第百二話 同じ魂の形
「選択肢は二つだ」
ケセナの静かな声が、重く食堂に落ちた。
「このまま無防備な状態で、残る神々の侵攻を受け、世界ごと滅びるか」
琥珀色の瞳が、その場にいる面々の顔を順に見渡す。
「それとも、精霊の恩恵を失う代償を背負ってでも、結界を張り直して生き延びるか」
神による滅びか、精霊の喪失か。
突きつけられたあまりにも巨大な二択に、食堂は水を打ったように静まり返った。
グレンも、ラルも、フィサルーアも言葉を失う。
どちらを選んでも、背負うのは生き残った者たちだ。その責任の重さを、誰もが理解していた。
「……とはいえ、あくまで最悪の結末を口にしただけだよ」
沈黙を破ったケセナの声は、先ほどよりも少し早かった。自分自身を落ち着かせるように、言葉を継ぐ。
「可能性の話だ。ラルが精霊たちに頼んだ結果、何事もなく済むかもしれない。……逆に、力を失わせるかもしれない」
「要するに、やってみなければ分からない、ということですね」
フィサルーアの冷えた声が差し込んだ。
ケセナが顔を上げる。
左の紅い瞳が、真っ直ぐケセナを射抜いていた。
その目を見た瞬間、胸の奥で張り詰めていた何かが、ふっとほどけた。
ただの青年の眼差しではない。
皇太子のそれですらなかった。
選び取らなければならないものと、切り捨てなければならないものを知っている目だった。
冷たく、強く、決して揺るがない覚悟の光が宿っている。
(……大丈夫だ)
ケセナは小さく息を吐いた。
自分が玉座に座るつもりはない。
それでも、その座をフィサルーアに託してよいのかという迷いは、ずっと胸の奥に残っていた。
だが今、その迷いがほんの少しだけ揺らいだ。
選ぶことの重さを知り、それでも目を逸らさないこの弟ならば。
いつか、ファミラスの未来を託せるのかもしれない。
ケセナがそう思ったのと、ラルが顔を上げたのは、ほとんど同刻だった。
「分かった。やってみる」
迷いなく彼女は言い切った。
グレンは深く、長く息を吐き出した。
ケセナ、フィサルーア、ラル。ここにいる三人が覚悟を固めてしまった以上、自分一人が反対しても、もう止められない。そう理解したのだろう。
「……無理はするな。いいな、ラル」
その声音には、祈るような響きが滲んでいた。
「うん」
ラルはふわりと笑い、それから少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「あたし、先生を一人ぼっちにするの、心配だし」
「「……確かに」」
見事なほどぴたりと、ケセナとフィサルーアの声が重なった。
「……お前たち、そういう刻だけ息を合わせるな」
グレンが呆れたように言う。
ケセナとフィサルーアは顔を見合わせ、つい小さく吹き出した。
だが、フィサルーアはすぐに真顔へ戻り、左の紅い瞳でグレンを見据えた。
「グレン。私は同調したのではありませんよ」
淡々とした口調だった。
「寝起きが壊滅的だという事実を述べただけです。物理的な意味で、一人にしておくのは危険すぎます」
「……そこですか、フィサルーア様」
つい先ほど二階の壁を粉砕した一件を思い出し、グレンが苦い顔で呻く。
「そこ以外に理由があると思える、グレンの思考回路を私は疑います」
フィサルーアが神妙な顔で告げた横で、ケセナがふと首を傾げた。
「あのさ、ラル」
「なに?」
「ラルは、そもそも何をしに、こんな昼巡りの始まりから来たの?」
素朴な問いに、ラルはきょとんとした。それから、当然のように答える。
「ものすごい轟音がしたから。敵襲かと思って飛んできた」
――ぴたりと、和んでいた空気が止まった。
「「…………」」
ケセナとフィサルーアの視線が、そろってグレンへ向く。
「…………っ」
グレンの額を、冷や汗がつうっと流れた。
寝惚けたまま全力の斬撃を放ち、自室の壁を消し飛ばした張本人は、他でもない彼だ。
「あ、いや、それはだな、ラル……防衛本能の誤作動というか……」
「また?」
「……っ」
ラルが両手を腰に当てる。
紫の瞳がすうっと細まり、本気で怒っている愛弟子の顔になった。
次の瞬間。
「すまん!!」
最強の騎士団長は床へ崩れ落ちるように正座し、見事な角度で頭を下げた。
「ちょっと! 寝台を真っ二つにしたの、この三十夜だけで三回目! 今回は壁!? 修繕費どうするの!」
「いや、あれは身体が勝手に……!」
「毎回それ!! お給料から天引き!!」
「……っ!」
ラルの説教が食堂に響き渡る。
その前でグレンは、ひたすら平身低頭だった。
完全に、弟子に頭の上がらない師匠の図である。
「……お前だって、エンジの家の木扉を木っ端微塵にしたくせに……」
「あ? 何か言った? ちなみにあの刻、エンジさんは『誰宛て』に請求書を出したの?」
「……俺……か……?」
ラルに睨まれ、グレンの巨体がびくりと跳ねる。
弟子の器物損壊まで請け負わされる騎士団長。
その不憫さに、ケセナとフィサルーアは無言で顔を見合わせた。
「……あとはラルに任せよう」
「ええ。こちらは退避しましょう。修繕費の概算も出さねばなりません」
二人は怒れるラルと、正座したままのグレンを置いて、足早に食堂を抜け出した。
兵舎の重い扉を開けると、昼巡りの始まりの冷気が流れ込んでくる。
ちょうどそこへ、若い騎士団員が欠伸混じりに歩いてきた。
「ふぁぁ……団長、お早いですね! 今日は昼巡りの始まりから冷えま――」
言葉が止まる。
開け放たれた扉の向こう。
食堂の床では、自分たちが最も尊敬する騎士団長が、年若い少女の前で完璧な正座を決め、滝のような汗を流しながら叱られていた。
「――――うわあああぁぁぁっ!?」
「見なかったことにしてあげて」
「だ、団長ぉぉぉ!?」
混乱する騎士団員の背中に、ケセナは笑いを含んだ声をかける。
隣ではフィサルーアまで右手で口元を覆い、肩を震わせていた。
そして二人は、たまらず顔を見合わせる。
「……ぷっ」
「……っ、ははっ」
そうして、兄弟そろって堪えきれずに笑い出した。
兵舎の中では、まだラルの説教とグレンの謝罪が続いている。
淡い光の中へ溶けていく二人の笑い声が、張り詰めていた空気を優しく解いていった。
皇宮へ戻り、長く続く回廊の分岐点に差しかかったところで、前を歩いていたフィサルーアが足を止めた。
振り返り、ケセナを見る。
「では兄上、私はここで」
「うん。ありがとう、フィサルーア」
「私は何もしておりません」
涼しい顔で返す弟に、ケセナは静かに首を振った。
「ううん。さっき……自分を差し出す覚悟を示してくれた」
結界の核として、魔力はなくとも応龍の器である己の身体を差し出す。
フィサルーアは、そう申し出てくれた。
その冷徹なまでの覚悟に、ケセナは確かに救われていた。
だが、フィサルーアはかすかに眉をひそめ、不快そうに視線を逸らした。
「……貴方が一人で犠牲になろうとするからです。許せないんですよ。誰かの犠牲の上に成り立つ平和など」
「……」
その真っ直ぐな言葉を聞き、ケセナはふっと目を細めた。
「……どうしました?」
「ううん。やっぱり、君は僕なんだなって思っただけ」
「はい?」
心底理解できないというように顔をしかめるフィサルーアへ、ケセナはどこか懐かしむような、優しい笑みを向けた。
「僕も昔、オウセイに言ったから。『誰かを犠牲にすることは許せない』って」
育った環境も、与えられたものも違う。
それでも、根底にある譲れないものは同じだった。
自分とまったく同じ、魂の形。
「……そうですか」
フィサルーアは短く返し、それ以上は何も言わなかった。
否定も肯定もしないその態度が、彼なりの照れ隠しであると、この刻のケセナには痛いほど分かっていた。
「あ、引き止めてごめん。これから道士のところだっけ?」
「ええ。“いつもの礼拝”ですよ」
フィサルーアが自嘲気味に薄く笑う。
その『礼拝』が何を意味しているのか、ケセナも知っていた。
フィサルーアは、自らの意志で先代皇帝リュウショウを――己の父を手にかけた。
その罪から逃げず、彼はこの半星霜、欠かさず道士のもとへ通っている。
完璧に見える強靱な器の奥底で、彼もまた血を流しながら、戦い続けているのだ。
静かに背を向け、一人で回廊の奥へ歩み去っていく金髪の背中。
その真っ直ぐな歩みを見送りながら、ケセナは彼が背負うものの重さを思い、そっと目を伏せた。
やがて足音が完全に遠ざかると、ケセナは大きく息を吐いた。
だるさの抜けきらない身体をずるずると引きずるようにして、自室があるはずの方角へ歩き出す。
だが。
「……あのぅ、俺の部屋ってどっちだっけ?」
広すぎる皇宮の回廊で、行き交う侍女たちを呼び止めながら。
世界を救った英雄であり、本来なら玉座に座るはずだった青年は、相変わらず見事に迷子になっていた。




