最終話 ありがとう、ファルイーア
世界は、止まらなかった。
たった一人の青年が息を引き取っても、昼巡りと夜巡りは訪れ、新たな皇帝の時代は始まっていった。
ファルイーアの亡骸は、世界を救った大英雄として盛大な大葬に付された。
棺が納められたのは、先代皇帝リュウショウのすぐ傍らだった。
かつて彼を化け物と恐れ、兵器として扱った父の隣。
ファルイーア自身が、それを望んだのかは分からない。
けれど、グレンとフィサルーアだけは知っている。
リュウショウは最期に、ファルイーアを心から息子として愛そうとしていたことを。
せめて永劫の眠りだけでも親子でいさせたい。
グレンの、そんな願いだった。
新皇帝となったフィサルーアは、兄の死を自らの免罪符にはしなかった。
犯した罪から目を逸らさず、代表議会と共に復興へ取り組み、兄から託された世界を生かすために歩み始めた。
人々の中に残る憎しみも、応龍族へ向けられる恐怖も、簡単に消えるものではない。
それでも彼は逃げず、一つずつ向き合い続けた。
兄に言われた通り。
残酷な世界を、少しずつ作り替えるために。
一方、最愛の夫を失ったラルは、少しずつ立っていられなくなった。
腹の内で育つ新たな命を守らなければならない。
けれど、ファルイーアは帰ってこない。
その現実に耐えきれず、ラルは皇宮医官のもとへ移され、付きっきりの療養を受けることになった。
グレンもまた、現実から目を逸らすように、新皇帝フィサルーアの補佐官としての激務へ身を投じた。
ラルの生活や警護、療養に必要な手配だけは欠かさなかった。
けれど、家に帰ることも、壊れかけたラルと向き合うこともできなかった。
各地への派遣と兵舎での寝泊まりを繰り返し、考える暇をなくすように働き続けた。
ガイアは責務の待つ南方へ戻ったが、キョウはグレンとの約束どおり、しばらく皇都へ残ってラルを支えた。
やがてラルの容態が落ち着くと、彼女もまた復興のため南方へ戻ったが、それからも折に触れて皇都を訪れている。
以前のように、家族全員が揃って笑うことはなかった。
ラルが無事に男児を出産したという知らせを、グレンが耳にしたのは――その子が産声を上げてから、すでに三十夜も過ぎたあとだった。
その頃、グレンは西方地区――白虎の里アイランバへ出向いていた。
「……皇都へ戻らぬのか。補佐官殿」
山のような書類に向かい、取り憑かれたように羽根筆を走らせていたグレンへ、白虎族長レイアが静かに問いかけた。
「まだ、片づけるべき案件が残っていますので」
顔も上げずに答え、資料の束へ手を伸ばしかけると、レイアがその束を無造作に取り上げた。
「レイア様、この案件は早急に――」
「グレン・ラティア」
レイアの青い瞳が、真っ直ぐに射抜く。
「お前にとっては、孫も同然の子だろうが。貴様が誰より大事にしていたファルイーアが遺した、たった一つの命だぞ」
「…………っ」
「逃げるな。皇都へ帰れ。己の腕で抱いてやれ。……ファルイーアが、喜ぶ」
完全に見透かされていた。
グレンは何も返せなかった。
レイアは奪った資料を机の端へ置き、呆れと情をないまぜにした息を一つこぼして、部屋を出ていく。
扉が閉まり、広い執務室へ一人残されたグレンは、資料へ手を伸ばさなかった。
代わりに、椅子へ深く沈み込む。
「……あの子に、俺は……どんな顔で、何と声をかければいいのか……分からないんですよ」
誰もいない部屋で、グレンはようやく弱音を吐いた。
まだ見ぬ赤子を抱くことが、どうしようもなく怖かった。
一夜明け、昼巡りの終わりが近づく頃。
グレンは半ば追い出されるように、白虎の里をあとにした。
あのあと、レイアは「貴様の仕事はここまでだ」と言い放ち、グレンが逃避の盾にしていた書類の山を、伴侶であるマジョルドへ丸ごと押しつけた。
マジョルドは涼しい顔で「仰せのままに」と受け取り、翌昼巡りの始まりには、グレンが何昼夜も抱えていた仕事をすべて片づけてしまった。
さらに追い打ちのように、レイアは最後にこう告げた。
『忘れるな。あの子は、貴様が生涯の忠誠を捧げたリュウショウ様の孫でもある』
そこまで言われてしまえば、もう逃げ場はなかった。
(……まずは皇宮へ戻り、フィサルーア様へ帰還の報告をしてからだ)
手綱を握りながら、グレンは胸の内で呟く。
真っ直ぐ家へ向かうべきだと、頭では分かっている。
だが、少しでも辿り着くまでの刻を引き延ばしたかった。
あの命を抱き上げるのを、少しでも遠ざけたかった。
何を言えばいいのか。
せめてそれだけでも、道中で考えておきたかった。
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オーレルディアの家では、穏やかな陽射しが差し込む居間で、ラルがキョウと向かい合って茶を飲んでいた。
「……それにしても、信じられないわ。先生、本当にあれから一度も戻ってないの?」
「うん。ずっと忙しいみたい」
呆れたように息をつくキョウへ、ラルは苦笑して答えた。
その腕の中では、白いおくるみに包まれた小さな赤子が、穏やかな寝息を立てている。
頭に生え揃い始めた柔らかな髪は、ラルの色ではない。
ファルイーアを思わせる、透き通るような金だった。
「それにしたって、初孫みたいな子が生まれて三十夜も音沙汰なしとか、ありえないでしょ」
「あはは……そうだね」
この腕の中にある確かな温もりが、完全に壊れかけていたラルの心を現実へ繋ぎ止めてくれた。
手厚い療養を経て、ラルはどうにか落ち着きを取り戻し、思い出の詰まった家へ戻ってきていた。
ファルイーアがもうこの世にいないという現実は、消えない。
それでも彼女は、彼が遺したこの小さな命を、彼の分まで愛し抜こうと決めている。
「……本当はね、この子の名前、ファルに決めてもらいたかったの」
「そう言ってたわね」
「うん。でも、間に合わなかったから……せめて先生と一緒に考えたかったんだけど」
「音信不通じゃあねぇ……」
「だから、私が決めたの」
ラルは、腕の中にある柔らかな金髪をそっと撫でる。
「ファルの名前を、そのまま背負わせるのは違う気がしてた」
眠る赤子の頬はまだ薄桃色で、吐息は頼りないほど小さいけれど、その胸の内には、確かに新しい命が息づいている。
「この子は、ファルじゃない。ファルの代わりでもない。ちゃんと、この子自身の人生を生きてほしい」
そこでラルは一度言葉を切り、静かに微笑んだ。
「でも、それでも。あの人が生きた証だけは、この子に残したかった」
ファル。
その響きを核にして、けれど同じ名にはしない。
失った人を縛るためではなく、愛した人の痕跡を、その先へ繋ぐために。
「だから、レイファルト」
ラルの声は、どこまでも静かだった。
「この子が、この子として生きて。その先で、あの人の名前の一部を連れていけるようにって」
「それで、この名前になったのね。……いい名前よ、レイファルト」
「うん」
その願いを込めて、ラルはこの名を選んだ。
「……ねえ。南方の復興はどう?」
「だいぶ進んだわ。フェルナリアも、どうにか街らしくなってきたし。……まあ、元通りまではまだ長いけど」
「ガイアは?」
「相変わらずよ。怒鳴って、走り回って、誰より先に瓦礫を担いでる」
「……ガイアらしいね」
「でも、ファルの話になると黙るわ」
キョウは茶器へ目を落とし、少しだけ声を低くした。
「あいつ、今でも言うのよ。『あの馬鹿が守った世界を、俺が腐らせるわけにはいかねぇ』って」
「……うん」
「だから南方は戻す。絶対に。あの子に見せても恥ずかしくない場所にする」
血にまみれた過去が深く刻まれた南方地区。
焼けた大地は、まだ完全には癒えていない。
「……この子が大きくなる頃には、綺麗な場所に戻るかな」
「戻すわよ。絶対に」
キョウは即答した。
「よかったね、レイファルト。頼もしいおばさんが、南方を綺麗に戻してくれるって」
「……おばさんって言われて、もう否定できない自分が腹立つわ」
二人が顔を見合わせて小さく笑った、その刻だった。
居間の扉が、躊躇うようにゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、黒髪黒目の無骨な武人面に、どうにも馴染まない真っ白な補佐官服をきっちり着込んだ大男だった。
「…………た、ただいま」
視線を泳がせながら、グレンはそれだけを絞り出した。
「うわぁ……よりにもよって、一番似合わない白い服で帰ってきたわね」
キョウが容赦なく言い放つ。
続けてラルが半眼を向け文句を言う。
「……っていうか先生。戻るなら戻るって先に知らせてよ。夕餉の食材だって、そんなに潤沢じゃないんだから」
「……し、知らせもせずにすまない。まさか白虎の里から半ば追い返されるとは思わなくてな……服は、その……制服がこれだっただけだ」
世界最強の元騎士団長が、本気でしどろもどろになって言い訳をしている。
そのあまりにもいつも通りな調子に、ラルとキョウは、とうとう吹き出した。
「あははっ。ほんと、相変わらず、先生」
ラルが目尻に滲んだ涙を拭いながら笑う。
「……ほら、ラル。その見事な孫馬鹿に、早く見せてあげなさい」
キョウに促され、ラルは立ち上がった。
グレンの前まで歩み寄り、赤子の顔がよく見えるよう、おくるみをそっとずらす。
「レイファルト、っていう名前にしたの」
「……レイ、ファルト……」
その名を噛みしめるように繰り返した、その折だった。
眠っていた赤子がふにゃりと身じろぎし、ゆっくりと目を開ける。
現れたのは、透き通るような紅い瞳。
失われたファルイーアと、まったく同じ色だった。
「……ファル…………っ」
その瞳と目が合った途端、グレンの中で張り詰めていたものが、ふっと切れた。
「ほら、ちゃんと抱いてあげて」
ラルから、恐る恐るその小さな命を受け取る。
震える太い腕の中へ収まった温かな重みを感じた途端、グレンはついに膝をつき、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「……すまない、ラル。帰ってこられなくて……本当に、すまなかった……」
「うん。でも、帰ってきた」
ラルは泣き崩れるグレンの傍らへしゃがみ、その大きな肩へそっと手を置いた。
「お帰りなさい、先生」
「…………ああ。ただいま」
グレンは涙に濡れた顔を上げ、腕の中で眠るレイファルトを、今度こそ決して手放さないように抱き締めた。
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――レイファルトが生まれて、十星霜。
グレンは五十八星霜齢を迎えた年に、皇帝の補佐官の任を退いた。
現在はオーレルディアの片隅で、弟子入りを願う若者たちへ剣を教えながら、穏やかな隠居生活を送っている。
門下生の中でも一際騒がしく、目を引く金髪紅眼の少年が一人。
「レイファルト! もっと脇を締めろ!」
「締めてるってば!」
口答えだけは一人前。
だが、腕はまだまだ甘い。
十星霜齢の少年レイファルトが、果敢にもグレンへ向かって木刀を振りかぶる。
「甘い!」
「あっ!」
グレンが軽く弾くと、右手の木刀が宙を舞い、レイファルトは派手に声を上げて、その場へしゃがみ込んだ。
「いっ……じいちゃん、痛い!」
「!? どこだ!? どこが痛い!?」
数多の軍勢を前に眉一つ動かさなかった男が、すっかり気のいい老人の顔になって慌ててしゃがみ込む。
「右腕ひねった! じいちゃん、大人げない!」
「す、すまん! 骨は……折れてないか!?」
「――隙ありっ!」
「なっ!?」
隠し持っていた左手の木刀が、無防備な鳩尾へ綺麗に入る。
「ぐっ、おおお……!」
「やったー! 世界最強のじいちゃんから一本取ったぞー!」
「レ、レイ……それは騙し討ちという、剣士としてもっとも卑怯な……ごふっ……」
教訓など耳に入らず、レイファルトは家へ向かって駆け出した。
木刀を振り回しながら走っていく小さな背中が、ちょうど家から出てきたラルに飛びつく。
「おかあさーん! 僕、じいちゃんから一本取ったー!」
「そうなの? 凄いね、レイファルト」
ラルがしゃがみ込み、レイファルトの金糸の髪を撫でる。
嬉しそうに満面の笑みを浮かべる少年の姿が、眩しかった。
(……ファル。お前の息子は、憎たらしいくらい逞しく育っているぞ)
鳩尾を押さえたまま、グレンがぼんやりと胸中で呟く。
そこへ、レイファルトの大きな声が飛び込んできた。
「僕、お父さんみたいに“みんなを守れる”ようになりたい!」
ラルとグレンは、一瞬だけ言葉を失った。
その無邪気で、自由で、何にも縛られていない姿が、幼い頃のファルイーアと重なる。
けれど、レイファルトの足元にあるのは、あの子が歩かされた血の道ではない。
グレンは、眩しいものを見るように目を細めた。
雲一つない空の下。
かつて最強と謳われた騎士は、静かな救いを湛えた笑みを浮かべ、愛する家族が待つ家へゆっくりと歩き出した。
ふと、空を見上げる。
遥か高みに張り巡らされた、紅と黄金の結界。
精霊たちと黄金龍を理へ織り込み、ラルと共に再構築したその光は、十星霜を経た今も、変わらず世界を守っている。
あの細く小さな身体で、それでも最後まで世界を守ろうとした、一人の青年が遺したものだった。
「ありがとう、ファルイーア」
零れた声が、風に溶けていく。
どうか、届いてほしい。
ファルイーア・ク・フェスカに。




