第七章 二枚の紙
マンションの郵便受けに、宅配ピザのチラシが三枚、はみ出したままになっていた。
年末の午後二時。エレベーターの中に、正月飾りの匂いがうっすら残っている。どこかの階の誰かが、もう飾ったらしい。
私の隣で、桐生先生が手帳を閉じた。
「高梨さん。今日は、私が話します。あなたは頷くか、首を振るかだけで結構です」
「はい」
「怒ってもいいですけど、怒るなら、帰り道にしてください」
この人とは、通夜の前の日に会った。市の法律相談の窓口で三十分話して、その足で事務所についていった。四十代。髪が短く、話すときに相手の名前を必ず一度は呼ぶ。
「それと、昨日のことですけど」
「はい」
「叩いたそうですね」
「……はい」
「あれは余計でした」桐生先生は前を見たまま言った。「向こうが訴えると言い出したら、こちらの手が少し重くなります。次はやめましょう」
「はい」
「今のは叱ったんじゃなくて、段取りの話です」
エレベーターの扉が開いた。
*
部屋は、私が出ていったときのままだった。
玄関を上がってすぐの壁に、コンセントが二つ並んでいる。右側の、上のほうだけが少し黒ずんでいた。三年間、掃除機の定位置だ。夏の終わりに一度、抜くときに火花が出て、それから私は必ず右手で挿すようにしていた。そういう小さな決まりごとを、この部屋はまだ覚えている。私のほうが先に出ていっただけだ。
カーテンだけが新しい。ほかには何もない。郁恵さんは、折りたたみの丸椅子を三つ、床に並べていた。どこかから借りてきたのだろう。三つのうち一つは、脚の高さが合っていない。
「座って」
「失礼します」
「そっちが座るのはいいけど、この人は何」
「弁護士の桐生と申します」桐生先生は名刺を出した。「高梨杏さんの代理人です」
郁恵さんは名刺を受け取らなかった。受け取らないまま、その上を見た。
「弁護士なんか連れてきて、あたしを脅すつもり?」
「脅しません。お金の行き先の話をしに来ました。三十分で終わります」
桐生先生は鞄から、薄いファイルを出した。厚みで言えば、昨日のものの三分の一もない。
「まず、お母様がいちばん気にされていることから話します。誠さんが遺したお金です」
郁恵さんの肩が、わずかに前に出た。
「誠さんの口座に残っていたのは、十八万四千円です」
部屋が、静かになった。
「そんなわけないでしょう」
桐生先生は紙を裏返して、郁恵さんの側から読める向きに置いた。
「通帳の記載と、銀行の残高証明です。給料日に入って、その日のうちに二十五万円が出ていく。あとはカードの引き落としで消えます。八年、同じ形です」
「……あの子の貯金は」
「ありません」
郁恵さんの口が開いた。閉じるまでに、少し時間がかかった。
「奥さんとお母様で分けると、奥さんが三分の二、お母様が三分の一です。お母様の取り分は、六万円と少しになります」
「六万」
「はい」
「六万円?」
「六万円です」
郁恵さんは、指を折った。折ってから、折る意味がないことに気づいて、手を下ろした。
丸椅子が鳴った。脚の高さが合っていないほうだ。
「じゃあ、保険は」郁恵さんが言った。「保険があるでしょう。会社のと、個人のと」
「あります」
「いくら」
「金額は申し上げません。ただ、受取人が誰かだけ、申し上げます」
桐生先生は、ファイルの中の紙を指で押さえた。
「奥さんです。生命保険の死亡保険金も、会社から出る死亡退職金も、受取人が決まっているものは、その人のお金です。遺産ではありません。分ける計算にも入りません」
「そんな法律、おかしいでしょう」
「おかしいかどうかは、私には決められません。そうなっているというだけです」
窓のほうで、風が鳴った。カーテンは動かない。新しいカーテンは、まだ生地が固い。
郁恵さんは、私のほうを見た。はじめて、まともに顔を見た。
「あんた、それ、知ってて」
「知っていました」
「……いつから」
答えなかった。答えようがない。
「もうひとつ、こちらからお伝えしておきます」桐生先生が言った。「高梨さんは、誠さんがお母様に渡してきたお金を、返せとは言いません」
「当たり前でしょ」
「当たり前です。夫婦でも、稼いだお金はその人のものです。誠さんが自分で決めて渡した分は、渡した時点でお母様のものになりました。三年で一千万円を超えていますが、それは戻りません」
「だったら何しに来たの」
桐生先生は答える前に、一度だけ私を見た。確認の視線だ。私は膝の上で指を組んだままでいた。
「戻らないのは、生きているあいだに渡したぶんだけだからです」
桐生先生は、ファイルを閉じた。
「お母様が受け取られたのは、誠さんが働いて、使わずに我慢して、送り続けたお金です。これから出る大きいお金は、一円も行きません。順番が逆だったら、お母様が全部持っていけました」
「……何よ、それ」
「そうなっている、というだけです」
私は膝の上で、指を組んだ。
六万円。三年で千九十五日ぶんの夕飯と、数えきれない電話と、畑が痩せているという一言の総額が、六万円。
……なるほどね。
いい値段だ。
「沢井美月さんには、今日、内容証明を出します」桐生先生が次の紙を出した。「不貞の慰謝料として、三百万円。控えをお見せします」
「あの女から取るの?」
「取ります」
郁恵さんが身を乗り出した。丸椅子の脚が、床を短く擦る。
「いくら取れるの」
郁恵さんの声が、少し前のめりになった。自分の財布の話でなくなった途端、この人の目は明るくなる。
「お母様には関係のないお金です」
「関係あるでしょう、うちの誠が」
「ありません」
桐生先生は、そこで手を止めた。それから私を見る。頷く番だ。私は頷いた。
先生が、二枚の紙を机の上に置いた。
一枚目。姻族関係終了届。
二枚目。復氏届。
郁恵さんが、紙のほうへ顔を寄せた。老眼鏡は出さなかった。
「何これ」
二枚とも、役所でもらってきたものだ。昨日の朝、通夜に行く前に、私は市役所の一階でこの二枚を受け取っている。番号札は十七番だった。
「一枚目は、亡くなった夫のご親族との関係を終わらせる届です。役所に出すだけで通ります。どなたの同意も要りません」
「……同意が、要らない?」
「要りません。二枚目は、旧姓に戻る届です。こちらも同じです」
「勝手すぎるでしょう。あたしは誠の母親なんだよ。この人は高梨の嫁なんだよ」
「今日までは、そうでした」
私は、丸椅子から立った。
窓の外は曇っていた。ベランダに、私が置いていった洗濯ばさみが、まだ三つ残っている。持って帰るほどのものではなかった。
「お義母さん」
「何」
「葬儀の費用のことでご相談があれば、桐生先生を通してください。今後のご連絡も、全部そちらへ」
「あんた、お義母さんに向かって」
「あ」
私は、口の中で一度、言葉を置き直した。
三年間、毎日使ってきた呼び方だ。舌が覚えている。結婚の挨拶に伺った日、この人は「お義母さんでいいのよ」と言って笑った。あの笑い方を、私はしばらく好きだった。
「もう、お義母さんでもありませんでした」
郁恵さんの顔が上がる。
「郁恵さん。お世話になりました」
喉のつかえが、そこで外れた。音が出たわけではない。ただ、三年ぶんの何かが、一枚めくれた感じがした。
郁恵さんは何も言わなかった。言い返す言葉を探しているというより、呼ばれ方が変わったことに、まだ追いついていない顔だった。
桐生先生が立ち上がり、丸椅子を畳んで壁に立てかけた。借り物を、借りてきた形に戻す人だ。
玄関で靴を履くとき、うしろで郁恵さんが何か言った。低くて、聞き取れない。聞き返さなかった。一周目の私なら、聞き返して、三日眠れなくなっていた。
廊下は寒かった。共用部の蛍光灯が、一本だけ切れかけて点滅している。管理組合に言えば直る。言う人は、もうこの階にいない。
エレベーターの中で、桐生先生が手帳を開いた。
「役所は、年内は明日までです」
「姻族のほうは、明日出します」
「もう一枚は」
「両親に話してからにします」
「そうしてください。順番を間違えると、いちばん近い人がいちばん遅く知ることになります」
この人は、法律の話をしていないときのほうが、少しだけ声が柔らかい。
*
マンションを出たところで、私のスマートフォンが鳴った。
登録のない携帯番号。指を止める。昨日の今日で、この番号を知っている人間は、ひとりしかいない。
通話ボタンを押した。
「ねえ、ちょっと、あんた」
息が上がっている。
「話が違うんだけど!」




