第八章 答え合わせ
姻族関係終了届を出したのは、十二月三十日の午前だった。
市役所の一階は空いている。窓口の職員は書類を確認して、印を押して、「はい、これで結構です」と言った。十五秒もかからなかった。三年と、あの夜と、折詰の並んだ机が、十五秒で終わる。
帰りに商店街で、母に頼まれた数の子を買った。値段が去年より上がっていた。
*
年が明けた。
三日は誰も来なかった。四日も来なかった。うちにはもともと来る人が少ない。父は箱根駅伝を最初から最後まで見て、母はおせちの残りをタッパーに詰め替えていた。私は台所で、三人ぶんの雑煮の椀を出した。
電話が鳴ったのは、七日の夕方だった。
「あの、奥様。ご無沙汰しております、田淵です」
「はい」
「その……先日は、たいへん失礼をいたしました」
「どちらの件でしょう」
「通夜の席で、私が、あの、沢井のことを保証すると申し上げた件です」
「覚えています」
「あれは、私の認識が足りておりませんで。社内で確認しましたところ、その、二人のあいだには、私の承知していない事情があったようでして」
「そうですか」
「私としましては、部下の不始末を把握できていなかったという点で、責任を感じておりまして」
把握できていなかった責任。あの晩まで保証すると言っていた人の言葉が、十日で形を変える。
「沢井さんは、お元気ですか」
「……社内の話は、申し上げられる立場に」
「わかりました」
「奥様。もし、その、番組の方に何かお話しされるようなことがありましたら、弊社としましては」
「桐生先生にお繋ぎします」
田淵さんは、それから三十秒ほど、丁寧な言葉を並べて切った。名前を三回言い間違えていた。
*
示談が成立したのは、その週の終わりだ。
桐生先生からの連絡は短かった。三百万円の請求に対して、二百万円。一括ではなく分割で、初回の入金が一月末。
「先方の代理人が、生活ができなくなると言ってきました」
「仕事は」
「辞めたそうです。依願退職、ということになっていますが」
「そうですか」
「高梨さん。減額を飲んだのは、取りっぱぐれないためです。負けたわけではありません」
「わかっています」
電話を切ってから、私は少しのあいだ、湯呑みを両手で持っていた。
勝った気はしなかった。二百万円で埋まるものは、この三年のどこにもない。埋めるためのお金ではなく、区切るためのお金だ。そう思うことにした。
*
瀬尾さんから連絡が来たのは、一月の半ばだった。
振込のお知らせは、銀行の様式と一致した。病室の録音は、データの日時と長さに手が入っていない。給与明細も、会社の書式と照らされた。
「放送は、来週の火曜です。夕方の枠で、十二分ほど」
「そうですか」
「高梨さん。ご自身が映る場面は、こちらの判断で使いません」
「構いません。使っていただいても」
「使いません」瀬尾さんの声は、電話でも同じ高さだった。「これは、あなたを助けるための放送ではありませんので」
正直な人だ。だから信じられる。
*
火曜日の夕方、私は実家の居間にいた。
父がテレビの前に座り、母が台所の戸を開けたまま、洗い物の手を止めている。
画面が切り替わる。
がらんどうのリビング。床の凹み。マンションの前で、ぼかしのかかった女性がマイクに向かって泣いている。ここまでは、年末に流れたものと同じだ。
テロップが出た。
――“息子の給与”は、どこへ消えたのか。
振込のお知らせが、机の上に並べて映された。名義のところだけ、白く塗られている。三十六枚。数を数えるカットが、七秒ほど続いた。
斎場の映像。うしろ姿。紙の束。音声が流れる。
――あたしはお金出さないよ。
加工された声でも、抑揚は消えていなかった。
ナレーションは短かった。毎月二十五万円。八年間。残高、十八万四千円。
最後に、近所の人の街頭インタビューが出た。年末に「怖いですよねえ」と言っていた声と、同じ声だった。今度は、こう言う。
「……そんなに、もらってたんですか」
十二分で終わった。
父は最後まで何も言わなかった。テレビが次の話題に移ってから、リモコンを取って、音量を二つ下げた。
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その夜のうちに、画面の上を別の流れが走り始めた。
二枚の画像を並べた投稿だった。左が、年末の告発記事に貼られていたマンションの写真。右が、放送のモザイク越しの背景。玄関脇の傘立てと、花壇のブロックの欠けた角が、同じ位置にある。
――これ、前に嫁を叩いてた人の家じゃん。
――名前、出てるよ。フェイスブック、消えてない。
消してあっても、もう遅かった。誰かが年末に保存していた。
私は投稿を最後まで追わなかった。追う必要がない。一周目、私を潰したのと同じ仕組みが、今は別の家の玄関先に立っている。
郁恵さんからの着信は、三日間で四回あった。出なかった。四回目のあと、桐生先生の事務所にかかったらしい。先生からの報告はひと言だった。
――葬儀費用の相談でした。応じる義務はありません。
藤井さんからは、長いメッセージが来た。親族の集まりは、当分やめることになったという。誰も郁恵さんの名前を出さない。出さないことで、決めたのだと思う。
*
土曜日の昼前、玄関のチャイムが鳴った。
母が出て、そのまま少し黙っていた。私が廊下に出ると、三人いた。角の家の奥さんと、向かいの奥さんと、もうひとり、名前を知らない人。
いちばん前の人が、紙袋を両手で差し出した。
「あのね、杏ちゃん。この前は、その、悪かったね」
「いえ」
「私たち、テレビの最初のほうだけ見てね、勝手に……」
「気にしていません」
「梨、好きだったでしょう。小さいころ、うちの庭のを」
紙袋の中で、梨が四つ、新聞紙にくるまれていた。一月に梨は出回らない。どこかで買ってきたのだろう。冬の梨は高い。
「ありがとうございます」
三人は、そろって頭を下げて、早足で帰っていった。角を曲がるまで、誰も振り返らなかった。
私は紙袋を台所へ持っていって、新聞紙を一枚ずつ外した。母が横に立っていた。
「杏」
「うん」
「お母さん、ね」
母の手が、流しの縁を掴んでいた。
「あんたが、あの家であんな目に遭ってるって、知らなかった」
「言わなかったから」
「なんで言わなかったの」
「心配かけたくなかった」
母が、私の腕を掴んだ。掴んで、額をそこに押しつけた。
声を出さずに泣く人だ。昔から、この人は音を立てない。肩だけが、細かく動いていた。梨が一つ、まな板の上で転がって、止まった。
父が居間から出てきた。
廊下の途中で立ち止まって、何か言おうとして、やめた。それから、もう一度口を開いた。
「杏」
「はい」
「……よく帰ってきた」
短い言葉だった。この人の言葉は、昔から短い。
一周目、この人はこれを言えなかった。言わせなかったのは、私だ。取り立ての電話の前で背中を丸めて、物置を片付けて、最後まで、私に何も言わないままだった。
私は、母の手を自分の手で覆った。指が冷たかった。台所の水が、蛇口から一滴ずつ落ちている。母が締め忘れたのだろう。私は手を伸ばして、締めた。
それから、二人のほうを向いた。
「お父さん。お母さん」
声が、思ったよりも普通に出た。
「もう一枚、役所に出す紙があるの」
「紙?」
「名字を戻す紙。高梨から、三嶋に」
母が顔を上げた。目のまわりが赤い。
「……いいの? そんな、勝手に決めて」
「勝手に決めていいことなんだって。誰の同意も要らないって、先生が」
父は何も言わずに、テレビのほうへ一度目をやって、それからこちらへ戻した。
「出すのか」
「出す」
「そうか」
それだけだった。それで足りた。
「三嶋杏に、戻ります」




