第九十六話 君は僕だから
フィサルーアの右目から、赤い血が流れ落ちた。
彼は浅く掠れた呼吸を繰り返し、虚ろになった左目で、自分を抱き留めているケセナの顔を見上げた。
「……魔人を失えば、私は動かぬ泥人形に戻るだけ。玉座に座る資格など、初めからなかった」
意識が切れかけてもなお、吐き出したのは最後の矜持だった。
「……終わらせるなら、この刻ですよ」
魔人を失った以上、自分はもう立てない。
ならば、ここで切り捨てられる方がまだましだ。そう告げるように見上げるフィサルーアへ、ケセナは静かに、けれど迷いなく首を横に振った。
「安心しろ。切り離したのは、魔人の瘴気だけだ」
「切り離す? そんな精密な芸当、貴方に……」
そこまで口にして、フィサルーアは薄く目を細めた。
「ああ。貴方なら造作もないですね、オウセイ」
だが、すぐに彼の眉間へ困惑が戻る。
「では、なぜ私はまだ意識を保っているのです? 魔人を失ったのに、なぜまだ生きているのですか?」
フィサルーアの言葉を受け、オウセイの気配が静かに奥へ退いた。
理解できない、と言わんばかりに揺れる視線へ、ケセナはそっと顔を寄せる。そして彼の耳元に、救世主としてではなく、ただのファルイーアとしての静かな声を落とした。
「生きられるよ。だって、君は、僕だから」
「――っ」
フィサルーアの息が止まった。
見下し、憎み、殺そうとしてきた相手。
自分の人生を奪った偽物だと知りながら、ケセナはなお、その生を肯定した。
お前は空っぽの泥人形じゃない。同じ命の半身なのだと。
それは屈辱だった。けれど、何よりも得難い救いでもあった。
フィサルーアは紅い左目を大きく見開いたまま、ケセナの肩へ体重を預け、そのまま完全に意識を手放した。
「……重っ。え、待って、無理、潰れるっ」
気を失った分身の身体を、ケセナの細い腕が支えきれず震え出した。
二人がもつれるように崩れそうになった、その寸前。
「……腕力くらい鍛えろ、ケセナ」
背後から伸びたグレンの分厚い腕が、ケセナごとフィサルーアの身体を力強く支えた。
「グレンさん」
「……フィサルーア様は生きているな」
グレンは、リュウショウを殺した青年の寝顔を複雑な面持ちで見下ろした。
魔人の侵食から解き放たれ、ただ静かに眠るフィサルーアの顔には、幼い頃にグレンが守ると誓った、あの『太陽のような少年』の面影が、まだかすかに残っていた。
「……先生。どうするつもりですか」
背後でキョウが弓を構えたまま問う。
ガイアもラルも無言で、グレンの判断を待っていた。
魔人に蝕まれていたとはいえ、彼が世界を陥れ、皇帝を殺した事実は消えない。
グレンは、改めてその静かな寝顔を見下ろした。
憎しみがないわけではない。この手で首を落とせば、どれほど楽かと思わぬわけでもない。
それでも。
「拘束し、連れて行く」
グレンは手早くフィサルーアの両腕を拘束し、その身体をガイアへ預けながら、静かに告げた。
「……フィア様には、死んで詫びるという安易な逃げ道は許さない。生きて、自分が何をしたのか、その重さとどう向き合うべきか……ゆっくり考えさせなければならん」
それは親友を奪われた男としての最大限の譲歩であり、この青年を愛した大人としての情けでもあった。
「……ありがとう、グレンさん」
金の髪を揺らして微笑むケセナの頭を、グレンは照れ隠しのように乱暴に撫でた。
「お前が助けたいと言ったんだ。王の意向を汲んだだけだ」
玉座の間へ、確かな静けさが戻る。
歪な創造と狂気に満ちた戦いは、こうして幕を下ろした。
誰もがようやく息を吐きかけた、その刹那。
「ケセナっ」
「ファルっ」
ラルとキョウが勢いよく駆け寄ってくる。
ケセナの目前で、キョウが勢いよく飛びついた。
「待って、今それは無理――」
「ファルゥゥゥゥ! かっこよかったよ! 頑張ったわね! 偉いわ!!」
「く……苦し……っ!」
飛びつかれ、大理石の床に倒れ込みながらケセナは悲鳴を上げ、隣でラルが地団駄を踏む。
「ちょっと! ケセナ、怪我してるのに!」
「いや、怪我はもう治って……痛い! 痛い! キョウ! 痛いって!」
ぎゅうぎゅうに締め上げられ、ケセナは本気で魂が抜けそうになった。
「キョウ、それくらいにしておけ。お前のファルイーアが死ぬぞ」
「……え?」
グレンの忠告にキョウは我に返り、慌ててケセナから離れた。
「わあああああ、ごめん、ファル!」
魂まで絞り出されそうな顔をしているケセナに、キョウは平謝りする。
「馬鹿か、おめぇは」
フィサルーアを抱えたガイアが半眼で呻いた。
「うるさい! 嬉しかったんだもの!」
「嬉しさでケセナを殺さないで」
「……死んでないし。死にそうだけど」
そんな彼らのいつもの喧騒を、グレンは温かな笑みを浮かべて見守っていた。
そして、ケセナへ歩み寄る。
「帰るぞ、ケセナ」
ケセナは小さく頷き、ふっと安堵の笑みを浮かべた。
「うん」
キョウが立ち上がり、ガイアと共に歩き出す。ラルもちらりとケセナを見つつ歩き出した。
……が、ケセナはそこから一歩も動かない。
足を投げ出し、両腕をだらりと下げたまま、床に根が生えたように座り込んでいる。
「……どうした?」
不思議に思ったグレンが身を屈め、ケセナの顔を覗き込む。
ケセナは少しだけ視線を逸らし、何かをもごもごと口ごもった。
「……って」
「ん? 聞こえん」
「…………」
グレンがさらに耳を寄せる。
ケセナはぱっと顔を上げ、琥珀色の瞳をきらきらと輝かせて、これ以上ないほど力強く言い放った。
「背負って!!」
「……は?」
グレンが間の抜けた声を漏らす。
「おんぶ! もう指一本動かす体力もない! 限界! 魔力も空っぽ!」
ケセナは遠慮の欠片もなく、両手をグレンへ突き出した。
「だから、運んで」
「……っ、ふ」
吹き出したのは、ガイアだった。
「おいおい、英雄様が最後はおんぶのおねだりかよ」
「まあ、当然でしょ。あれだけ無茶をして、まだ歩ける方が異常よ」
キョウも口元を押さえ、くすくすと笑う。
「あたしが背負う」
ラルが元気よく申し出るが、ケセナは即座に首を横に振った。
「ううん。グレンさんがいい。グレンさんの背中、大きいから安心する」
「…………」
名指しされたグレンは呆れたように息を吐いた。
だが、その顔にはどこか愛しさを隠しきれない色が浮かんでいる。
かつて彼を兵器にしてしまった自分へ、今は何のためらいもなく「背負って」と甘えてくれる。それがどれほどの救いか、言葉にできるものではなかった。
グレンは、静かにしゃがみ込む。
「……まったく。俺を足代わりに使うとは、随分偉くなったな」
「俺、偉いもん」
「……ああ。そうだな。ほら、乗れ」
「うん!」
ケセナは嬉しそうにグレンの広い背中へ飛びつき、その太い首へしっかりと腕を回した。
「帰るか」
「うん。……寝たいし」
「もう寝る気か」
背中から落ちる呑気な答えに、グレンは思わず笑う。
「行きは随分と陰に潜った。帰りは……正面から堂々と出るぞ」
グレンが立ち上がり、フィサルーアを担いだガイアたちを率いて、玉座の間の正面扉へ向き直る。
もはや地下の闇に隠れる必要はない。
世界を救い、一人の青年を呪縛から解き放った彼らは、光が差し込み始めた皇宮の回廊を、堂々たる足取りで進んでいった。
道すがら、フィサルーアを担ぐガイアが、グレンの背で揺られるケセナへにやにやと声を飛ばす。
「……お前さ」
「何?」
「動けねぇのは分かった」
「うん」
「けどよ、あの阿呆迷路で先生を運搬手段にする便利さ、完全に覚えただろ」
「へっ!? そ、そ、そんなこと……!」
図星を突かれたのか、ケセナが露骨に狼狽える。
だが、その言葉へ最も大きく反応したのは、背負っている本人だった。
「運搬手段か。上等だ」
背負っている本人であるグレンが、当然のように言い切ったのだ。
「そこ嬉しがるところじゃないでしょ!?」
「先生、最悪な黒馬鹿」
「ラル……その言い方、完全にプラウだよ」
思わずケセナが抗議し、ラルが容赦なく冷ややかな目を向ける。
しかし、グレンは何でもないことのように続けた。
「迷子の危険が減るなら、背負うくらい安いものだ」
「お前、すーぐ迷子になっからなぁ」
ガイアまで面白がるように口を挟む。
「……ちゃんと歩いてるのに」
「ふふ、悔しがるファル、可愛い」
「キョウは何を言ってるの!?」
顔を真っ赤にして抗議するケセナ。
それを面白がって笑うガイアとラル。
キョウは本気で頷いている。
そしてグレンだけは、背中の温かさに妙に満足げだった。
騒がしくて、温かい。
その声が、死んだように静まり返っていた皇宮へ、少しずつ人の気配を取り戻していく。
次々と回廊を抜け、一行は長い戦いの終わりを告げるように、重厚な皇宮の正門を押し開けた。
重い音を立てて、視界が大きく開く。
眩しい光に照らされた巨大な門の向こう。
そこには、一糸乱れぬ隊列で整列した無数の軍勢が、静まり返った広場を埋め尽くしていた。
そして、その先頭。
帰還した彼らを真っ直ぐ見据えて立っていたのは――。
「……遅いぞ、騎士団長」
傷だらけの甲冑を纏ったレイアと、その後ろで静かに笑みを浮かべるツェヴァンだった。




