第五章 LINEの中身
式場が、音を取り戻すのに三秒かかった。
「暴力じゃないの、今の」
「警察を呼んだほうがいいんじゃ」
「お通夜だよ、ここ」
椅子が鳴り、人が立ち、誰かの数珠が床に落ちて弾んだ。郁恵さんが美月の肩を抱いて、こちらを睨んでいる。美月は頬を押さえたまま、下を向いていた。
その前に、田淵さんが出てきた。
「奥様。さすがに、これは」
「はい」
「沢井は、うちの部の人間です。高梨とは仕事の関係だけです。部長の私が保証します」
カメラの向きが、田淵さんに移った。
「二人は潔白です」田淵さんは、レンズのほうを見てから言い直した。「そういう関係では、ありません」
「課長は、二十四時間ご一緒でしたか」
「そういう問題では」
「そういう問題です」
私は鞄を開けた。
中から出したのは、右下にひびの入ったスマートフォンだった。
「高梨さん」
瀬尾さんが半歩、前に出た。マイクは下げたままだ。
「その端末は、どなたのものですか」
「夫、高梨誠のものです。事故のとき身につけていたもので、二十六日の未明に病院からお預かりしました。預かり書もあります」
「ロックは、解除できるんですね」
「はい。番号は結婚した年に、お義母さんから聞きました。お義母さんの誕生日です」
部屋の温度が、少しだけ変わった。
「お義母さん。合っていますか」
「……なんであたしに訊くのよ」
「解除されたことに、ご異存がなければ、それで結構です」
瀬尾さんがカメラのほうへ、小さく顎を引いた。合図だ。
私は画面を立てた。
いちばん上のトークは、「美月」だった。
「十二月二十四日、十八時二分。美月さんからです」
――まこっちゃん、今日ほんとに来てくれるの? わたし、もう待ちくたびれちゃったぁ。
「十八時十一分。夫からです」
――行くよ。母さんには残業って言ってある。
「十九時四十分」
――今から買いに行く。この前見てたやつ、まだあったから。
私は指を止めた。商品のリンクが貼ってある。金のネックレス。値段の表示が、画面の下のほうで切れていた。
「十九時四十二分。美月さんです」
――やったぁ。まこっちゃん大好き。奥さんにはナイショね。
誰も座らなかった。全員が立ったまま、画面を見ようとして、見えないので隣の人の顔を見ていた。
「ちょっと、今の……奥さんにはナイショって、言った?」
「言ってたよ。まこっちゃん、だって」
「まこっちゃんって、誠ちゃんのこと?」
「他に誰がいるのよ」
声の質が変わっていく。憤りではなく、面白がる方向へ。この場の空気は、正義では動かない。話の続きが見たいかどうかで動く。それでいい。私が必要なのは同情ではなく、証人だ。
「もう少し前のも読みます。十一月の分です」
――家のことはあいつが何とかするから平気。
――母さんも美月のこと気に入ってる。あいつより全然いいって。
最後の一行を読んだとき、郁恵さんが動いた。
「返しなさいよ!」
伸びてきた手を、私は肘ごと引いた。郁恵さんの爪が私の手首を擦り、細い線が三本残った。血は出ていない。
「お義母さん。いま、みなさんの前で」
「うるさい、うるさい、それはうちの誠のものなんだよ、あんたのじゃない」
「相続の話でしたら、後ほど」
藤井さんの旦那さんが、横でスマートフォンを構えていた。さっき私の腕を掴んだ手で、今は画面を私たちに向けている。撮っている。
誰も止めなかった。
「最後に、もうひとつ」
私は通話履歴を開いた。
「十二月二十四日、二十時十二分。夫から、沢井美月さんへの発信。通話時間、八分十二秒」
式場が静かになった。
「事故の通報は、二十時十九分です。警察の見取り図に、時刻が入っています。交差点の名前も」
「やめて」美月の声が、少し低くなった。
「夫は、運転しながら、あなたと話していました。信号を見ていませんでした」
「やめてってば」
「ネックレスを買いに行く途中でした」
美月が顔を上げた。
頬の赤みはもう引いている。まつげは濡れていない。濡れていたのは、たぶん最初の三十分だけだった。
「はぁ!?」声が、いきなり尖った。「誠さんが勝手に買いに行ったんでしょ、あたしのせいにしないでよ」
式場の後ろのほうで、誰かの喉が鳴った。
あたし。
さっきまで、わたし、と言っていた口だ。
「あんたさあ」美月は私を指した。「旦那に逃げられた女が、死んだあとまで絡むわけ? みっともないって思わないの」
「沢井さん」
「沢井さんじゃないっての。誠さんが選んだのはあたし。あんたは選ばれなかっただけ。それだけの話でしょ」
式場が、また静かになった。
今度の静かさは、さっきとは種類が違う。言ってしまった人間の言葉が、部屋の中で行き場をなくして漂っている。
瀬尾さんがマイクを上げた。
「沢井さん。いま『誠さんが選んだのはあたし』とおっしゃいましたが、お二人はお付き合いされていたということでよろしいですか」
「……は?」
「確認です。訂正されるなら、いまのうちに」
美月の口が開き、閉じ、また開いた。
「……そういうの、答える義務あるんですか」
「ありません」
「じゃあ答えません」
「わかりました」
瀬尾さんはマイクを下げた。下げただけで、答えなかったという事実が、部屋の全員に配られた。
田淵さんが、口を半分開けたまま、二歩下がった。二歩で足りると思っているらしい。
一周目の私が、この事実を知ったのは、離婚から三ヶ月後だった。
協議の最後の日、区役所の前で、誠が言った。おまえには言っておくけど、あの日、俺が事故ったのは、美月にネックレスを買いに行く途中だったんだよ、と。
おまえが夕飯を作って待ってた日だよ、と。
あの言葉は、その場では意味にならない。頷いて、書類を鞄に入れて、駅まで歩いて、改札を通って、電車に乗った。座席に座ったところで、手が震えて、定期券を落とした。拾ってくれた高校生に、ありがとうございますと言ったら、声が裏返った。
あのとき泣かなかったぶんを、私はそのあと一年かけて泣いた。
だから、いま、泣かない。
「お義母さん」
私は郁恵さんのほうを向いた。
「LINEには、お義母さんのことも書いてあります。『母さんも美月のこと気に入ってる』。読み上げましょうか」
「知らない。あたしは知らないよ」
「三年前の暮れに、お義母さんは私にこうおっしゃいました。男は外で遊ぶくらいでちょうどいい、と。あれは一般論でしたか」
「そんなこと言ってないでしょ!」
「言いました」
郁恵さんの視線が、私から外れて、美月に向いた。ゆっくりではなく、いきなり動いた。
「……あんた」
「え?」
「あんたが、誠を呼び出したの? あの晩、あんたが」
「はあ? 呼んでないし。勝手に来たんですけど」
郁恵さんの手が、美月の髪に伸びた。
悲鳴。椅子が二脚、倒れた。誰かが割って入り、誰かが撮り続け、喪主が同僚の髪を掴んだまま、あんたのせいだ、あんたのせいだと繰り返す。
私は一歩下がって、その全部を見ていた。
止めようとは思わなかった。ここで止めるのは、私の仕事ではない。
カメラは回っている。藤井さんの旦那さんのスマートフォンも、まだ赤いランプがついていた。
騒ぎが薄くなるまで、四分ほどかかった。
郁恵さんは肩で息をして、髪をかき上げ、喪服の襟を直した。美月は床にしゃがんで、外れたピアスを探している。田淵さんは、もう壁際まで下がっていた。
私は鞄から、クリアファイルを取り出した。
厚みで言えば、指二本ぶん。
「お義母さん」
「……まだ何かあるの」
「男と女の話は、ここまでです」
ファイルの角を、机の上でそろえる。
「お金の話は、まだしていませんよね」




