第九十七話 仁王の凱旋
眩しい光に照らされた正門の向こう。
無数の兵士たちの視線が一斉に、前線から帰還したグレンたち、そして彼の背に負われた金髪の青年へと注がれた。
張り詰めた静寂。数えきれない瞳がたった一点を見つめるだけで、空気そのものが重くなる。
「うわ……」
その空気に気圧され、ケセナは思わず小さな声を漏らした。
「どうした?」
グレンが首を捻り、背中のケセナへ首だけ向けた。
「なんか俺、場違いな気がして」
「何を言っている。お前が成したことだ。胸を張れ」
「……讃えられるなんて、俺、慣れてない」
思わず零れた弱音に、グレンは言葉を失った。
(……そうだ。この子は、ずっと光の中に立つ側じゃなかった)
本来立つべき場所は奪われた。
歩かされたのは、いつも暗がりばかりだった。
褒められたことなど、ほとんどない。
彼を『兵器』として育ててしまったあの星霜の中で、ただの一人の子供として褒めてやれたことなどなかった。
どんな言葉をかけてやるべきか。
グレンが答えを探して黙り込んでいると、ケセナが背中へ頬をすり寄せ、小さな声で言った。
「…………でも、ちょっと嬉しい」
わずかに間を置く。
そして、さらに小さく空気のように言った。
「……人に、なれる気がする」
「……そうか」
そのあまりに素直な響きに、グレンは険しい顔をわずかに和らげ、静かに目を細めた。
そんな二人のやり取りを聞いていたレイアが、呆れたように口を挟む。
「それにしても、威厳がまるでない凱旋だな、王よ」
「あはは……王は、やめてください……」
数万の視線を浴びながら、ケセナはグレンの広い背中で、世界一情けない顔をして身を縮めた。
だが、ふと整列した兵士たちへ目を向けた途端、その頼りない表情が鋭く変わる。
気絶したフィサルーアをガイアから受け取った兵たちが、皇帝を殺した大罪人への憎悪からか、その細い腕を乱暴に掴み、冷たい石畳の上を引きずるように連行しようとしていたのだ。
「待って! フィサルーアを乱暴に扱わないで!」
咄嗟に、ケセナは叫んでいた。
ただならぬ声色に、フィサルーアを拘束していた兵たちがびくりと肩を震わせ、その場で動きを止める。
「なぜだ、王よ。あれは皇帝を殺害した大罪人だ」
レイアが鋭い目で問う。
「違う。フィサルーアは、魔人に操られていたんです」
ケセナはグレンの背から、琥珀色の瞳を真っ直ぐレイアへ向けた。
「彼は、俺でもある。彼だって、望んでああ生まれたわけじゃない。だから、丁重に扱ってほしい」
広場に重い沈黙が落ちた。
憎むべき偽物にすら手を伸ばす、あまりにも真っ直ぐな慈悲。
やがて、白虎族長たるレイアは小さく息を吐き、静かに頷いた。
「……了承した。マジョルド。フィサルーア様を我が別邸へ。丁重に治療を施せ」
「仰せのままに」
まるで最初からその場に控えていたかのように、風の音一つ立てず、初老の燕尾服に身を包んだレイアの夫、マジョルドが姿を現した。
彼は驚く兵たちの間を滑るように抜け、乱暴に掴まれていたフィサルーアの身体を、壊れ物でも扱うように静かに抱き上げると、一瞬でその場から姿を消した。
「……どこにいたんだよ、あの執事」
ガイアが目を白黒させながら呟く。
王の剣は全員、同じ顔をしていた。
張り詰めていた空気がふっと緩み、グレンもキョウも、ラルも思わず吹き出す。
「マジョルドさん、相変わらず神出鬼没」
ラルが呟き、消えた執事の残像を探すように虚空を見つめる。
「へぇ、あれがレイア様の旦那様なのね……ちょっとガイア、見習いなさいよ」
我に返ったキョウが、隣でまだ呆然としている赤髪の巨漢の脇腹を、容赦なく肘で小突いた。
「何をだよ! ふざけんなよ、キョウ!」
急所を突かれたガイアがくの字に身を屈め、涙目で吠える。
「こう、この角度で、優雅に礼を!」
キョウはガイアの抗議など一切無視し、先ほどのマジョルドの完璧な一礼を真似て、背筋を伸ばしたまま優雅に頭を下げてみせた。
「あーーー! なんで俺が執事にならなきゃならねぇんだよ!」
「礼儀がなってないって遠回しに言ってるだけよ!」
「直球だろ! それ!」
数万の兵が整列する厳かな広場の真ん中で、まるで平時の酒場のような二人の漫才が堂々と繰り広げられる。
「グレンよ、貴様の弟子たちは騒がしいな」
呆れ半分、面白さ半分のレイアの言葉に、グレンは深く、疲れたように頭を垂れた。
「……申し訳ありません……レイア様。自分の教育が行き届かず」
胃を痛めたような騎士団長の謝罪に、ただでさえ重かった空気が妙な方向へと沈んでいく。
「教育の問題なのかなぁ……」
ケセナはグレンの背へ顎を乗せたまま、率直すぎる疑問をぽつりと零した。
どれだけ場所が壮大でも、どれだけ重い使命を終えた後でも、彼らは彼らのままだ。
いつものように遠慮なく騒ぐガイアたちの姿を眺めていると、肩の力が抜け、自然と小さな笑みが浮かぶ。
「……さあ、新しき王の帰還じゃ」
そんな王の剣たちの平穏なやり取りをよそに、静かに見守っていたツェヴァンが一歩前へ進み出た。
そして、広場を埋め尽くす全軍勢へ向けて、深くよく通る声で高らかに告げる。
「皆の者、その目にしかと刻め! この世界ファミラスの新たなる光――ファルイーア・ク・フェスカ様の凱旋であるっ!!」
「うおおおおぉぉぉ!!」
地鳴りのような歓声が皇都へ轟いた。
数万の兵たちが一斉に武器を天へ掲げ、世界を救った青年を称える。熱狂が波のように広がり、割れんばかりの拍手と足踏みが大地を揺らした。
「……参ったな」
鳴り止まぬ歓声の中、ケセナはグレンの背中に顔を埋めたまま、困ったように苦笑した。
「俺、皇帝になるつもりなんてないんだけど」
「ここまで派手に祭り上げられたんだ。少しは腹を括れ、陛下」
グレンが背の彼を落とさぬよう抱え直し、口端をわずかに上げる。
揶揄うような声音だった。
けれど、その呼び名は、ケセナの胸に小さく鋭く刺さった。
数万の兵に称えられた『ファルイーア・ク・フェスカ』という名が、自分をまた別の、孤独な玉座という檻へ閉じ込めようとしている。
何より、グレンの口から出た「陛下」という響きが、二人を繋いでいた温かな距離を、ほんの少し遠ざけてしまったように思えたのだ。
「……グレンさん」
背中で、ケセナがぽつりと呟く。
首に回された細い腕が、不安げにかすかに震えているのを、グレンははっきりと感じ取った。
「名前で、呼んで……」
縋るような、か細い声だった。
グレンは歩みを止め、わずかに表情を和らげる。
この青年は、世界を救う力を持っていても、一人で玉座に座ることなど望んではいない。
彼が欲しかったのは、権力でも威厳でもなく、ただ己の存在を肯定し、名前で呼んでくれる温かい居場所だけだ。
「……分かっている。ケセナ」
愛し子の名を、グレンは優しく、慈しむように紡ぐ。
そのたった三文字が、どんな魔法よりも確かな救いとなってケセナの胸を満たした。
「……ありがと……」
ケセナの震えが止まり、安堵の吐息がグレンの首筋に落ちる。
「なら、胸を張って挨拶しろ」
「えー……」
つい先ほどまでの切実な不安が嘘のように、ケセナは心底嫌そうな声を漏らす。
不満を垂らしたケセナの尻を、横を歩いていたラルが容赦なくぺちりと叩いた。
「いたっ、ラル、なにす———」
「こういう刻くらい、皇帝して。みんな待ってる」
「……はい……」
厳しい友からの物理的な叱咤に、ケセナは観念したように呟き、グレンの背中でゆっくりと前を向いた。
視界いっぱいに広がるのは、整然と並ぶ無数の兵士たちの顔。
誰もが彼を見上げ、希望を託すような熱い瞳を向けている。
昼巡りの始まりの光に照らされたその壮観は、彼らが命を賭けて守り抜いた、新しい世界そのものだった。
眩しさに少し目を細めながら、ケセナは数万の軍勢へ向けて、そっと右手を掲げる。
玉座の上からではなく。
グレンの背という、温かくて、どうしようもなく彼らしい場所から。
それでも、昼巡りの始まりの光を受けた金の髪と、誰より優しく揺れる琥珀色の瞳は、確かにこの世界の前へ立っていた。
地鳴りのような歓声は、いつまでも、いつまでも皇都の空を揺らし続けていた。




