第九十四話 不便極まりない扉
暗い地下道を進み、一つ目の重い扉を開けた先には、身を屈めなければ通れないほど小さな、くぐり戸のような扉が待っていた。
眠ったままのケセナを抱え、この狭い穴を抜けるのはさすがに骨が折れる。グレンが眉を寄せて思案していると、
「先生。俺が先に出る。向こうでファルを受け取るぜ」
ガイアがもっともな提案を口にした。
「そうだな、頼む」
「じゃあ、私が先に出て警戒しておくわ。城の中にはフィサルーアしかいないって、あの箒は言ってたけど……正直、そこまで素直には信じられないもの」
キョウはそう言いながら、狭い扉へ身を滑り込ませ、ぴたりと動きを止めた。
そして。
「……は? ちょっと待って。ほんとに?」
素っ頓狂な声を上げる。
「キョウ?」
気になったラルが隣から覗き込み、「……あ」と短く漏らして、そのまま固まった。
「なんだよ、お前ら揃って」
呆れ顔でガイアも覗き込む。
そこは、長いあいだ閉ざされていた皇帝の私室だった。豪奢な調度は薄く埃を被り、長椅子と執務机が取り残されている。
だが、ガイアが見ていたのは、私室の静謐さではなかった。
「…………初代皇帝って、どうやってここを出入りしてたんだよ」
心の底から理解できないという顔で、ガイアはグレンの腕の中にいるケセナへ恨めしげな視線を向けた。
「……むにゃ」
当の本人は、緊張感の欠片もない寝言を落として、すやすやと眠っている。
「このふざけた構造の真相を知ってんのは、その寝ぼけ王様だけなんだよな」
ガイアの呆れ声に、グレンも怪訝そうに身を寄せ、扉の向こうを覗き込んだ。
扉の先は、私室の天井近くにぽっかりと口を開けていた。そこから見下ろす床は遠く、どう考えても無事に降りられる高さではない。
「……おい、ケセナ……」
思わず胸の中のケセナへ視線を落とす。
その背後で、キョウが唸った。
「……待って。私たち、ずっと地下の平坦な道を歩いてきたわよね? 天井に出るような勾配、どこかにあった?」
「城の構造的にも変。壁の向こう、どうなってるの」
「道中に、空間を捻じ曲げる術式でも仕込まれてたか?」
キョウに続き、ラル、ガイアが小声で白熱した議論を始める。
「だいたい、いくら迷子でも、あの小さかったファルがわざわざ壁をよじ登って、こんな天井近くの扉に迷い込む図は無理があるわ」
「……確かに」
キョウのもっともな指摘に、ラルも深く頷いた。
食事もまともに摂れず、星霜齢に見合わぬほど細く小さかった彼が、壁をよじ登って天井近くの扉へ辿り着く。想像しただけで無理がある。
「――この扉はね、開くたびに出口がずれるんだよ。……正確には、ずれるようになっちゃった」
不意に、頭上の議論を遮るように、グレンの腕の中から掠れた声がした。
「ケセナ!」
ラルがぱっと顔を輝かせて駆け寄る。
「大丈夫? どこか痛いところはない?」
「うん、大丈夫。……ちょっとまだ眠いけど」
「寝すぎだ、この肝心な刻に寝る王様」
「え、なにそれ、どういう意味?」
「言葉のままだっ」
安堵したように笑いながら、ガイアも歩み寄って大きな手でケセナの頭をがしがしと撫で回した。
「ガイア、やめて……頭、ぐわんぐわんする……っ!」
「ああ、そうだわ。喋る箒がファルに会いたがってたわよ」
キョウも横から顔を覗き込んで告げる。
だが、ケセナはぽかんと小首を傾げた。
「……箒?」
「お前、覚えてねぇのか?」
撫でていた手を止め、ガイアもケセナの顔を覗き込む。
「……?」
ガイアの大きな手の下で、ケセナはきょとんとしていた。
無理もない。
彼の記憶にあるのは、九星霜齢の頃のことだった。
訓練が終わり、檻へ戻された際、鍵をかけようとしたグレンが誰かに呼ばれた。通路の向こうで、言い争う声がしていた。
その隙に逃げ出した。
暗い抜け道で迷子になり、古びた箒を相手に泣きながら喋っていた、幼い自分の姿。
それが本当に返事をしていたのか。
自分が勝手に友達だと思い込んでいただけなのか。
今となっては、もうはっきりしない。
オウセイの記憶を探っても、喋る箒などどこにもいない。
残っているのは、自分を迎えに来てくれた光景だけだった。
『――ここにいたのか、ファルイーア』
そう呼ばれた刻。
過酷な訓練に泣き、人形と蔑まれていた『兵器としての自分』を本能で拒むように、幼い彼は泣きながら首を振った。
『違う! 僕はケセナ。ケセナ・レフィードで、ファルイーアじゃない!』
咄嗟に口をついて出たその名前は、昔読んだ絵本に出てきた『主人公の友達』の名だった。
英雄でもなく、特別な力を持つ主人公でもない。ただ隣で笑っているだけの、優しくてありふれた友達。
あの刻には現実から逃れるための嘘に過ぎなかったその名が、今ではすっかり、彼自身を証明する大切な名になっている。
「……喋る箒か。俺の記憶にはないけど……それ、ライネルが作ったのかな」
昔の親友であり、初代皇帝でもある男の顔を思い浮かべながら、ケセナはぽつりと零した。
それから、腕の中で小さく身じろぎする。
「グレンさん、ありがとう。もう下ろして」
「……立てるのか?」
「うん。ぐっすり寝たし、少し楽になったから」
グレンの腕から降りたケセナは、静かに床へ足をついた。
そして「んんっ」と小さく背伸びをして、自分の足でしっかりと立つ。
「で? どこに出たの?」
そう言って、狭い扉の向こうを覗き込む。
「…………」
無言のまま、ケセナは勢いよく扉を閉めた。
「おいっ!?」
ガイアが抗議する。
「だから、開くたびに出口がずれるんだって」
「お前なぁ……なんつー扉にしてんだよ!」
「俺のせいじゃないよ! ライネルが『絶対に外から見つからないように』って泣きついてきたから、仕方なく……!」
「にしたって、凝りすぎだろうが!」
ガイアの怒声に、「あはは……」と愛想笑いで誤魔化しながら、ケセナは恐る恐るもう一度扉を開けた。
今度は向こうを見て、ほっと息を吐く。
「よし、ここなら大丈夫。ちゃんと床」
「……ちゃんと床」
「はぁ……」
扉の向こうに床があるという、建物として最低限の条件を満たしただけで安堵する報告に、ラルとキョウは揃って深い疲労を滲ませた。
そんな二人をよそに、ケセナは「よしっ」と気合を入れ、狭い扉の向こうへ身を乗り出す。
「……あいたっ!」
直後、鈍い音と情けない悲鳴が響いた。
「?」
何事かと覗き込むと、そこには両手で頭を押さえてうずくまるケセナの姿があった。
「……ここ、執務机の下に出るみたいだから……みんな、上、気をつけて……」
涙目で振り返りながら恨めしそうにそう告げると、ケセナは埃を被りつつ四つん這いでごそごそと這い出していく。
「……げぇ。最悪」
世界を救うはずの歴戦の戦士たちが、よりによって机の下から這い出なければならない。
その泥臭さに、ガイアは心の底から嫌そうな顔をした。
だが、他に道はない。
ガイアに続いてキョウ、ラルと、順に窮屈な机の下を這い進み、最後に大柄なグレンが身を屈めて扉を抜ける。
「ふぅ……」
どうにか床へ手をつき、机の外へ出ようと勢いよく立ち上がった――その刹那。
「いっ……!!?」
頭頂部を机の天板へしたたかに打ちつけたグレンへ、まだ自分の頭を押さえたままのケセナが、呆れたような半眼を向ける。
「……だから、上に気をつけてって言ったのに」
「っ……ふざけるな、この不便極まりない扉……! さっさと安全な場所に固定しろ!」
「無理だよ! これ、最初に動かした刻に術式が誤作動して、二度と直せなくなったんだから!」
「…………っ」
欠陥品を直せず、そのまま放置した。
その事実に、グレンは頭を押さえたまま、喉元までせり上がった罵声を辛うじて呑み込んだ。
全員が机の下から這い出ると、ケセナが静かに扉を閉める。
空間を歪めていた戸は蜃気楼のようにすっとかき消え、あとにはごく普通の、豪奢な机の下の空間だけが残った。
「……ねえ。ここから出る刻は、その扉をどうやって出すの?」
ラルが不思議そうに尋ねた。
地下道側の入口は『石垣の最下段の、色の違う小さな石』という凝った仕掛けだったが、この私室の中にそんなものは見当たらない。
「えっとね、あの窓枠のところ。あそこを押すと、扉が出るんだよ」
ケセナが指差したのは、大きな窓枠の端。
そこには、目を凝らさなければ気づけないほど小さな透明の宝石が埋め込まれていた。
ケセナがその宝石をかちりと押し込むと、何もない窓下の壁がゆらりと歪み、再びあの小さな扉が現れる。
「わあ……すごい仕掛け」
「それにしても、迷子の最中によくそんな隠し装置を見つけたわね。ファルって、もしかして変なところだけ勘が鋭いの?」
「……違うよ、キョウ。外の景色が見たくて、窓枠によじ登ろうとした刻に、たまたま手が当たっただけ」
大人たちの過大評価に、ケセナはあの頃の小さな自分を思い出して苦笑した。
「それにしたって、すげぇ隠し通路だな。これも魔人の魔法か?」
感心したように壁を叩くガイアへ、ケセナは首を横に振る。
「もちろん使ってるけど……大半は、ただの趣味」
「あ?」
「オーレルディアの防衛装置もそうだけど、こういう仕掛けを作るの、楽しかったんだよ。……ちなみに、宝刀プラークルウも俺が趣味で作った」
「はぁっ!?」
ガイア、キョウ、ラル――そしてグレンまで、揃って声を上げた。
「からくり作りが好きだっただけだよ」
壮大すぎる趣味の告白に、全員が一斉に深い溜息をつく。
グレンは静かに歩み寄ると、ケセナの小さな肩へぽんと手を置いた。
「……まあいい。お前の『趣味』が、こうして俺たちの役に立っている。オウセイには感謝だな」
「…………」
つい先ほどまで自分の頭を押さえて『ふざけるな』と悪態をついていた男の、見事な掌返し。
ケセナは半眼でグレンを見上げ、胸の内のオウセイの呆れをなんとか押し殺しながら、小さく息を吐いた。
「……褒めたって何も出ないけど」
「十分だ」
グレンは短く返すと、その顔から一切の笑みを消し去った。
纏う空気が、応龍騎士団長のそれへと切り替わる。
「行くぞ。……フィサルーアのいる玉座へ」
その一言で、場の空気がぴんと張り詰める。
笑い声の残る私室をあとにし、彼らは私室の扉を抜けた。
その先に広がっていたのは、光の届かない皇宮の廊下。
そして、狂王の待つ玉座へ続く、最後の道だった。




