↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今世では、延命にサインしません  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

エピローグ 一周目の私へ

 四月から、市内の会計事務所で働いている。

 派遣ではなく、直接の契約になった。面接の日、名前の欄を書きながら手が止まる。三嶋、と書く癖が、まだ指に戻っていなかった。

 机の上の名札は、事務の人が作ってくれた。プラスチックの、いちばん安いやつだ。三嶋、の「嶋」の字が、少しだけ縦に長い。

 朝は八時四十分に着く。窓際の席で、いちばん最初に電気をつける役をしている。前の人が辞めたので、私が引き継いだ。ただそれだけの役だけれど、鍵を開ける人間には、鍵を開ける人間の顔がつく。

 隣の席は、二十四歳の女の子だ。入って二週間で、私の湯呑みの柄を覚えた。

「三嶋さん、これ、去年の分も見といたほうがいいですか」

「見といて。去年の四月に一回、やり方が変わってるから」

「うわ、ほんとだ。なんでわかるんですか」

「前にも同じところでつまずいたから」

「三嶋さん、前もこの仕事だったんですか」

「ううん。今のが初めて」

 嘘ではない。会計の仕事は初めてだ。つまずいたのは別の場所で、別のことだけれど、つまずき方に、そんなに種類はない。

「三嶋さんって、なんか、落ち着いてますよね」

「そう?」

「なんかこう、動じないっていうか」

 動じているところを、この子はまだ見ていないだけだ。見せる予定もない。


    *


 藤井さんから、ときどき連絡が来る。

 三月の終わりに来たのは、少し長いメッセージだった。

 郁恵さんのところに、去年の秋ごろから電話が来ていたらしい。息子を名乗る声だったという。事故に遭った、会社の金に手をつけた、今日じゅうに用意しないと終わる。そういう筋の話だ。

 誠が亡くなったあとも、電話は来た。来るたびに、郁恵さんは出た。

 ――誠、生きてたのね。

 そう言ったと、近所の人が聞いている。

 貯金は、ほとんど残っていないという。警察には届けたが、記録を取られただけで、それきりらしい。あの手の話は、ひと月に何件も来る。

 藤井さんのメッセージは、最後にこう結んであった。

 ――杏さん、これ、聞かないほうがよかったかしら。

 私は少し考えて、こう返した。

 ――教えてくださって、ありがとうございます。

 何もしなかった。

 できることはあったと思う。警察の窓口を調べて送るとか、消費生活センターの番号を書くとか。そのくらいなら、十分でできる。

 しなかった。

 あの人が毎月二十五万円を受け取っていたとき、誰も止めなかった。止める人がいる家ではなかった。それだけのことだ。

 沢井美月の話は、去年の夏を最後に聞かなくなった。示談金は、分割の四回目まで入って、いまは止まっている。桐生先生は、督促の手紙を出しておきますと言った。出したかどうかは、まだ聞いていない。

 誠の遺品は、通夜の翌日に全部、斎場へ届けた。ネックレスは、どこからも出てこなかった。買ったあとだったのか、買う前だったのか、私は知らない。探している人も、たぶんいない。


    *


 保険金の話を両親にしたのは、二月のことだった。

 金額を言うと、母が湯呑みを置いた。置いたきり、しばらく持たなかった。

「そんなに」

「うん」

「杏、それ、あんたのお金なんだから」

「わかってる。だから、使い道も私が決める」

 私は封筒を出した。中に入れたのは、振込用の紙と、三年前の工事の請書のコピーだ。

「家具と家電で二百三十万。リフォームが百八十万。合わせて四百十万円。お父さんとお母さんが出した分。返します」

「いらん」父が即答した。

「もらって」

「いらん」

「お父さん」

「娘に出した金を返してもらったら、何のために働いたかわからん」

 こういうとき、この人は絶対に譲らない。三十年見てきた。

 それで、私は半分にした。二百五万円を、母の名前の定期に入れた。残りの半分は、私が持っている。父は文句を言わなかった。言わないことが、この家の折り合いのつけ方だ。

 母は、通帳を仏壇の引き出しにしまった。使う気がないのだと思う。それでもいい。あの人が、自分の名前の通帳を一冊持っているというだけで、一周目と違う。


    *


 日曜の朝、実家の台所に立っていた。

 母が味噌を溶いている。今日の味付けは薄い。薄い日は、体調がいい日だ。

「杏、お鍋、下の段」

「うん」

「あんた、あの部屋、いつから」

「来月の頭。鍵もらうの、二十八日」

「駅から何分だっけ」

「十二分。歩いて」

「遠いわねえ」

「近いよ」

 父が新聞を持って入ってきて、テーブルの端に座った。座ってから、たたんだ新聞を膝に置いた。この人は、話があるときだけ新聞をたたむ。

「引っ越し、手伝うぞ」

「大丈夫。荷物ないから」

「冷蔵庫は」

「あるよ。前の家から持って帰ったの、まだ倉庫にある」

 父が、少しだけ笑った。笑ってから、新聞を開いた。

 あの冷蔵庫は、結婚のときに父と母が買ったものだ。運び出して、実家の倉庫に置いたまま、もう四か月になる。扉の裏のポケットに、賞味期限の切れたマヨネーズが一本、入ったままになっている。捨てるのは、新しい部屋に運んでからにする。


    *


 昼を食べてから、川沿いを歩いた。

 桜は、先週の雨でほとんど散っていた。花びらが、水際の泥にべったり貼りついている。ジョギングの人が二組、自転車が一台、犬を連れた老人が一人。すれ違うとき、犬のほうが私を見た。

 一周目の三月、私はこの道を歩けなかった。家から駅までの七分と、駅から職場までの四分。その十一分だけが、私の行動範囲だった。それ以外の道には、知っている顔がいる気がして出られなかった。

 いまは、知っている顔がいても歩ける。

 歩けるようになるまでに、二周かかった。


    *


 午後、不動産屋に行った。

 ガラス戸の内側に、物件の紙がびっしり貼ってある。日に焼けて、赤い字が薄くなっているものが何枚かあった。

 担当の若い人が、契約書を机の上に広げた。名前の欄、住所の欄、連帯保証人の欄。父の名前が、もう書いてある。

「では、こちらにご署名とご捺印を」

 ボールペンを受け取る。インクは出た。

 三嶋杏、と書いた。三年ぶりに、続けて書いた。

 一周目の私へ。

 そう呼びかけて、そのあとの言葉が出てこなかった。書くことはいくらでもある。あの家を出ろとか、あの電話に出るなとか、非常階段のドアを開けるなとか。伝わらないものを並べても、紙が重くなるだけだ。

 出てこないので、私は朱肉の蓋を開けた。

 三嶋、と彫られた小さな面を、朱の上で一度押さえる。

 名前の横の、丸い枠の中に、まっすぐ下ろした。


(了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。