↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/123

第十二話 漆黒、来たる

 恐怖に駆られたケセナは、暗闇の廃墟を一人、足早に歩いていた。

 縛っていない茶色の長髪が、じっとりと肌に纏わりつく。南方地区の繁茂の季の夜巡りは、恐ろしいほど蒸し暑い。


 それでもケセナは、いつ襲われても対応できるように身体を屈め、神経を限界まで張り詰めていた。暗闇の中に目を凝らし、瞬きも忘れて周囲を警戒する。目の乾きが痛みに変わってきても、決してその両目を閉じようとはしなかった。


 あてもなく歩き続けていると、襲撃への恐怖とは別の不安が、冷水のように足元から這い上がってきた。

 なにしろ、自分の現在地がまったく分からない。


「ここ、どこだろう……」


 方角すらあやふやになり、完全に迷子になっていた。

 ふと、護身のためにプラークルウを呼び出そうと腰袋に手を入れたケセナは、さっと血の気を引かせた。


「……ない?」


 腰袋の中は空だった。

 封玉に最後に触れたのは、いつだ?

 確か、寝台の上でだ。きらきらと光る封玉を眺めて――。


「あ……あの刻、落としたんだ……」


 ケセナは自分の行動を思い返し、小さく呻いて額に手を当てた。

 振り返るが、背後は濃密な闇に包まれており、来た道すら分からない。


 あの封玉がなければ、ほとんど『丸腰』だ。今、身につけているのは生乾きの衣服と、護身用の短剣だけ。

 取りに戻るにしても、どうやってここまで歩いてきたのか記憶がない。


 恐怖に駆られ、混乱のまま突発的な行動に出てしまった自分を激しく責める。


 なぜあんなに焦ってしまったのか、冷静になった今では自分でも不思議だった。

 それでも『応龍狩り』への本能的な恐怖だけは、胸の奥底にどろどろと残っている。ケセナは強く頭を振った。


「とにかく、どこか安全な場所……って、あるのかな」


 フェルナリアの安全な場所は、恐らくガイアの家がある生活区域だけだろう。そこから離れれば、夕暮れに見た、人っ子一人いない廃墟だ。そしてケセナの現在地は、間違いなくその廃墟のど真ん中だった。


「とりあえず、建物の中に隠れた方が……」


 原形が残っている家を探そうと周囲を見回す。けれど、どの家も滅茶苦茶に壊れており、身を隠せそうな手頃な廃屋は見当たらない。


 孤独と不安に押し潰されそうになっていた、その刻。

 突如、瓦礫の陰から複数の人影が音もなく飛び出してきた。


「誰だ!?」


 ケセナは咄嗟に身構えて叫ぶ。

 人影は五人ほど。あっという間に退路を断たれ、完全に包囲されていることに気づく。思わず「プラウ!」と叫びそうになり、下唇を噛んで堪えた。


 冷や汗を流しながら、腰の短剣に手を置いた。武器は、これしかない。


「おいおい、なんだよ。男かよ」

「ったく、誰だ? 女が一人で歩いてるなんて言った奴はよぉ」


 人影の一人が舌打ち混じりにそう言うと、他の男たちも低い笑い声を漏らす。暗闇の中、小柄な体格と長い髪だけを見て、女と間違えたらしい。

 ケセナは驚きつつも、警戒をさらに強めた。


「しゃあねぇな。男には用はねぇが、持ってる物は全部置いていけ」

「抵抗しなきゃ、命までは取らねぇよ」


 金目の物と言われても、今のケセナは短剣くらいしか持っていない。

 男たちは気味の悪い笑い声を上げ、じりじりと距離を詰めてくる。短剣の柄を強く握り込み、どう打開するかを必死に考えた。


 男たちの顔が認識できる距離まで迫り、ケセナは目を見開いた。

 見覚えのある顔が二人、混ざっていたのだ。一人は痩せ型、もう一人は威圧感のある巨漢。見間違うはずがない。数刻前、ガイアの家の前で追い払った二人組だ。


「あ、お前っ!」

「てめぇは! さっきの!」


 二人もケセナに気づき、復讐心に燃えた声を上げる。ケセナは顔を顰め、ちっと舌打ちした。


「何だ?」


 二人の叫び声を聞き、集団の奥から一段と低い声が響いた。

 背筋が凍るような威圧感を覚え、そちらを見やる。


 背の高い男が、ゆっくりと歩み出てきた。暗くて顔立ちは分からないが、獲物を狙う獣のようにぎらぎらと光る双眸だけが闇に浮かんでいる。


「こいつか。二人を追い返したって旅人は」


 背の高い男は、ケセナを頭から足元まで眺めた。腰にあるのは短剣一本。荷物もない。

 男は露骨に興味を失ったように鼻を鳴らした。


「金はなさそうだな。着ている物だけ剥げ。短剣も持っていけ」

「抵抗したら?」

「動かなくなるまで殴れ。死んだら、瓦礫の下へ捨てろ」


 まるで壊れた荷物の扱いを決めるような、淡々とした声だった。


 男の号令とともに、周囲の荒くれ者たちが一斉にケセナへ飛び掛かってきた。


 ケセナは短剣を引き抜いて応戦するが、絶望的なまでに分が悪かった。相手が手にしているのは、長剣や槍、鉄の長棍といった間合いの長い武器ばかり。それが四方八方から容赦なく襲いかかってくる。短い刃では、防ぐことすらままならない。


「く……っ!」


 防ぎきれず、生乾きの服が裂け、肌に浅い切り傷が刻まれる。

 鮮血が滲むが、ケセナは動きを止めるわけにはいかなかった。槍の突きを紙一重で躱し、大剣の薙ぎ払いを短剣の腹で強引にいなす。背後から迫った長棍を、前へ転がるようにして躱す。


 多すぎる。


 そう理解しているのに、身体だけは勝手に次の攻撃を読んでいた。だが、躱すたび、少しずつ動きが遅れていく。


 無理に詰め込んだ食事が腹の中で暴れ、吐き気が込み上げる。踏み込むたび、寝台から落ちた際に打った顎まで鈍く痛んだ。


 しかも相手は複数。武器の間合いも違いすぎた。

 躱しきれなかった刃が次々と身体を掠め、傷が増えていく。


 どれほどの刻が過ぎたのか、ケセナには分からなかった。実際には、ほんの数十息ほどの攻防だったのかもしれない。


 息が上がり、足が縺れ始めたその隙を狙われ、背中から強烈な蹴りを受けた。


「がっ……!」


 地面に転がったケセナへ、容赦ない刃が降り注ぐ。致命傷だけは避けようと必死に身体を捩り、泥まみれになりながら応戦し続ける。

 朦朧とする意識の中で、ケセナは自分がまだ生きていること自体が奇跡のように思えていた。


「……まだ立つのか」


 先ほどの背の高い男が感嘆したような声を上げると、雨あられのような攻撃がぴたりと止んだ。

 肩で激しく息をし、全身血まみれの満身創痍となったケセナは、男をぎろりと睨み上げる。


「名前は?」

「教える必要……ありますか」


 息を切らしながら答えると、男は喉の奥で笑い、部下を押し退けた。


「死体を呼ぶ名くらい、知っておこうと思ってな」


 男は背中に背負っていた長剣を、ゆっくりと左手で鞘から抜いた。その異様な長さに、ケセナは絶望的な思いで目を見開く。

 このぼろぼろの身体と短剣で、あの長剣を防ぎきれる自信は微塵もなかった。


 無言で、男の出方を待つ。

 一か八かの賭けに出るしかない。男があの長剣を振り下ろす瞬間、必ず隙ができるはずだ。その一瞬に男の懐へ飛び込む。あれほど長い刃なら、密着すれば自由には振るえない。

 勝機は、それしかなかった。


 男の左肩が沈んだ。


(今だ……!)


 ケセナは残った力を振り絞り、地を蹴って男の懐へ飛び込んだ。


 だが。


 男の左手から柄が離れた。

 落下する長剣の柄を右手が掴み、縦へ落ちるはずだった刃の軌道が真横へ変わる。

 ケセナは驚愕して半身を引くが、避けきれない。冷たい剣先がケセナの右頬を深く、鋭く切り裂いた。


「っ……!」


 鮮血が吹き出し、ケセナは倒れまいと必死に足を踏ん張った。

 ぽたぽたと、自分の血が土を黒く染めていくのを俯きながら眺め、荒い呼吸を繰り返す。


「左だけを見ていたな」


 男は右手の長剣を軽く振り、刃についた血を地面へ落とした。

 頬を伝う血を拭い、ケセナは男を睨みつけるが、身体はとうに限界を迎えていた。無数に刻まれた切り傷が熱を持ち、脈打つたびにじくじくと痛む。出血のせいか、視界の端が白く明滅し始めていた。


 勝機だと思った一瞬すら、相手には読まれていた。次にどちらの手から、どの軌道で刃が来るのか。判断ができなくなっていた。


「もう少しやれるかと思ったが、ここまでか」


 男は興味を失ったようにぼやくと、長剣をゆっくりと振り上げた。

 飛び込む好機も、躱す体力も失ったケセナは、きつく目を瞑り、最期の瞬間を覚悟した。


 その刻。


「……おい」


 ケセナを取り囲んでいた男の一人が、掠れた声を漏らした。

 誰も答えない。

 別の男も、背後の闇へ目を凝らす。先ほどまで浮かべていた下卑た笑みが、ゆっくりと消えていった。


「なんだ。どうした」


 長剣の男が苛立った声を上げる。

 だが、部下たちはケセナを見ていなかった。


 ケセナは荒い息を吐きながら、男たちの視線を追った。

 瓦礫の向こう。暗闇よりもなお深い、真っ黒な衣服を着込んだ大柄な男が、音もなく悠然と立っていた。

 いつからそこにいたのか。足音を聞いた者は、誰もいなかった。


「……グレン」


 誰かが、喉を潰したような声で呟いた。

 その名を知っているらしい男たちの顔から、一斉に血の気が引いていく。


 それを合図に包囲の一角が崩れ、男たちは武器を構えたまま、一歩、また一歩と後退していく。

 やがて一人が踵を返すと、残りの荒くれ者たちも、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


 長剣を構えた男だけは、その場から動かなかった。

 だが、振り上げた長剣は、もうケセナへ向けられていない。


「お前……グレン・ラティア……? なぜ、こんな所に……!?」


 グレンと呼ばれた漆黒の男は、面倒くさそうにぽりぽりと頭を掻いた。


「なぜ、と言われてもなぁ。小さいのが集団でいたぶられていたから、つい、昔の癖で止めに入っただけだ」

「癖……?」


 ケセナが思わず呟く。何をどうすれば、集団にいたぶられる者を助けることが癖になるのか。

 朦朧とした頭では、考えることすらできなかった。


「四星霜ぶりか、マティス」


 グレンが静かな声で問いかけると、マティスと呼ばれた男はばつが悪い表情を浮かべ、力なく剣先を下げた。


「……最悪の再会だな」

「南方で何をしている」

「見りゃ分かるだろ。食うためだ」

「人を殺して奪うことを、食うためとは言わない」

「綺麗事で仕事が降ってくるなら、玄武は誰も野盗になってねぇよ」


 グレンの表情から、わずかに笑みが消えた。


「それでも、その子を殺す理由にはならない」

「相変わらずだな、小言末弟。お節介な裏切り者の『元騎士団長様』が、なんでこんな南方地区にいんだよ」

「訳あってな。詳しくは言えないが」

「あー……そうかよ。そうだろうよ。お前は昔からそうだもんな」

「随分と嫌われたものだなぁ。裏切り者同士だというのに」


 グレンが肩を竦めて半ば呆れたように笑うと、ちらりとケセナを見た。

 ケセナは驚いて目を逸らし、無意識に左手で右頬の傷に触れる。まだ血が流れている傷口がずきりと痛み、ケセナは顔をしかめた。


 その瞬間、全身の生傷が一斉に悲鳴を上げ始めた。


「っ……!」


 耐えきれない激痛に視界が揺らぐ。ケセナの身体がぐらりと傾く。


「おっと」


 倒れる寸前、強靱な腕がケセナの身体を支えた。

 見上げれば、グレンの整った顔がある。だが、もう瞼が鉛のように重かった。


 気力を振り絞って意識を繋ぎ止めようとするが、限界を超えた身体はまるで言うことを聞かない。泥のような疲労感に包まれ、ケセナはそのまま深い闇の中へ意識を手放した。


 腕の中で完全に気を失った青年を見下ろし、グレンは小さく溜息を吐く。


「この場は、俺に免じて退いてくれないか」


 穏やかな声だった。

 だが、一切の反論を許さない圧が込められている。

 マティスは忌々しそうに舌打ちをし、長剣を鞘へ納めた。


「免じるも何も、すっかり気が削がれた。好きにしろ」


 マティスは自嘲気味に笑って背を向ける。


「じゃあな、小言末弟」


 そう言い残し、暗闇へと消えていった。


 グレンは黙ってそれを見送ると、腕の中の青年を軽々と抱き上げた。青年とは思えないほど軽いその身体に少しだけ眉を顰めつつ、気を失った顔を覗き込む。


 泥と血に塗れ、憔悴しきった顔は青白い。致命傷こそないが、無数の切り傷からの出血が酷い。特に右頬の傷は深く、一刻も早く手当てが必要な状態だった。


 刃で裂かれた生乾きの衣服の隙間から、真新しい傷だけではなく、無数の消えない古傷までが覗いている。それを確認し、グレンはケセナの寝顔をまじまじと観察した。


「似ている、というよりも……」


 誰に言うともなく、呟く。

 グレンは血塗れの青年を抱え直し、音もなく暗闇の奥へと消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。