第六章 振込明細
誰かが、倒れた椅子を起こした。
起こしたついでに、座った。座ったら、隣の人も座った。四十人が、少しずつ、机のほうへ椅子を寄せてくる。
通夜ぶるまいの折詰が、まだ手つかずで並んでいた。
私はクリアファイルから、一枚目を抜いた。
「これは、夫の給与明細です。去年の十一月分」
「そんなもの、見せてどうするのよ」
「お義母さん。読み上げますね。差引支給額、四十一万三千円」
会社の人たちのほうから、低い声が上がった。数字の実感があるのは、同じ会社の人間だ。
「賞与を入れて、年収は八百万円ほどです。三十四歳の営業としては、よく稼いでいたほうだと思います」
「当たり前でしょ。うちの誠は、あの会社で期待されてたんだから」
「はい。その八百万円が、どこへ行ったかという話をします」
二枚目を抜いた。銀行から届く、振込のお知らせのはがきだ。
「毎月二十五日、二十五万円。振込先の名義は――藤井さん」
私は、はがきを藤井さんのほうへ差し出した。
「お手元で、名義のところだけ読んでいただけますか」
藤井さんは受け取って、老眼鏡を出して、目を細めた。
「……タカナシ、イクエ」
折詰の並んだ机の上で、誰かの割り箸が袋の中で鳴った。
「三年ぶんで三十六枚あります。一枚も抜けていません。全部、同じ日、同じ金額、同じ名義です」
私は束を机に置いた。積むと、指二本ぶんの厚みになる。
「賞与のときは、別に振り込まれています。夏と冬で、手取りの合計が百二十万円ほど。そのうち八十万円が、同じ口座へ。給料と合わせて、夫の手取りの、だいたい六割です」
「六割……?」
「六割って、なあ」
ざわめきが、机の向こうから返ってきた。
「残りの四割のうち、毎月五万円ほどが、こちらに出ています」
私はカードの利用明細を出した。三年ぶんを、日付の順に並べてある。
「食事、ホテル、アクセサリー。名義は夫です。請求書は、うちのポストに届いていました。私は三年間、これに目を通して、家計簿に『交際費』と書いていました」
「営業なんだから、接待もあるでしょ」
「クリスマスイブに、接待はしません」
瀬尾さんが、郁恵さんのほうへマイクを傾けた。
「お義母様。この毎月二十五万円は、どういうお金でしたか」
「生活費ですよ」郁恵さんは即答した。「息子が母親に生活費を入れて、何が悪いの」
「おひとり暮らしで、ですか」
「あたしは年金が少ないんだから」
「年金と合わせると、月に三十万円を超えます」私は言った。「持ち家で、おひとりで。何にお使いでしたか」
「……貯めてたのよ」
「貯めて」
「誠のために貯めてたの。将来、あの子が困ったときのために」
私は三枚目を抜かなかった。抜く必要がなかった。
「困ったのは、二十六日の未明です」
郁恵さんの顎が、少し前に出た。
「あたしは、出さないなんて言ってないよ。一度も言ってない。取り乱してただけなんだよ。母親が、息子が死にそうなときに、冷静でいられるわけないでしょ」
「そうですね。それでは、確認させてください」
私は自分のスマートフォンを机に置いた。
「二十六日の午前三時過ぎ、病室です」
再生ボタンを押した。
――お義母さん。まだ間に合います。
――……何がよ。
――先生にお願いすれば、処置は続けてもらえます。同意書に、お義母さんが署名してください。
――なんであたしが。
――実のお母様ですから。それから、続けているあいだの費用は、お義母さんが持ってください。
沈黙が、三秒。
――あたしはお金出さないよ。妻でしょ、あんたが決めなさいよ。あたしは年金暮らしなんだから、月に一万や二万の話じゃないんでしょ。そういうのは若い人がなんとかするもんでしょ。
私は停止ボタンを押した。
その声は、肉声よりも少し高く、少し薄く聞こえた。録音というのは、人の声から言い訳の成分だけを抜いてしまう。
誰も何も言わなかった。
郁恵さんが、机の縁を掴んだ。
「編集してるんでしょ、そんなの!」
「一分二十秒、切れ目なく入っています。必要なら、元のデータをお渡しします」
「瀬尾さん」郁恵さんは首を回した。「テレビの人でしょ、あんた。こんなの流したら、名誉毀損だからね」
「音源の出所と、編集の有無を確認させていただければ、そのまま扱います」瀬尾さんは、声の高さを変えなかった。「高梨さん、後日、確認にご協力いただけますか」
「はい」
「お義母様も、ご自身の記憶と違う点があれば、あとで伺います」
「……あたしは、」
語尾が続かなかった。
*
「もうひとつ、みなさんに伺いたいことがあります」
私は椅子に座り直した。座ったほうが、話は長く聞いてもらえる。
「うちは、結納をしていません。式も挙げていません。お義母さんが、家を買ったから要らない、とおっしゃったからです」
「そうよ、そうだった」
声を上げたのは、藤井さんだった。手に、まだ振込のはがきを持っている。
「郁恵さん、言ってたわよねえ。うちの誠は家を買ってやれるから、結納はいらないって、向こうさんが言ってくださったって。ねえ、去年の法事のとき」
「言ってないわよ」
「言ったわよ。私、あのとき腹が立ったもの。うちの息子が結納金を出したのを、あんた、笑ったじゃないの。いまどきそんなもの出すなんて、気が利かない家だって」
藤井さんの声が、少し震えている。怒りというより、長く飲み込んでいたものが上がってくる震え方だった。
「それでね、うちの嫁が泣いたのよ。私、あのとき郁恵さんに何も言い返せなかった。それが、ずっと」
「何よ、今さら」
「今さらでも言うわよ」
旦那さんが、スマートフォンを構えたまま、奥さんの肩に手を置いた。
私は次の一枚を出した。
「結納の代わりに、うちの親が出したものです。家具と家電で、二百三十万円ほど。リフォームが百八十万円。振込の控えと、工事の請書があります」
紙を回した。手から手へ渡っていく。折詰の上を越え、湯呑みを避けながら、机を一周した。
「お義母さんは、家を荒らされたとおっしゃいました」
私はスマートフォンの写真を開いた。
「二十六日の朝、運び出す前です。次が、運び出したあとです。同じ角度で撮ってあります。日付も入っています」
画面を、郁恵さんの前に置いた。
「壁紙は剥がしていません。扉も、床も、そのままです。テレビ台の跡と、ソファの脚の凹みだけです」
郁恵さんは画面を見なかった。見ずに、押し返した。
「……写真なんて、いくらでも撮れるでしょ」
「では、いま、お義母さんのお宅を見てくださる方がいらっしゃれば、どうぞ。鍵はお返ししてあります」
誰も手を挙げなかった。挙げる必要がないからだ。二枚の写真は、もう全員が見ている。
「郁恵さん」誰かが言った。「あんた、荒らされたって、テレビで言ったんでしょ」
「言い方の問題でしょ!」
「言い方かねえ」
その「言い方かねえ」が、この夜、いちばん効いた一言だったと思う。
「もうひとつ、伺わせてください。あのマンションは、いつお買いになりましたか」
「……八年前」
「頭金は、どちらから」
「あたしの貯金に決まってるでしょ」
「誠さんは、就職して二年目から送金していました。八年前より、前からです。その頃の控えも、机の引き出しに残っていました」
私は束の下のほうから、色の変わったはがきを抜いた。日焼けで、紙の端が黄色い。
「二十五万円ではなく、当時は十五万円です。それでも、毎月です」
「あの子が、自分から入れてくれたんだよ」
「はい。自分から入れて、名義には一度も入らなかった」
誰かが短く息を吐いた。笑ったのだと思う。笑い方が、冷たい。
「それで、結納はなしかい」
「家を買ったから、ってねえ」
「買ったのは誰の金でだよ」
「うるさいね、あんたたちには関係ないでしょう」郁恵さんが机を叩いた。手のひらではなく、指の関節で。折詰の蓋が少し浮いた。
「誠が悪いっていうの? 死んだ子を、みんなで」
「いいえ」私は言った。「夫の話は、さっき済ませました。いまは、お義母さんの話をしています」
「最後に、もうひとつだけ」
私は封筒を出した。角の折れた、白い封筒。
「私と夫のあいだに、子どもはいません。お義母さんは、その理由を親族のみなさんにお話しになっていましたね」
郁恵さんの肩が上がった。
「うちの誠は元気なのよ、畑が痩せてるんじゃないの、と」
藤井さんが、小さく声を出した。聞いた覚えがあるのだろう。
「三年前の検査結果です。クリニックの名前と、夫の名前と、日付が入っています」
封筒から紙を出したが、広げはしなかった。
「病名までは読みません。夫のことですから。ただ、原因が私ではなかったことは、この紙に書いてあります」
「……なんで、そんなもの持ってるのよ」
「一緒に説明を受けたからです。お義母さんも、同じ日に待合室にいらっしゃいました」
郁恵さんの唇が動いた。音にならなかった。
「あのとき、体外受精をすすめられました。お義母さんは、高い、不自然だ、自然に任せなさいとおっしゃいました。そのあと、親族の集まりで、畑の話をなさった」
私は封筒を閉じて、ファイルに戻した。
「お義母さん。私はこの三年、自分のせいだと思って暮らしていました」
言ってから、少しだけ、喉の奥が熱くなった。
私はそれを、三秒で片づけた。ここで泣くと、切り取られる。瀬尾さんの忠告は正しい。
*
折詰は、結局ひとつも開かなかった。
人が帰り始めたのは、九時を回ってからだ。帰る前に、何人かが私のところへ来た。何も言わずに頭を下げた人が二人。名刺を出した人が一人。大変でしたねと言って、言ったあとで気まずそうにした人が三人。
藤井さんは、両手で私の手を握った。手が冷たかった。
「杏さん。ごめんね」
「いえ」
「私ね、知ってたのよ。全部じゃないけど、ちょっとは。知ってて、黙ってた」
「今日、話してくださいました」
「それじゃ足りないわよ」
足りないかもしれない。それでも、一周目には誰も言わなかった言葉だ。
旦那さんは、少し離れたところで、スマートフォンを見ていた。画面を何度か叩いて、こちらに背を向けて、また叩いた。
「あなた、何してるの」
「上げてる」
「上げてるって、何を」
「さっきの。全部」
藤井さんが、旦那さんの腕を掴んだ。掴んで、掴んだまま、何も言わなかった。
十時を過ぎたころ、私のスマートフォンが震え始めた。
最初は親族のグループ。次に、まったく知らない番号からの通知。それから、通知が意味を持たなくなるくらいの速さで、画面の上を流れ始めた。
開くと、見覚えのある式場の天井が映っていた。撮っているのは藤井さんの旦那さんだ。画面が揺れて、私の後ろ姿が入り、机の上の紙の束が映り、郁恵さんの声が入る。
――あたしはお金出さないよ。
コメントが、下から上へ流れていく。
この前のまとめサイトのやつじゃん。
嫁、悪者にされてたよな。
二十五万て、毎月? 三年?
畑が痩せてるって言ったの、この人?
二日前、同じ言葉づかいで、私は「恐ろしい嫁」と呼ばれていた。同じ人たちが、同じ速さで、今度は反対側に並んでいる。
……なるほどね。
風向きというのは、こんなに軽いものなんだ。だから一周目、私はこれに押し潰された。軽いものは、たくさん集まると重くなる。
礼は言わない。感謝もしない。
ただ、いまは、こちら側に吹いている。使えるうちに使う。
「高梨さん」
瀬尾さんが、片づけの終わった式場の入口に立っていた。カメラの男はもう外だ。
「明細と、録音のことですが」
「はい」
「番組で扱うには、こちらで確認が要ります。振込のお知らせは、発行元の銀行の様式と照らします。録音は、日時と、編集の有無を」
「原本をお渡しします。写しではなく」
「助かります」瀬尾さんはメモを開いた。「年明けになります。年内は、どこも動きません」
「構いません」
「もうひとつ。今の段階で番組が流せるのは、お義母様の言い分だけです。そちらは、もう流れています」
「わかっています」
「……三日、悪く言われます」
「三日で済むなら」
瀬尾さんは頷いた。それから、マイクを持っていないほうの手で、鞄の持ち手を握り直した。
「高梨さん。今日は、よく我慢されましたね」
「我慢はしていません」
本当にしていない。我慢は、一周目で使い切った。
式場の外で、郁恵さんが誰かと電話をしていた。声が高い。タクシーの手配らしかった。私が通ると、背中を向けた。
「お義母さん」
「……何」
「明日、弁護士と伺います」




