第九十五話 狂王フィサルーア
私室を出た城内には、やはり誰一人としていなかった。
いつもなら警備の兵や、忙しなく立ち働く召使たちが行き交うはずの廊下も、張り詰めた静寂と冷えた空気に沈んでいる。
そんな緊張の只中で、自信満々に先頭を歩いていたケセナが、左右と正面に分かれた回廊の前で、足を止めた。
霞む視界では、自分の位置がうまく掴めない。
疲労のせいだけではなかった。右腕の奥にいる黄金龍の気配が、ケセナの目を通して外の世界を見ようと干渉している。
物理的な景色と、龍が捉える魔力の景色がちかちかと重なり、どうにも焦点が合わなかった。
(……よりによって、こんな刻に……翼を借りたの、怒ってるのかな……)
気まずそうに目を伏せ、それからそっと背後のグレンを振り返る。
「……ねえ。玉座って、どっちだっけ?」
「…………」
グレンは無言で目頭を押さえ、深く、長い息を吐いた。
「お前、道も知らずに得意げに先頭を歩いていたのかよ」
ガイアが呆れ返ってぼやくと、ケセナはむっと頬を膨らませる。
「……ちょっとど忘れしただけだよ。そもそも、皇帝の私室から直接玉座の間へ向かうなんて、普通は使わないじゃないか」
必死の弁明に、大人たち全員がそろって半眼になった。
違う。
これは完全に、また迷いかけていた顔だ。
誰も口には出さなかったが、その沈黙だけで十分だった。
「……こっちだ」
ついに痺れを切らしたグレンが、ケセナが進もうとしていた正面ではなく、右の回廊へ歩き出す。
ガイア、キョウ、ラルも、やれやれと肩を竦めながら続いた。
「…………」
勇ましく先頭を切っていたはずのケセナは、あっさり最後尾へ降格である。
肩を落とし、霞む視界をどうにか広げようと目を細めながら、彼らの背中を必死に追った。
グレンの先導のもと、一行は迷いなく城内を進んだ。
彼らが抜けてきた皇帝の私室は、皇族区画の最奥に位置している。そこから玉座の間へ伸びる回廊の窓からは、美しく整えられた中庭が見下ろせた。
(……あの中庭で、よくリュウショウと語り合ったものだ)
忠誠を誓った親友であり、先代皇帝でもあった男の姿が脳裏をよぎる。
グレンは一拍だけ足を緩め、その景色へ目を留めた。
だが、感傷に浸っている余裕などない。
すぐに視線を戻し、足早に回廊を抜けると、一枚の重厚な石扉の前で立ち止まった。
「……ここだ。この先が玉座の間になる」
「へぇ。こっちから入れば、ちょうど玉座の真裏に出るわけか。あいつ、少しは間抜けな顔するんじゃねぇの?」
ガイアが緊張を紛らわせるように、にやりと笑う。
「ふふ、見てみたいわね」
「……ちょっとだけ、興味ある」
キョウとラルも小さく口元を緩めた。
ケセナもまた、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
もっとも、あのフィサルーアが裏口から現れた程度で取り乱し、隙を晒すとも思えなかったが。
「……行くぞ」
短い号令が落ちる。
グレンがゆっくりと石扉を押し開けた。
開かれた扉の正面に見えたのは、豪奢な玉座の背だった。
その背に寄りかかるようにして、透き通るような金髪が揺れている。
玉座に座る男が、気怠げに背凭れから顔を出した。
右目には黒い眼帯。長く垂れた右側の前髪が、それを覆い隠すように顔の半分へかかっている。
剥き出しの左目を吊り上げ、紅の瞳だけが氷の刃のような冷たさでこちらを睨んでいた。
「――予想外のところから現れましたね。無礼にも程がありますよ、“兄上”」
魔人に魅入られた狂王、フィサルーア・ク・フェスカは、玉座へだらしなく身を預けたまま、這うような声で言い放った。
「……この私がわざわざ待っていてやったというのに」
心底つまらなそうな溜息が、広い間へ落ちる。
その声を聞きながら、ケセナは霞んだ視界を無理やり広げようとしていた。
(輪郭だけは、なんとか。……それにしても)
目の前のフィサルーアとケセナは、まともに会話をしたことがない。
それ以上にフィサルーアは、顔を合わせるたびにファルイーアを激しく見下し、道端の虫でも眺めるような視線を向けていた。
(……“兄上”、か)
その呼び方の奥にある、歪んだ執着と優越感。
ケセナの胸の底で、冷えた感情が静かに渦を巻く。
フィサルーアは知っている。
自分が禁呪で生み出された偽物であり、目の前にいるファルイーアこそが、本来この玉座に座るべき皇太子だったことを。
だからこそ、彼は本物を『木偶』と貶めることでしか、自分を支えられなかったのだろう。
先の内乱で裏から糸を引き、右目に魔人を宿してまで覇道へ縋りついたのも、そのためだろう。
「……フィサルーア様」
重苦しい沈黙を破って、グレンが問う。
「なぜ、リュウショウ様を……お父上を、手にかけたのです」
「グレン。つまらぬことを問うな」
フィサルーアは眼帯の奥――魔人の巣食う右目を歪めるようにして嗤った。
「要らぬから切った。それだけです。あれは私の覇道に邪魔だった。……そこにいる木偶も同じで、以前は私の『影』として役に立ったが、もう不要です。見ているだけで不快なんですよ」
フィサルーアが気怠げに右手を持ち上げる。
直後、玉座の間にどす黒い瘴気が渦巻き、空中へ幾重もの禍々しい魔法陣が展開された。
「なっ……魔術……!?」
ガイアが声を上げる。
禁呪で作られたフィサルーアには、本来、一切の魔力が備わっていないはずだった。
「違う、これ、魔法!」
精霊の悲鳴を聞き、ラルが叫んだ。
次の瞬間、漆黒の魔弾が暴風のように『王の剣』へ降り注ぐ。
「ちぃっ!!」
グレンとガイアが即座に前へ出て、凄まじい衝撃をそれぞれの武器で弾き返す。
キョウが後方から矢を放ち、迎撃の隙間を埋めていく。
その応酬の最中。
後方で魔力の流れを見極めていたケセナの琥珀色の瞳が、フィサルーアの異変を捉えた。
「!?」
魔法を放つたび、フィサルーアの周辺に歪な黒い煙が舞う。
「ラル! あれ、何!?」
「え? 何を――」
「黒い煙、見えないの!?」
「煙……?」
ラルには見えていなかった。
なら、あれは何なのだろう。
『……気づいたか、宿木よ』
黄金龍が囁いた。
ケセナは右腕を掴み、暴れ出しかけた力を抑え込もうとする。
だが、黄金龍は静かだった。暴れず、奪おうともせず、ただケセナの脳内へ語りかける。
『あれは応龍が崩れる刻に舞う残骸だ。宿木、お前も振り撒いているぞ。滅びの守護の欠片をな』
「……っ!」
『そして我は、オウセイより生まれし狂気の残滓。本来ならば、我は我が片割れへ還るべきだった』
黄金龍の声が、深く沈む。
『だが、お前は違う。ファミラスの獣の血を持ち、ティリティシアの魔人の理を抱き、我が片割れの魂を宿す。……そして、片割れが命を懸けて守ろうとした子だ』
ケセナは息を呑んだ。
右腕の奥で、長く暴れ続けていた黄金龍の気配が、初めて牙を収めている。
敵を討つためではなく、敵の痛みを止めるために叫ぶ。
その在り方を、黄金龍は静かに見ていた。
『……敵であろうと、痛みに手を伸ばすか』
黄金龍の声に、初めて嘲り以外の色が滲んだ。
『愚かだな、宿木。だが、片割れが命を懸けて守った理由は、少し分かった』
右腕の奥で、長く暴れ続けていた黄金龍の気配が、完全に牙を収める。
『気に入った。取り込むのではない。我が、お前へ溶けよう』
その刻、ケセナの右腕で脈打っていた黄金龍の輪郭がほどけた。
支配でも、貸与でもない。
暴威として渦巻いていた力が、血へ、骨へ、魂へと、静かに流れ込んでいく。
視界が、開けた。
背に展開された黄金の翼は、もはや借り受けたものではない。
ケセナ自身の内側から生まれた、黄金龍の力そのものだった。
あまりに鮮明な視界に、ケセナは眉を寄せ、数回瞬きをしたあと、フィサルーアを見据える。
フィサルーアのすべてが、しっかりと見える。
魔力を持たない脆い肉体で、右目の魔人が強引に魔法を駆動させている。その反動で、フィサルーアの顔は苦痛に歪んでいた。
それは、精霊を契約もなく酷使する自分と、何も変わらなかった。
ずっと。
彼はこうして、魔人に内側から食い破られ続けていたのだ。
(ああ、同じだ……)
魔人は宿主の肉体など意に介さない。
このままでは、フィサルーアの身体は魔法の反動だけで崩壊する。
(……痛いだろう)
ケセナは息を呑んだ。
命を削り、肉体が裂ける激痛に耐えながら振るう力。
他者の思惑で作られ、道具として使い潰される痛みを、ケセナは誰より知っている。
自分の人生を奪った偽物。
自分を木偶と切り捨て、玉座にしがみついた哀れな男。
それでも。
「魔法を使うなっ!!!」
ケセナの悲痛な一喝が、玉座の間を震わせた。
「あ……?」
予想外の言葉に、フィサルーアの動きがほんの一瞬だけ止まる。
その隙を、ケセナは逃さなかった。
「グレンさん、ガイア!!」
「おう!!」
両脇の二人が魔人の防壁を力任せにこじ開ける。
その間隙を縫い、ケセナは翼を羽ばたかせて玉座へ肉薄した。
「消えろ、魔人……!!」
フィサルーアの胸ぐらを掴み上げ、そのまま眼帯に覆われた右目へ掌を叩き込む。
掌に集めたのは、相手を砕くための力ではない。魔人の瘴気だけを洗い流す、オウセイ由来の澄み切った浄化の光だった。
「――っっ!!??」
眼帯ごと右目を覆うように叩き込まれた浄化の光に、フィサルーアの身体が大きく跳ねる。
だが、長い星霜にわたり肉体と精神の奥まで根を張っていた魔人は、あまりにしぶとかった。
「ぐ……っ!」
浄化の光を押し返すように、右目から溢れたどす黒い瘴気が暴れ狂う。
純粋な力比べでは分が悪い。押し負けそうになる腕の激痛に、ケセナは顔を激しく歪めた。
もう限界だ――そう直感した刹那。
『――退け。俺がやる』
魂の底から、静かに、だが絶対的な力を帯びて響く声。
蒼髪の救世主、オウセイの声だった。
その圧倒的な頼もしさに、ケセナは一切の抵抗なく、自分の意識を奥へ沈めた。
(……お願い、オウセイ。彼を殺さないで、魔人だけを)
そう願いながら、肉体の主導権を彼へ委ねる。背に広がっていた黄金の翼が、静かに消えた。
「……随分と楽しそうにしているな」
「き……さま……っ!?」
ケセナの口から落ちた声は、先ほどまでのものとはまるで違っていた。
冷たく、古く、絶対者の響き。
フィサルーアの右目に巣食う魔人が、己を滅ぼす天敵の気配を悟り、かつてないほど震え上がる。
オウセイは薄く口端を上げ、腰袋から封玉を取り出す。
「浄化など慈悲が過ぎる。貴様は闇の底で、己が滅びたことすら理解できぬまま朽ちろ」
その無慈悲な宣告とともに、宝刀プラークルウを具現させる。
右目を覆う浄化の光に、底知れぬ漆黒と黄金龍の力を纏わせたプラークルウの切っ先を重ねると、爆発的に光が弾けた。
相反するはずの光と闇、黄金が螺旋を描き、悲鳴を上げる魔人の瘴気を喰い破りながら、右目の奥深くに根を張った魔人だけを容赦なく抉り出していく。
「ぎぃいいいいいいぃいいっっ!!!」
玉座の間へ、おぞましい断末魔が轟いた。
右目から噴き出すどす黒い瘴気が、極彩色の濁流に焼かれ、ちりちりと跡形もなく消えていく。
「あ……が……っ」
巣食っていた魔人を根こそぎ消し飛ばされ、フィサルーアの身体がケセナの腕の中へと崩れ落ちた。
残されたのは、王でも偽物でもない。
ただ壊れかけた一人の男だった。




