第百一話 精霊たちへの問い
「……駄目だよ、フィサルーア。君には魔力がない」
血を吐くように絞り出した声だった。
フィサルーアの“応龍の器”がどれほど強靭でも、足りないものがある。
結界を編み上げ、維持し続けるための魔力だ。
どれだけ式を組み直そうとしても、ケセナの内にあるオウセイの知識が、同じ答えを突きつけてくる。
魔力を持たぬ者では、絶対に成立しない。
「……っ」
完璧な突破口を見つけたはずだったフィサルーアの顔が、わずかに歪んだ。
魔力を持たずに生まれたという事実が、兄を救うための最後の壁として立ちはだかっていた。
食堂に、再び重く息苦しい沈黙が降りる。
ケセナが一人で消える結末は、やはり覆せないのか。
グレンが血が滲むほど唇を噛み締め、ケセナが静かに琥珀色の瞳を伏せかけた、その刻。
「じゃあ、あたしは?」
澄んだ声が、張り詰めた空気をすっと裂いた。
三人が一斉に入口へ視線を向ける。
立っていたのは、赤みがかった金髪を揺らし、紫の瞳でこちらを真っ直ぐ見返す少女――ラルだった。
「ラル!」
ケセナが思わず声を上げる。
「ごめん。話、聞いちゃった」
ラルは悪びれもせず、けれど軽くもなく、真っ直ぐ歩いてケセナの傍らまで来た。
「あたしじゃ駄目なの? ケセナ」
駄目では、ない。
ケセナの脳裏で、オウセイの知識が計算を始めていた。
ラルの素養と魔力なら、結界の核の一端を担うこと自体は不可能ではない。何より彼女は精霊の声を聞くことができる。精霊たちに願い、応えてもらえるのなら。
けれど、ケセナにとって問題は“可能かどうか”ではなかった。
大切な友人である彼女を、命を食い潰しかねないこんな術式に、巻き込みたくない。
ただ、それだけだった。
「……危ないから」
震える声で、拒む。
「危ないことなら、あたしたちずっとしてきた」
「もしかしたら……死ぬかもしれない」
「怖くないよ」
「存在が、跡形もなく消えるかもしれないんだよ!?」
「……うん。それでも、怖くない」
少しも揺らがない声だった。
ラルはその重さを受け止めた上で、それでも当たり前のように、ケセナの隣へ立とうとしていた。
その真っ直ぐさに、ケセナの感情がとうとう堰を切った。
「どうして!!」
悲鳴だった。
自分は消えるのが怖い。独りになるのが怖い。失うのが怖い。
それなのに、どうしてこの少女は、そんなにも迷わず自分の側へ命ごと立とうとするのか。
涙でぐしゃぐしゃになったケセナを見て、ラルは花がほどけるように微笑んだ。
「だって、ケセナと一緒なんでしょ?」
世界のどんな理屈より、彼女にはそれが絶対だった。
「だったら、怖くない」
揺るがない紫の瞳。
その純粋さを真正面から浴びて、ケセナはたまらず力なく首を振った。
「……少しは怖がってよ」
それは、強がりきれなくなった青年の、あまりにも弱い本音だった。
「変なの。一人で抱え込む方が、よっぽど怖いのに」
ラルは不思議そうに小首を傾げる。
「一人で、って……存在が消えるかもしれないんだよ……?」
「うん。でも、そうやって勝手に全部背負って、勝手に消えようとするの、すごくケセナらしい」
ふふ、とラルが笑い、ケセナの背をぽんぽんと叩いた。
その小さな手の温もりに、張り詰めていた心が少しずつほどけていく。
だが――
「……ふざけるな、お前たち」
低い唸り声が落ちた。
グレンだった。
その顔には、納得も諦めもなかった。
「俺は承服しない」
「グレンさ――」
「消えなくていい方法を考えろ」
ケセナの言葉を断ち切り、グレンは怒りよりも、切なる願いが勝っている眼差しで射抜いた。
「……っ! それは何度も考えた! だけど!」
ケセナも叫び返す。
オウセイの記憶を総動員しても、どれだけ試算しても、自分が削れる以外の形が見えなかった。だからこそ、一人で背負うしかないと決めたのだ。
「ケセナ!!!」
グレンの怒声が食堂を震わせた。
それは叱責ではなく、喪いたくない者の悲鳴だった。
「俺は、お前に言ったはずだぞ! 『生きよう』と……っ!」
「っ……!」
凍りついたケセナへ手を伸ばし、グレンは大きな手でその頬に触れた。
剣だこだらけの無骨な掌。けれど、そこから伝わる熱は、凍えていた心の奥まで届くほど温かい。
「頼むから……その自己犠牲の癖を、早く治してくれ」
その声に、ケセナは小さく息を呑んだ。
この温もりが好きで、この居場所を失いたくなくて、だから世界を守ろうとしていたのだと、改めて思い出す。
「……分かった」
グレンの掌に頬を預けたまま、ケセナは小さく頷き、長く息を吐いた。
しばらく険しい表情で黙り込んだのち、ゆっくりと顔を上げる。
「でも、結界は張るよ?」
「お前、まだ言うか……!」
「違うよ」
グレンを落ち着かせるように、ケセナは少しだけいたずらっぽく笑った。
「別のやり方を思いついた。……ラルが手伝ってくれるなら、多分、少なくとも俺たちは誰も消えずに済む」
頬に触れていた手を、ケセナは両手でそっと包み込む。
その瞳には、先ほどまでの絶望はもうなかった。代わりに、必死に探し当てた光が灯っている。
「……何を思いつかれたのです、兄上?」
フィサルーアが静かに問う。
ケセナはグレンの手を離し、隣に立つラルへ視線を向けた。
「ラルは精霊の声が聞ける。だから――精霊たちに“お願い”ができるんだ」
「精霊に、お願い……?」
ラルは不思議そうに首を傾げた。
「俺には、それができない。俺は精霊に正しく願う術を持っていないし、俺みたいな存在が無理やり精霊の力を使えば、対等な協力にはならない。ただ一方的に力を搾り取って、喰い潰すだけになる」
そこでケセナは言葉を切り、眉を深く寄せた。
「ただ――」
両手で頭を抱え込むようにしながら、必死に式を組み替えていく。
誰も消えないための計算。誰も喪わないための道筋。
沈黙の果てに、ケセナは重く口を開いた。
「可能性の話だけど……結界の負荷を肩代わりした精霊たちが、力を失うことはあり得る」
「それは……!」
グレンが目を見開く。
「回復には、千星霜……いや、何万星霜かかるかもしれない」
静かな宣告だった。
精霊が力を失う。
それは、風が黙り、火が眠り、水と大地が応えなくなるということだ。
自分たちの命は、救えるかもしれない。
その代わり、世界は今のままではいられない。
誰も、すぐには口を開けなかった。




