魔術。

 優しく、それでいて何よりも強く、ケセナの細い身体を守る風。


 その内側へ、ラルは己に宿る麒麟の魔力を僅かに混ぜ、精霊たちへ叫んだ。


(お願い。守りたいの。みんなを……ケセナを。だから、力を貸して!)


 ケセナの足元から、幾何学的な光の文様が爆発するように広がった。

 祈りの間の床一面へ、見たこともないほど複雑な術式が刻まれていく。


「……っ、ぁ、ああ……っ!!」


 ケセナの身体が悲鳴を上げた。


 血が沸騰する。

 骨が軋む。

 肉の内側から焼き切られるような激痛が、全身を一息に貫いた。


 視界が白く染まり、意識が遠のきかける。


 その極限の只中で。


 ――かちり、と。


 何かが外れる音がした。

 それは、肉体を失ってなお彼の内に繋ぎ止められていた、オウセイの魂が離れた音だった。


 苦痛に歪んでいたケセナが、顔を上げる。


 琥珀だったはずの瞳は、鮮血のように禍々しく、それでいて畏れを抱かせる『紅』へと染まっていた。


 最後の詠唱を紡ぐため、彼は冷たい息を深く吸い込む。


 もう、痛みはなかった。


 血が沸き立つような熱も、骨の軋みも、綺麗に消えている。

 けれど、それと引き換えに、自分を形作っていた何かが、ごっそりと抜け落ちた感覚があった。


 恐怖。

 愛おしさ。

 生きたいという執着。


 指の隙間から砂が零れるように、温かな感情が急速に薄れていく。

 残されたのは、ただ冷徹な演算だけを続ける器だった。


 立ち止まることは許されない。

 結界の構築が最優先だ。


 傍らでは、ラルが必死に祈りを捧げ、精霊たちとの対話を続けている。

 彼女を通じて流れ込む精霊たちの力と願いを、ケセナはオウセイの術式と応龍の理で束ね、極限まで増幅させていった。


 その刻、ラルは、繋いでいたはずのケセナの気配が急速に遠ざかっていくのを感じた。


 手の届かない深淵へ沈んでいくように。

 温かかった心が、一つずつ凍りついていくように。


(駄目……行かないで)


 ケセナを包む風を、さらに強くする。

 けれど、どれほど呼びかけても、彼からは何の感情も返ってこなかった。


 そして、ケセナの紅く染まった瞳が、人知を超えた威厳を宿して見開かれる。


「我が真名は、ファルイーア・ク・フェスカ! 宿命の血脈とこの魂を礎に、神域へ至る虚空の門を、永遠の闇へ封絶する!!」


 祈りの間に、世界そのものを震わせるような言霊が叩きつけられた。


 足元に展開していた巨大な術式が、鮮血のような『紅』と、太陽のような『黄金』の光を放って爆ぜる。


 音すら置き去りにする光の奔流が、祈りの間の天井を、皇城オーレルディアの天守を透かすように貫き、ファミラスの空へ一直線に立ち昇った。


 上空で弾けた光は、蜘蛛の巣のように、世界を包む殻のように、凄まじい速さで天空を覆っていく。

 空を走る紅と黄金の線は、五千星霜前にオウセイとライネルが築いたものよりも強固で、さらに複雑な理を編み込んだ、新たなる絶対守護の術式だった。


 応龍、魔人、麒麟、精霊。そして、黄金龍。

 五つの異なる力を、一つの理へ束ねた光。


 皇都の民は、空を覆う荘厳な光景を見上げ、恐れと畏敬の入り混じった息を漏らした。

 そして誰からともなく、その場へ跪き、祈りを捧げ始める。


 だが、代償は確かに支払われていた。


 ラルの願いに応え、結界の理へ自らを織り込んだ精霊たちが、次々と光の粒となって空へ溶けていく。

 それに伴い、世界からふっと“色”と“音”が引いていくような空白が生まれた。


 神秘が薄れ、世界がただの物質へ近づいていく、冷徹な静けさ。


 その異様な静けさの中で、ラルは涙を零しながらも祈りをやめなかった。


 遠ざかっていくケセナを、この世界へ繋ぎ止めるために。

 限界を超えてなお、魔力を注ぎ続ける。


 やがて、空を覆い尽くした紅と黄金の術式が、世界を完全に包み終えた。


 神域からの干渉を断ち切る、絶対の盾。


 五千星霜を越えて。

 ファミラスは、もう一度、世界を覆う殻を得た。


 天空を焦がしていた光が収束し、術式が完全に定着した直後。

 ケセナの身体から、ふっとすべての力が抜け落ちた。


「ケセナ!!」


 崩れ落ちる身体を、ラルが必死に抱き止める。

 だが、ケセナはぴくりとも動かない。

 紅く染まっていた瞳も固く閉ざされ、先ほどまで満ちていた人ならざる気配は、跡形もなく消えていた。


 そこにあるのは、ただ眠るように瞳を閉ざした、華奢な青年の姿だけ。


 魔力の嵐が去った祈りの間は、耳鳴りがするほど静かだった。

 冷えた石室に、ラルの震える声だけが響く。


「先生っ! 先生!! ケセナがっ!」


 オウセイの理に魂ごと呑まれ、本当にどこかへ消えてしまったのではないか。


 その恐怖に耐えきれず、ラルは泣きながらグレンを呼んだ。


「ラル!」


 隣の控え室で待機していたグレンが、悲鳴を聞きつけて飛び込んでくる。


「ケセナが! いなくなっちゃう!」


 ラルの腕の中でぐったりと首を垂れるケセナの姿を見た途端、グレンの顔から血の気が引いた。


「ケセナ! おい、目を開けろ!」


 床へ膝をつき、ケセナの肩を揺さぶる。

 だが、返事はない。


 先ほど壁の向こうから感じ取っていた異常な術式の気配が、最悪の想像となって胸を締めつける。


(まさか、本当に――)


「先生っ……!」


 泣き声を漏らすラルの前で、グレンは震えそうになる手を押さえ込み、ケセナの首筋へ指を当てた。

 もう片方の手を、鼻先へかざす。


「…………っ」


 永遠にも思える沈黙ののち。


 グレンは大きく、長く息を吐いた。

 張り詰めていた肩から力が抜け、ようやく胸を撫で下ろす。


「大丈夫だ、ラル」

「でも……!」

「生きてる」


 静かな、しかし揺るぎない声だった。


 指先に触れる、かすかな脈。

 鼻先に感じる、かすかな呼気。


 弱々しくはあっても、それは確かに、この世界へ留まっている命の証だった。

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