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第十一話 置き去りの封玉

 食事を終え、二階の割り当てられた部屋に入ったケセナは、ふらふらと寝台に手をついた。

 量が、多すぎたのだ。

 残すこともできず、しかし吐くわけにもいかず、なんとか食べ終えて逃げるように部屋へ戻ってきた。

 けれど、とうに限界だった。


「ぐぇ……っ、かはっ……」


 汚してはいけないと両手で口を固く押さえ、逆流してきた物を落とさないようにするのが精一杯だった。口内に広がる嫌な臭いに顔を顰めながら、ケセナは嗚咽を堪え、なんとか飲み込むと、新鮮な空気を求めて大きく息を吸い込んだ。


 いつもなら、適当に残している。だが、もし彼らが『ファルイーア』のことを知っているのだとすれば、当然その食事量も知っているはずだ。だから、少しでも怪しまれないよう、無理をして完食しなければならなかった。そう思ったのだが。

 やはり、無理をしすぎた。


 ふと視線を上げると、寝台の横にある小さな机の上に、水の張られた桶が置かれているのを見つけた。


(洗おう……)


 汚れた手を水で濯ぐ。けれど吐き気は収まらず、その場に力なく蹲ってしまった。

 情けない、と胸中で毒づくが、どうしようもない。


 十の息が過ぎた頃、漸く内臓の痙攣が引きはじめ、げっそりとした顔で立ち上がる。


(水、変えなきゃ……)


 桶を持ってのろのろと部屋を出る。

 突き当たりに溜め水用の大きな桶が見え、一階にいる彼らの元へ行かずに済むことに安堵した。


 新しい水を汲んで部屋に戻り、ケセナは桶の水で身体の汗や汚れを落とし、ついでに汚れた衣服も丸洗いした。身体も服もすっきりして、沈んでいた気分が少しだけ晴れる。

 干す場所がないので、濡れそぼった服をとりあえず椅子に掛け、薄着になったケセナはそのまま寝台に倒れ込んだ。


 寝たい。

 だが、頭の奥が冴えきって眠れない。


 瞼を閉じれば閉じるほど、眉間の皺が深くなっていく。

 先ほど食堂で見たガイアの姿が、どうにも頭から離れないのだ。


 族長という立場でありながら、忙しなく給仕として立ち働く姿は、あまりに新鮮で、そして奇妙だった。彼とキョウは「ファルイーアを助けてほしい」と告げて以降、無理に深追いしてくる様子はなかった。

 それが逆に、ケセナの心に得体の知れないざわつきを残している。


 ケセナは、ごろんと寝返りを打つ。

 視線の先、机の上に置いた封玉が目に留まった。


 一人で考え込むと、ろくなことにならない。プラークルウを話し相手にしようと、寝そべったまま右手を伸ばす。だが、指先がなかなか机に届かない。

 身体を起こせば済む話だ。そんなことは分かっている。だがこの状態のケセナには、それすら途方もなく億劫に思えた。


 彼は寝台から身を乗り出し、普段は隠している腕の古傷が露わになっているのを見て少しだけ眉を寄せながら、必死に指を伸ばす。


「も、う……少し……っ!」


 身体の半分以上が宙に浮き、指先がようやく封玉の冷たい表面に触れた。手繰り寄せ、掌に収まった確かな感覚に、ケセナは満足げに口元を緩める。


「取れた……わっ」


 どすん。

 バランスを崩し、身体を支えきれず、ケセナは寝台から床へと無様に転落した。


「……っづ……」


 顎を打ちつけ、鋭い痛みに顔を歪める。分かれ道で受けたプラークルウの頭突きの痛みが重なったせいもあるが、それ以上に、無理に食事を詰め込み、吐き戻しそうになった身体には、踏ん張るだけの力が残っていなかった。

 ゆっくりと身体を起こし、寝台の縁に寄りかかって座る。誰も見ていないのがせめてもの救いだが、己の情けなさに深い溜息が込み上げた。


 気を取り直し、手の中の封玉に向かって囁く。


「プラウ」


 小さな光が浮かび上がり、プラークルウが姿を現した。彼女は現れるなり、怯えるように周囲をきょろきょろと見回す。


「あの赤い人……もういませんか?」

「族長のこと?」


 プラークルウはこくりと頷いた。

 その表情はみるみるうちに、信じられないものを見るような色へ変わり、いつもの容赦ない毒舌が炸裂する。


「族長? あれが? うわぁ、朱雀族終了のお知らせですね、それは」


 ケセナは困惑しつつも尋ねる。


「……やっぱり、ガイアを知っているんだね」

「存じてますよ。その頃は族長どころか、ただの暴れん坊な馬鹿でしたけど」


 辛辣に吐き捨てる。

 プラークルウは主以外の人間には極めて厳しい。オウセイに対してもそうだった。きっといつか、自分もどこかで「ただの優柔不断な馬鹿」と言われるのだろうと想像し、ケセナは密かに溜息を漏らす。


 しかし、この夜のプラークルウは様子が違った。さらに愚痴が続くかと思いきや、彼女は急に項垂れて口を噤んでしまったのだ。


「プラウ?」

「……私、あの人に気づかれましたよね」

「うん。しっかり見られていたみたいだね」

「やっぱり……」


 しかめっ面になったプラークルウは、力なく肩を落とした。


「ごめんなさい、ケセナ様。私があの時、もっと早く隠れていれば。……疑われませんでしたか?」

「大丈夫のような、そうじゃないような」

「……っ!」


 プラークルウは涙目でケセナの顔へ飛びつき、ぎゅっとしがみついた。「ごめんなさい」と何度も繰り返す。


「プラウのせいじゃないよ。俺の不注意だったんだ。元気出して」


 優しく慰めるものの、プラークルウは俯いたまま後退し、すとんと座り込んでしまった。

 沈黙の中、ケセナの胸に先ほどから消えないひとつの疑念が鎌首をもたげる。


「ねぇ、プラウ。一つ聞きたいことがあるんだ」

「……? 何でしょう?」

「『ファルイーアの魔力の源は、オウセイの力』って……どういう意味?」


 刹那。

 プラークルウの金色の瞳が、驚愕に見開かれた。


 わなわなと震え、言葉を失う彼女に、ケセナは静かに念を押す。


「知っているなら、教えてほしいんだ」

「……誰から、それを……?」


 絞り出すような声だった。額には脂汗が滲んでいる。全身が『教えてはいけない』と激しく拒絶しているのが、ケセナにも痛いほど分かった。


「ガイアとキョウが言い合っているのを、少し聞いたんだ」

「あの二人……っ!」


 プラークルウの瞳に強い怒りが宿る。

 オウセイやキリエと同じように、彼女にとってもケセナは『ケセナ』でなければならなかった。ファルイーアという血塗られた過去を知れば、彼はまた、自分を殺すあの日々へ戻ってしまう。


「プラウ?」

「……ダメです」


 プラークルウは真っ直ぐにケセナを見据え、はっきりと拒絶した。


「これだけは、口が裂けても言えません。ダメなんです、絶対に!」

「プラウ!」


 ケセナの呼びかけを拒み、プラークルウは逃げるように封玉の中へ姿を消した。


 完全に拒絶された衝撃で、ケセナの心臓が不快な音を立てて早鐘を打ち始める。彼は手の中の封玉を見つめた。きらきらと光る、美しくも謎に満ちた宝具。

 ケセナはそのまま寝台へ沈み込み、全身の力を抜いた。


 手から封玉が転がり落ち、床で鈍い音を立てたが、拾い直す気力も起きなかった。


 ――ファルイーアの魔力の源は、オウセイの力。


 その言葉が、呪文のように脳裏へこびりついて離れない。ガイアに聞けば分かるだろうか。いや、そんなことを尋ねれば、自分がファルイーアであることを自ら認めるのと同じだ。それは『死』を意味する応龍狩りに直結する。


(もし二人が……俺が応龍族だと気づいていたら?)


 キョウは確信していた。ファルイーアを深く愛する彼女の目は、誤魔化しようがない。

 では、ガイアは?

 彼は評議会の一員だ。


 もし、先ほどの優しい言葉がすべて、自分を油断させて捕らえるための巧妙な罠だったとしたら――。


「……っ」


 ぞくりと、悪寒のような戦慄が背筋を駆け抜けた。


「逃げなきゃ……」


 のほほんと寝ている場合ではない。得体の知れない恐怖が冷水のように全身を支配し、ケセナは弾かれたように立ち上がった。


 椅子に掛けていた、まだ生乾きの冷たい衣服をひったくるようにして身に着ける。気づかれていれば、夜のうちに兵が踏み込んでくるかもしれない。以前に見た応龍狩りの凄惨な光景が、走馬灯のように脳内を埋め尽くす。

 もう、冷静な判断力など微塵も残っていなかった。


 ケセナは部屋の扉を開け、外へと飛び出した。

 荒い呼吸を乱しながら暗い廊下を駆け抜け、ガイアの家から夜の廃墟へと逃げ出していく。


 ――誰もいなくなった部屋の床には。


 唯一の理解者であるはずのプラークルウと、旅の荷物すべてを収めた封玉が、ぽつりと置き去りにされていた。

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